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Closing words: Caring for the elderly

・ In・“Conclusion”・of・her・book,・Beauvoir・wrote:・“if・we・wish・the・old・person’s・

state・to・be・acceptable”,・“it・is・the・whole・man・that・must・be・re-made,・it・is・the・whole・

relationship・between・man・and・man・that・must・be・recast.・...・A・man・should・not・start・

his・last・years・alone・and・emptyhanded”(543).・And・further:・“If・he・were・not・atomized・

from・his・childhood,・shut・away・and・isolated・among・other・atoms,・and・if・he・shred・in・

a・collective・life,・...・then・he・would・never・experience・banishment.・Nowhere,・and・in・

no・country,・have・these・conditions・obtained.・Although・the・socialist・countries・may・

have・come・a・little・closer・to・them・than・the・capitalist,・they・still・have・a・very・long・way・

to・go”(ibid.).・From・a・similar・thinking・I’m・very・interested・in・Nordic・countries・with・

welfare・and・caring・system.・It・is・also・the・reason・why・I・am・interested・in・Finland.

Notes

1 This paper was read on 18. September 2015 at the seminar for philosophy of the University of Helsinki, Finland, organized Prof. Sara Heinämaa, to whom I am deeply grateful. She gave a lecture titled “Transformations of Old Age: Selfhood, Normativity, and Time” on 25 March 2015 at Toyonaka Campus of Osaka University, in which she discussed about Beauvoir’s book The Coming of Age and the Japanese translation of which is published in this number of our journal Clinical Philosophy. I wrote this paper as a reply to her lecture.

2 Simone de Beauvoir, The Coming of Age, W. W. Norton & Company, Inc., 1996.

3 Edmund Husserl, Cartesianische Meditationen, Felix Meiner Verlag, 1977.

4 References to any volume of Husserliana will be noted with the volume in Roman numbers and pages in Arabic numbers.

自己生成のプロセスにおけるインフォームド ・ コンセント

服部・佐和子

1

・會澤・久仁子

2

・松井・健志

3

はじめに

 本論では、病を生きる人と病との関係から、個人の人生の各体験を通じてなされる自己 創造について、患者および臨床研究被験者のインフォームド ・ コンセント(知らされたう えの同意4、説明と同意5:以下 IC と略す)6を契機として考察したい。本論は、IC にお ける個人の選択を、病む人のそれまでの生の集約、あるいは、本人が後の治療や研究過程 の責任を、自分自身、および医療者との関係、法的背景において担うためのもの、とみな すだけではなく、むしろ生における一つのプロセスとして扱うことを基本的立場とする。

個人の生が、最後の一息まで展開し得るという視点から見るならば、ある時点における選 択は、その決定に従って個人の、以後一切の自己創造を制限するものではなく、むしろ自 己創造の糧となると考えられる。

 第1節で取り上げるが、フェイドンとビーチャムによれば、実際の医療および研究の現 場における患者、被験者の自律性を尊重するということは、その時点での患者や被験者の 選択を尊重する、自律的行動の尊重であり、IC はそれを表現する機会である。現場にお ける実際問題として、このような IC の意味づけを否定することは極めて困難だろう。本 論での筆者たちの意図は、自律的行動の尊重に異を唱えることではなく、病む人が選択す る、ということの背景に視線を投げることである。従って、患者や被験者が自律的な選択 が出来るようにするために、医療関係者や研究者がどのような情報を、どのような説明方 法で伝達すべきか、ということは本論の関心とはならない。むしろ、ここでの関心は、IC における患者の行動、意思表明の前提となる、自己創造する動的存在としての人間に改め て焦点を当てることである。そうすることによって、患者や被験者のそれぞれの生の段階、

状況に応じた IC の捉え方の可能性を探りたい。

 本論全体の流れは次のようになる。第1節では、フェイドン、ビーチャムによる共著『イ ンフォームド・コンセント』から、彼らの患者および研究被験者の自律性尊重の考え方を 概観した上で、実際に患者や被験者が、治療過程や研究参加の際に選択に臨むということ

について考えたい。第2節では、病む人と、患者や被験者に IC という選択および決断を 迫る契機となる病との関係について取り上げ、実際に個人が病を生きるということを巡っ て、病む人の実存についての考察を試みる。ここでは、病をただ取り除かれるべき対象と してではなく、それを生きる人の生の一部として捉えたい。特に罹患期間が長引く場合、

病は本人の生き方に影響を与えるものであり、病む人をその人生全体から捉えるとき、病 はその人を構成する重要な要素でもあると考えられるのではないだろうか。これを踏まえ て、第3節では、自己創造する存在としての患者および被験者を、病を含め、その人生全 体から捉えるとき、IC が個人の自己生成に対して果たしうる役割と、IC を複数回求める ことの必要性について考察を試みる。

1.自律的行動と自己

1-1. インフォームド・コンセント(IC)と自律的行動の尊重――R. フェイドン、T. ビー チャム『インフォームド・コンセント』から

 まず私たちは、ルース・フェイドンとトム・ビーチャムがその著書『インフォームド・

コンセント』で論じている、IC において表明される人間の自律性についての基本的な考 え方を概観することから取りかかりたい。

 IC において重視される、患者及び被験者の自律性尊重について、この著書の中では、「自 律的人間」ではなく、「自律的行動」に主眼を置いて論じられている。自律的人間とは、

自律的に選択し、行動することが出来るとみなされる人のことであるが、フェイドンとビー チャムによれば、自律的人間であっても、状況によって、例えば、病気で入院していると きなど、「新しい情報に圧倒されたり、不案内であったり、データを巧みに操作されたり して」自律的に行動できるとは言い難い場合があるという7。従って、このような状況下で、

当人が単に「自律的人間」として規定されるならば、実際には自律性の伴わない選択であっ ても、自律的行動とみなされ、本来の自律性に基づいた IC を与え損なうという懸念がある。

元々、医療現場および研究において同意の要請が生まれた理由は、「患者や被験者になる と、ふつうよりも自律的に行動しにくい4 4 4 48というものである。これを考慮すると、医療、

研究現場において、「自律的人間」から患者や被験者の自律性を捉えることは明らかに不 適当であろう。他方、「非自律的人間」とみなされる人の場合も、常にではないとしても、

自律的行動が可能であるという9・。

 フェイドンとビーチャムによれば、ある人が次の三つの条件、を満たして行動したとき にのみ、その行動は自律的なものとみなされるという。即ち、個人が「1」・意図をもって、

2)・理解して、3)・何かの影響下になく」1011決定した場合である。しかし、これらに条件 付けられた自律的行動は、「実質的な(substantial)」ものであり、二人は、IC において、

選択の根拠としての、当人の価値観の熟考による自律性の真正性(authenticity)は自律 的行動の条件には含めていない12。その理由は、彼らが人格自律の尊重を重視しないから ではない、という。もし選択に臨んで、個々人の価値観について熟考する必要があるとす ると、個人の同意や拒否などの選択が自律的とはみなされない事態に陥り、道徳的な問題 が生じる可能性があるというのである。例えば、彼らはエホバの証人の輸血拒否について 言及している。この患者が、輸血は受けない、という自分の信念について、それまで熟慮 したことがなければ、自律的とはみなされないことになる。そして、「この人の好みは、

そこに尊重さるべき自律性がないゆえに当然のごとく4 4 4 4 4 4変更を強いられ」13、本人の選択は 尊重されない。尤もこの場合、個々人の価値観の再検討や熟慮の程度及びその仕方を、つ まりそれが確かに「真正」であるということを、一体誰がいかなる方法で見極められるの か、という問題が生じるだろうことも想像に難くない。その際、患者の扱いは、恐らく他 者の判断に委ねられることになり、患者は「真正の意思決定」に変更するよう強いられる ことになり得る14。これは、患者に輸血をして生命を維持することが、その患者にとって の利益である、と考える「善行モデル」として捉えられるが、患者の生命の危機は回避さ れても、他者の支配的な干渉によって、患者の自律性は損なわれることになる。

 このような理由から、フェイドンとビーチャムは、行動自律に留まり、実際に選択する 人とその他の人々との間に距離を保っており、確かに、二人の主張する行動自律尊重とい う見解には、肯んずることの出来る点が多い。例えば医療現場において IC を与えること は出来るものの、早期の処置を必要とする患者で、本人のそれまでの人生を吟味する時間 的余裕が無い状況であれば、IC を得る際、行動自律の尊重は、対応する医療関係者にとっ て重要な指針となり得る。当然ながら、実際に個人の信念を他者が推し量るには限界があ る。私たちが、どのように他者の人格を尊重し、本人が自ら選択し、人生を創造できるよ うにと望んだとしても、その他者の人生および価値観に厳密性を求めるならば、これはい わば自律性の「強要」であり、結果として当人の人格の自律性を否定することになるだろ う。従って、行動自律の尊重は、これまでの人生を担う人間としての当人への信頼とも呼 べるかも知れない。

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