24 参考書類では、DBD、DCH、[GKC§75kk]など。
5:4-6節
119
この動詞は、ヘブライ語聖書中に170回使用され25、そのうち、創世記に23例の用例が 存在する26。約110例が神的存在に対する礼拝/崇拝の用例であり、その半数以上が他の神
/神々が意味に対するものである27。この語は、「お辞儀をする」、「拝をする」、「(地に)伏 す」などを意味する語である。
この動詞は、しばしば、他の語句と組み合わされて使用され、それによって文脈に沿っ た意味を形成することに役立っている28。しかし、ここでは、そのような意味の決定や語の 解釈の手助けとなる他の語句を伴っていないため、文脈から推定するほかない。
この言葉について、関根正雄は、「己を低くするというような言葉、礼をするという意味 の、人と人との間でおじぎをするという時に使う言葉」であると述べ、「神にやはり服従の 極を、そこで、はっきり示すということが」、「アブラハムの若者たちに向けての言葉の中 に出ている」と解釈している。そして、「この所で初めてアブラハムの言葉として、彼の信 仰が告白されている」と主張している29。
火(שׁ ֵא)
この語は、ヘブライ語聖書中に379例使用されており30、ヘブライ語聖書において広く用 いられる語だといえるが、創世記では4例のみしか見られない31。
この語は、資料5-9.下線部で示した通り、大きく二種類の訳語に分けることができる。
第一は、「火」そのものとして訳される場合であり、第二は、「種火」や「火打ち石」のよ うに「火」そのものではなく、発火を行うものとして訳される場合である。前者の訳を採 用するものとして、新共同訳、口語訳、新改訳、フランシスコ会訳〔分冊・合本〕など32が ある。また、後者の立場を取り、「火打ち石(firestone)」とするものに、NJPSなど33があ り、「〔種〕火34」としているものに岩波訳〔分冊・合本〕がある。
「火」に関して、Skinnerは、「火の起し方について旧約聖書が何も言及していないのは興 味深い」と述べている35。同様に、松田明三郎は、「古代イスラエル人がどうして火を携え
25 Even-Shoshanを参照。HALOT、Holladay、[Preuss, 1980: 249](TDOT)、[Stähli, 1997:
398](TLOT)、[Fretheim, 1997: 42](NIDOTTE)も同様。
26 [Stähli, 1997: 398](TLOT)、[Fretheim, 1997: 42](NIDOTTE)。[Mathews, 2005: 292]
も併せて参照。
27 [Fretheim, 1997: 43](NIDOTTE)。
28 [Fretheim, 1997: 43](NIDOTTE)。
29 [関根正雄、1980a:28]。
30 Even-Shoshanを参照。DCHも同様。F. Stolzによれば、378例である[Stolz,1997: 187]
(TLOT)。Holladayは380例とする。
31 [Stolz, 1997: 187](TLOT)。他に15:17、19:24、22:7(Even-Shoshanを参照)。
32 勝村、関根清三、関根正雄〔岩波・教文館〕、JB、NAB、NEB、NJB、NRSV、REB、
RV、Alter、Tribleなど。
33 木田、中沢、Speiser、Sternなど。
34 原文ママ。
35 [Skinnner, 1930: 329]。
5:4-6節
120
ているかは語られていない」と記し、マカベア記二 10:3 を参照して、マカベア時代には
「ひうち石を用いたことが記録されている」と述べている36。
この語について、Sarna は、火が三日間運ばれることは考えにくいので、火よりむしろ 火に似たものを表現していると考えられるとし、この語が「火桶(a brazier)」も表現する と指摘している37。越後屋朗は、「『たいまつ』か『火打ち石』のような発火道具か」として いる38。Fox は、「たいまつ(torch)、ないしは、燃え木(brand)」だとしている39。宮田 光雄は、「火を起こすための道具(=火打ち石)ではなく」「残り火を入れた火桶のことだ ろうと想像され」ると主張している40。デヴィドソンは、「火はおそらく火打石もしくは火 打ちの道具、火を起こすのに必要とされた道具を意味する」としている41。
このように、研究者の見解は、「火」そのものではなく、「火」に関する発火道具や「火」
を持ち運ぶ道具であることが想定される点ではおおよそ一致しているが、他方、具体的に どのような道具を指しているのかは明確でなく、具体的にどのような手段で「火」を運ん でいるのか明確ではない。
興味深いことに、創世記22章で「火」に言及されたのは、ここが初めてである。この「火 を手に取る」という表現が、「火」をつける「道具を手に持った」のか、あるいは、ここで 火をつけて、「火を手に取った」のか明確ではないと考えられる。
刃物(ת ֶל ֶכ ֲא ַמ)
このת ֶל ֶכ ֲא ַמという単語は、ヘブライ語聖書中で、創世記22章の2例(6、10節)を含め、
士19:29、箴30:14の4例のみである42。
新共同訳、口語訳、フランシスコ会訳〔分冊・合本〕など43は「刃物」と、水野、KJV、
NIV、RV、Wenhamは「ナイフ(knife)」と、新改訳、文語訳、関根正雄〔教文館〕は「刀」
と、それぞれ訳をしている。Holladayは「肉切り包丁(butcher-knife)」と説明している44。 この名詞については、刃物類であることについては研究者の見解は一致しているが、具 体的にどのようなものを指すのかについてはさまざまな主張がなされている。まず、この 語は、「食べる」を意味する√לכאから導かれる名詞であるとされる45。他方、この語の他の 用例のうち、士師記では、人間の身体を切り刻むために用いられており、箴言では「剣(ב ֶר ֶח)」 と並行法で使用されている。このため、Sarna はこの語は「大きくて重い道具」であると
36 [松田、1957:38]。
37 [Sarna, 1989: 152]。Ryleも「火(すなわち火桶)」と述べている[Ryle, 1914: 235]。
38 [越後屋、1996:61]。
39 [Fox, 1997: 94, n.]。
40 [宮田、2009:107]。
41 [デヴィドソン、1986:184]=[Davidson, 1979: 96]。
42 Even-Shoshanを参照。DCH、Holladayも同様。
43 他に、勝村、中沢など。
44 Holladayを参照。
45 [Walters, 1987: 304]。
5:4-6節
121
する46。これに対し、この名詞は、肉を食用にするために用いられるナイフを表現するため に使用される47という見解も存在する。
このように、この名詞についてはさまざまな見解が存在するが、用例が実質的に 3 例し かなく48、しかも、そこから提供される情報があまりにも少ないので、どのような大きさで、
いかなる用途の「刃物」を指しているか、明らかではないといえる。
さらに、Sarnaは、「死の道具([t]he instrument of death)」がこのma’akheletという 単語であり、「救命の代理人(the rescuing agent)」が「使い(a mal’akh)」であるとし、
この両者に、「言葉遊び(word play)」を見ている49。
彼ら二人は一緒に歩いた(ו ָּׂד ְח ַי ם ֶהי ֵנ ְשׁ וּכ ְל ֵיו)
この表現は、創世記22章で、6節dと8節cで繰り返されており、この表現によりアブ ラハム・イサク父子の会話が囲まれている。
3.ヘブライ語聖書における「三日」と創世記 22 章における文学的機能
503-4 節において、アブラハムはイサクと従者を連れて、神に示された場所を目指して旅 をする。創世記22章の読みにおいて、この旅は重要視されてきており、この旅路における アブラハムの心情やアブラハム・イサクの親子の関係について、これまでしばしば論じら れてきた。しかし、これらの考察の中において、旅路におけるアブラハムやイサクの心理 や会話に関する考察はなされてきたが、この旅路が「三日」であることの文学的意味につ いてはあまり考察されてこなかった。本節では、「三日」という表現に焦点を当てて、考察 を行っていきたい。
この「三日」という表現は、ヘブライ語聖書においてי ִּשׁי ִּל ְשׁ םוֹי「三日目」とםי ִּמָּׂי ה ָּׂשׁלֹ ְשׁ「三 日(間)」という二つの表現がある。この両者は、しばしば、解釈において、同一視されて おり51、大きな違いは存在しないと考えられる52。ここでも、両者を同一の表現として扱う ことにする。
46 [Sarna, 1989: 152]。
47 [Speiser, 1964: 163]、[Walters, 1987: 304]。
48 創世記22章の2例を一つと見做した。
49 [Sarna, 1989: 152]。
50 本節は、2012年3月に大阪:大阪キリスト教短期大学において行われた日本基督教学会 近畿支部会で行った口頭発表をもとに、補筆・修正を加えたものである。
51 C. WestermannやG. J. Wenhamなどは、それぞれの注解書で「三日」について論じて いるが、彼らはともにこの二つの語句を区別していない[Westermann, 1989: 439]、
[Wenham, 1994: 106-107]。また、Sarnaも、「三日」について用例を挙げているが、両者
を同じものとして扱っている[Sarna, 1989: 361, n. 5]。
52 Joüon-Muraokaによれば、最初の1~10までの順序をあらわす数詞には特別な形があ
るが、日や年を数えるための形式としては基数が好まれると指摘している
[Joüon-Muraoka§142o]。つまり、三日と三日目には、大きな相違はないと考えられる。
5:4-6節
122 3-1.「三日」についての研究史
上述したように、「三日」という表現は、ヘブライ語聖書において多用されるものである。
しかし、これまでそれほど多くの専門的研究がなされてきたとは言い難い。ここでは、「三 日」についての先行研究でも重要なG. M. Landesによるものと、創世記22章における「三 日」の解釈について確認したい。
(1)ヘブライ語聖書における「三日」について
まず、「三日」をめぐる数少ない研究の中でも、特に多くの研究者によって引用されるも のとして、Landesのヨナ書における「三日三晩」に関連した研究を確認しておきたい。
Landesは、ヨナ書での「三日三晩」という表現に関連して、検討を行っている。しかし、
「三日」についてのすべての用例を確認し、類型的にその意味を示すものではなかった。
(2)創世記 22 章における「三日」について
次に、創世記22章における「三日」をめぐる研究史を簡単に確認しておきたい。これま での研究では、この「三日」について言及しないものも少なくない53が、「三日」に言及す る研究者のうち、その多くが a)アブラハムの心情や服従を読み取るもの、b)三日間の旅 によってアブラハムが一時の衝動で行動しているのではないことが明らかになる、と解し ている。しかし、この二つの解釈以外にも、様々な解釈が提示されている。
a)アブラハムの心情や服従を読み取る解釈
関根正雄は、この「三日目に」という言葉が、「アブラハムの服従が始め〔ママ〕から徹底してい たことを示」していると述べ、さらに、「言い換えれば、信仰は絶対の服従」であり、「気 分ではない」と述べて「信仰はつきつめた所、神の命令に、己れを服せしめる」ことであ ると主張する。このため、「『三日目に』という四節の始め〔ママ〕は大事であ」ると語る54。 また、この「三日」にアブラハムの沈黙を読み取る解釈も、関根清三をはじめとして、
多くの研究者によってなされるものである55。
さらに、西村俊昭は、フランスのユダヤ人思想家 A. ネエルの研究をもとに、「三日」と いう期間に緊張を読み取って解釈を行っている56。このように、「三日」にアブラハムの心
53 古典的な研究者であるS. R. DriverやJ. Skinner、H. Gunkelなどは、彼らの註解書に おいて、この箇所の註解を省略している[Driver, 1907: 218]、[Gunkel, 1922: 238]、[Skinner, 1930: 329]。[西村、1981:264]、[ブルッグマン、1986:318-333]=[Brueggemann, 1982:
185-195]なども同様である。
54 [関根正雄、1980a:27-28]。
55 [関根清三、2008b:36-37]。同様の解釈は、[フォン・ラート、1993:426]=[von Rad, 1976: 190-191]、[小泉、1992:166-167]、 [鈴木、2003:35]、[大島、2004:35]などに みられる。
56 [西村、2002a:203-207]。