シャーンタラクシタのTS第2偈及びCap冒頭における対論者の前主張への反論(TS870 偈)を注釈するTSPの中で、カマラシーラはbhavasaMkrAntisUtra (BhSS185)末尾第2偈 を引用する。
<資料4.1.a> TSP[12:11-13]TSP[275:27-28]
yena yena hi nAmnA vai yo yo dharmo ’bhilapyate / na sa186 saMvidyate tatra dharmANAm sA hi dharmatA //187
それぞれの名称によってそれぞれの方が言語表現される。
それはそこには存在しない。それが実に諸法の法性である。
BhSS末尾第2偈は、『瑜伽師地論』(YogAcArabhUmi )『菩薩地』(BodhisattvabhUmi,BBh) の「真実義品」(TattvArthapaTalam)にはすでに三種の聖典中の一つとして引かれており188、 ヴァスバンドゥ(Vasubandhu)も大乗経典を仏説として読むための規定を示した『釈軌論』
(VyAkhyAyukti, VyY189)において、他のBhssの偈とともに言及する。中観派のバーヴィヴェ ーカは『中観心頌』(MHK)や『般若灯論』(PP)において唯識批判を行い、BhSS2偈を引用
185 袴谷[1977]BhSSについて書誌学的解題や成立と系統、各論書や注釈書への引用(菩薩地に対する Sagaramegha注、TJ,TSPなど)について述べられている。また和訳及びPitaputrasamAgamasUtra (チベット 訳)との対照テキストも得られる。
186 TSP[12:11-13]ではnAsau
187 末尾第2偈のサンスクリットはBBhからも得られる。MHKのサンスクリットMHK(S),Shriant S.Bahulkar[1994]The MadgyamakahRdyakArikA of BhAvaviveka A photographic reproduction of Prof.V.V Gokhale’s Copy. SaMvASA,No.15.は字句に若干異なりが見られる。この点については、池田[1995(a):195]
の注(3)を参照。TSPに見られるBhSSのチベット訳2箇所は以下の様になっている。
TSP.k2 TSP.chp16
ming ni gang dang dag gis / ming ni gang dang gang gis ni / chos ni gang dang gang brjod pa / chos ni gang dang gang brjod pa / de ni chos rnams chos nyid do / de ni de na yo min te /
de ni de la yod ma yin / de ni de rnams chos nyid yin /
些細な字句の異なりはいくつか見られるが特に顕著な違いはc句とd句の順番が入れ替わっていること であろう。他の論書に引用されるチベット訳(BBh.VyY.TJ.PP)のc句d句と比べても分かるように、標準 的なのは16章の方であるが、それもdharmaにあたるchosがない。一方、TSP2偈の方は、chosを訳し ている。末尾第2偈の漢訳の問題については、袴谷[1977]に考察されている。また江島[1992:91-92]
注(35)ではc句のsaをnAmaでとり、 tatraをdharmaで読んだものと、それらの解釈が明確でないものと で漢訳BhSSの2偈の系統分けを行っている。
188 BBh15章TattvArthapaTalam(真実義章)。この章については、相馬一意[1986]がある。
189 VyYについては山口益[1973]、松田和信[1985]参照。
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する190。他方で、バーヴィヴェーカを批判したとされるダルマパーラは、別の立場から『大 乗百論釈論』においてこれを引用する191。BhSS第2偈はこのように TS,TSP以前から中 観・唯識の論師達により、その立場に応じて引用されてきた。そして各論師や著作におけ るBhSS引用の問題については、これまでの先学による研究が蓄積されている。本章では、
これらの点についての先行研究を参照しつつ、シャーンタラクシタ・カマラシーラがBhSS をどのような立場で引用しているのかという点について、TS,TSP冒頭の聖典引用部分を中 心に考察したい。
4.1.1「真実義品」四種の真実における認識手段とavayavArtha
周知のようにTS,TSPにおけるディグナーガ、ダルマキールティの影響力は多大である。
しかし、この聖典引用部分には、また異なった文脈を予想させる場合がある。それは、こ の16章に対応するTS,TSP 2偈にも見られる。対論者はTSP 2偈において、仏教徒が様々 な限定要因を否定するのであれば、縁起もまた語と分別の対象とはならなくなる点を指摘 し、またどのようにして世尊が〔縁起を〕説いたのかという点を問いただす。TSP[11:25-27]
その場合、対論者が用いるのは(Cabdavikalpa)「語と分別(知)」という表現であり、これ は第16章の対論者とも共通する。しかしTSP2偈の場合、カマラシーラも対論者と同じく
「語と分別(知)」(Cabdapratyaya)と並列的に用いるのである。
<資料4.1.1.a >
ApopitAkAretyAdi / Aropito bAhyatvenAdhyAropita AkAraH svabhAvo yasya Cabdapratyayayor gocarasya sa tathoktaH AropitAkAraH Cabdapratyayayor gocaraH visayo yatra pratItyasamutpAde sa tathotaH /192
〔仏教側の反論〕は「増益された形象云々」である。増益とは外界〔の対象〕と して付託増益された本性をもつ形象であり、語と分別知の対象にとって〔増益さ れた形象があるとき〕それがそのように述べられる。「増益された形象」は語と知 の領域対象である。その場合、縁起に関してそれ(増益された形象)がそのよう に言われている。
本稿 2.4で指摘したように、シャーンタラクシタ・カマラシーラはCap において、基本
的にCabda-pratyayaのような語・知識の組み合わせを「語にもとづく知」という意味で用
いる。これは同じCabda-pratyaya(語・知)〔場合によってdhI-dhvani知・語〕を用いても、
それを「語と知」と解釈できる対論者とは対照的であり、そこにはディグナーガ以来の認
190 江島[1992]はバーヴィヴェーカのMHK第15章、PP第25章において行われた唯識批判が、ダル マパーラの『大乗広百論釈論』第8章において反映され、さらにバーヴィヴェーカが『大乗掌珍論』にお いて再批判した経緯と、その際のBhSS末尾第2偈の重要性を述べ、MHK、PP、『大乗広百論釈論』の それぞれの関係について考察し、該当箇所の訳出を行っている。池田[1995a]はMHKとTJの立場的な 違いがみられる部分に注目し、バーヴィヴェーカがBhSSを引くのはその矛盾を唯識側につきつけるため であるとする。
191池田[1995b]では、ダルマパーラがバーヴィヴェーカを批判し、BhSSについて『菩薩地』とは異な った解釈をとっており、それは三性説の変化を表すという点を指摘している。
192 [D 142b7]sgro btags pas rnam zhes bya ba la spgs pa smos te / sgro brtags pa ni phyi rol nyid du sgro btags pa’i rnam pa’i rang bzhin sgra dang shes pa’i spyod yul gang la yod pa de la de skad ces bya’o // rten cing ’brel par ’byung ba gang la sgro brtags pa’i rnam pa sgra dang shes pa’i spyod yul gyi yul yin pa de la de skad ces bya’o//
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識論の背景193も見られたわけである。またその「語にもとづく知」は、本稿2.1-2.3でみた ようなダルマキールティの誤謬知・語知に関する文言としての判断(adhyavasAya)と、共 伴して文言を形成していた。ところが(資料4.1.1.A)も含めavayavArtha の中のTSP2偈 相当部分では、Capでアポーハ論擁護のために活用されたダルマキールティのadhyavasAya を用いた文言や、その文言の要素であった「語にもとづく知」が活用されるべき状況であ るにもかかわらず、用いられていないのである。
ここで考えられるのは、この聖典引用の文脈がディグナーガ・ダルマキールティの認識 論の文脈に支配されず、何か別の論議を前提としている可能性が考えられる。そこで、BhSS 第2偈の引用を手掛かりとして検討してみたいのが、『菩薩地』である。『菩薩地』「真実義 品」では四種の真実194のうちの一つ、「道理極成真実」について言及する部分で、認識手段 について現量・比量・聖言量の3つを説いてる。この「道理極成真実」など、四種の真実 は後の問題とも深く関わるため、ここでそれらについて参照しておく。
<資料4.1.1.b > 世間極成真実BBh(W)[37:8-21]BBh(D) [25:6-14]
tatra laukikAnAM sarveSAM yasmiM vastuni saMketaMvRtisaMstavanAgamapraviSTayA buddyA darCanatulyatA bhavati tadyathA pRthivyAM pRthivyaiveyaM nAgnir iti / yathA pRthivyAM evam agnAv apsu vAyau rUpeSu CabdeSu gandheSu raseSu spraSTavyeSu bhojane pAne yAne vastre alaMkArpoavicAre bhANdopaskare gandhamAlyavilepane nRtyagItavAditre Aloke strI puruSaparicaryAyAM195 kSetrApaNagRhavastuni / sukhaduHkhe duHkham idaM na sukhaM sukham idaM na duHkham iti / samAsataH idaM idaM nedam / evaM idam nAnyatheti niCcitAdhimuktigocaro yad vastu sarveSAM eva laukikAnAm paraMparAgatyA saMjJayA svavikalpaprasiddaM na cintayitvA tulyitvA upaparIkSyodgRhItaM / idam ucyate lokaprasiddhatattvaM /
[試訳]さて、〔世簡極成真実とは何か。196〕すべて世間一般の人々には、その〔個々 の〕事物について共約や世俗、習慣に付き従い入り込んだ知による共通理解があ る。例えば、地について「これは地であり火ではない」ということである。地〔の 場合〕と同様に、火・水・風・色声香味触・食物・飲物・車・衣服・荘厳具・食 器・香料・華鬘・踊り・歌・楽器・照明・女性の従順・土地・市場・家屋といっ た事物についても同様である。楽や苦〔についても同様であり〕、「これは苦であ り楽ではない」、「これは楽であり苦ではない」。これらをまとめて言うならば「こ れはAであり非Aではない」、「これはこのようにあり、他ではない」という決定 された思いこみの領域があり、すべて世間一般の人々にとって漸次におこる自ら の分別において認められるものであるが、考察し、思慮し、観察して獲得された ものではないもの、これが「世間極成真実」と言われる。
193 この点については拙稿藤井[2003:103]において考察した。Cap冒頭(867.868偈)についてのTSPに は、対論者(VidhiCabdArthavAdin)と仏教側(ApohavAdin)の見解が示される。両者は共にCabda -pratyayaを用 いるにも関わらず、対論者側のそれは、「語と知」というように並列的にで読め、仏教側は「語にもとづ く知」と格限定的に読める可能性があることについて、Capの論証式や総論部分を中心としてチベット 訳・Jha訳も参照しつつ検討し、ディグナーガとクマーリラの場合を例にとり、両者間のいわゆる量の数
(プラマーナ観)の違いがこのCabda-pratyayaの読み方の違いに反映していると結論づけたものである。
194 BBh(W)[37:4-7] BBh(D)[25:3-5]sa punar tattvArthaH prakAraprabhedataC caturvidhaH / lokaprasiddho yuktiprasihhaH kleCAvaraNaviCuddhijJAnagocaraH jJeyAvaraNavisuddhijJAgocaraC ca.
[20b5-6]de kho na’i don de yang rab tu dbye na rnam pa bzhi ste / ’jig rten gyi grags pa dang / rigs pas grans pa dang nyon mongs pa’i sgrib pa rnam par dag pa’i shes pa’i sbyod yul dang / shes bya’i sgrib pa rnam par dag pa’i shes pa’i sbyod yul lo //
[大正30,486b]此真実義品類差別復有四種。一者世間極成真実。二者道理極成真実。三者煩悩障浄智所
行真実。四者所知障浄智所行真実。
195 大正[30:486b]男女承事
196 大正[304:486b]云何世間極成真実--。この点については相馬[1986]の注(2)を参照。
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<資料4.1.1.c.> 道理極成真実BBh(W)[37:8-22-38:1]BBh(D)[25:15-19]
yuktiprasiddhatattvaM katamat / satAM yuktArthapaNDitAnAM vicakSaNAM tArkikANAM197 mImAMsakAnAM tarkaparyApannAyAM bhUmau sthitAnAM svayaM pratibhAnikyAM pArthagajanikyAM mImAMsA anucarityAm pratyakSam anumANam AptAgamaM pramANaM niCritya suviniCcitajJAnagocaro jJeyaM vastUpapattisAdhanayuktyA prasAdhitaM
vyavasthApitam / idam ucyate yuktiprasiddhaM tattvaM198
[試訳]「道理極成真実」とは何か。智者達・論理の意味をよく知る人々・聡明な 人々・論理的に思考する人々・考察する人々・尋伺の地に住する人々・自ら弁論 を有する人々・凡夫位の人々・考察に従って行ずる人々の事である。現量・比量・
聖言量の認識手段により、よく決定された知の領域があり、知られるべきものに ついて、証明する論理により成立し、確立したもの、これが「道理極成真実」と 言われる。
<資料4.1.1.d > 煩悩障障浄智所行真実BBh(W)[38:2-38:17]BBh(D)[25:20-26:8]
kleCAvaraNaviCuddhijJAnagocaras tattvaM katamat / sarvaCrAvakapratyekabuddhAnAM anAsraveNAnAsravAvAhakena cAnAsravapRSThalabdena ca laukikena jJAnena yo
gocaraviSayaH /idam ucyate kleCAvaraNaviCuddhijJAnagocaras tattvaM / tenAlambanena kleCAvaraNAj jJAnaM viCudhyati / anAvaraNatve cAyatyAM saMtiSTate / tasmAt
kleCAvaraNavisuddhijJAnagocaras tattvam ity ucyate / tat punas tattvaM katamat / catvAry AryasatyAni / dukhaM samudayo nirodho mArgaC ca / ity etAni catvAry AryasatyAni pravicinvato ’bhisamAgacchato ¥’bhisamAgateSu ca tajjJAnam utpadhyate sa punaH satyAbhisamayaH CrAvakapratyekabuddhAnAM skandhamAtram upalabhamAnAnAM skandhebhyaC cAnyam arthAntaram AtmAnam anupalabhamAnAnAM
pratItyasamutpannasaMskArodyavyayapratisaMyuktayA pratijJayA skandhavinirmuktapudgalAbhavadarCnAbhyAsAd utpadyate.
[試訳]「煩悩障浄智所行真実」とは何か。全ての声聞と独竟にとって、無漏〔智〕
と無漏を引き起こすものとして、無漏〔智〕の後に得られた世俗智により〔得ら れる〕領域・対象、これが「煩悩障浄智所行真実」と言われる。この対象により、
智が煩悩の障害から完全に浄化され、将来的に障害のない状態となる。従って、「煩 悩障浄智所行真実」であると言われる。またその真実とは何か。〔それは〕苦・集・
滅・道の四聖諦である。これら四聖諦を考察し、かつ現観している人は、現観し た後々においてこの智が生じる。またこの諦(真実)の現観というものは、声聞 や独覚が諸蘊のみであると見て諸蘊から異なった対象として我を見なければ、縁 起によっておこった行の生と滅に対する智慧により、蘊とは別のプトガラの非存 在を見ることが反復習修によって起こる。
<資料4.1.1.e > 所知障浄智所行真実BBh(W)[38:18-28]BBh(D)[26:9-15]
jJeyAvaraNaviCuddhijJAnagocaras tattvaM katamat / jJeye jJAnasya pratighAta AvaraNam ity ucyate / tena jJeyAvaraNena vimuktasya jJAnasya gocaro viSayas
tajjJeyAvaraNAvisuddhijJAnagocaras tattvaM veditavyaM / tat punaH katamat / bodhisattvAnAM buddhAnAM ca bhagavatAm dharmanairAtmyapravesAya praviSTena suviCuddhena ca sarvadharmANAM nirabhilApyasvabhAvatAM Arabhya
prajJaptivAdasvabhAvanirvikalpajJeyasamena jJAnena yo gocaraviSayaH / sAsau paramA199 tathatA niruttarAjJeyaparyantagatA yasyAH samyak sarvadharmapravicayA nivartante200
197 cf .MVB[42:10]yat satAm yuktArthapaNditAnAM tArkikAnAM. MVB[42]の注ではチベット訳がこれらの後に
mImAMSakAnAM を挿入する点を指摘している。この点については、葉阿月[1975:564]にも述べられてい
る。
198 BBh(D).-m
199 BBh(W)本 sa sauparamA をBBh(D)本により訂正。
200 相馬[1986:124]注(9)参照。BBh(D)[26:15]nivartate を採用。