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第 3 章 概念設定

Ⅱ A・ヴィリオンの紹介する日本キリシタン殉教史

――『日本聖人鮮血遺書』と「映画『殉教血史 日本二十六聖人』――

第二部で詳しく述べる事になるが、津和野キリシタンの「殉教」に影響を与えたA・ヴ ィリオン(Villion, Aimé 1843-1932年)は『日本聖人鮮血遺書』を著した。正確には、

彼が毎週教会で語った「日本の殉教者」に関する説教を、加古義一が筆記したものである205。 内容は、フランス人レオン・パジェス(Pagés, Léon 1814-1886年)206の Histoire des vingt-six Martyrs Japonais, Paris, 1861.(邦訳『日本廿六聖人殉教記』)207とHistoire de la religion chrétienne au Japon depuis 1598 jusqu’à 1651, Paris, 1869-70.(邦訳『日本 切支丹宗門史』)208とが基になっており、その内容は、当時の日本人に殆ど知られていな かった16世紀の「日本二十六聖人殉教物語」であった。松崎實は『日本聖人鮮血遺書』

が世に認知されていく経緯について次のように説明している。

鮮血遺書が有名になつたのは矢張り内田魯庵の「貘の舌」が大正九年の秋に讀賣新聞へ 連載された時からであらう。氏は同随筆中の「切支丹迫害」の條下に浦川[和三郎]氏の

「公敎會の復活」とこの「鮮血遺書」とをあげて、此二書はバイブルよりも感動せしめ

204 池田敏雄『津和野への旅 長崎キリシタンの受難』、中央出版社、1992年、60頁。

205 松崎實『考註切支丹鮮血遺書』、改造社、1926年、10頁。『日本聖人鮮血遺書』に関しては第二部第 1章で詳述する。

206 レオン・パジェスは、パリ生まれの外交官・東洋学者。L’univers誌の共同編集者であったが、北京公 使館付として北京滞在中に東洋額に関心を持ち、特に熱心なカトリック教徒としてキリシタン研究に 力を注ぎ、『シャヴィエル書簡集』2巻(Letters de S.F.Xavier, 1855)を著した。又、日本書誌学の 先鞭をつけたものとして『日本図書目録』Bibliographie japonais ,59)を編纂した。更に、キリシタ ン版『日葡辞書』の改編である『日仏辞書』(Dictionnaire Japonais-Français, 68)の編纂を行うな ど、キリシタンの史的研究の基礎を築いた。(日本キリスト教歴史大事典編集委員会編、『日本キリス ト教歴史大事典』、教文館、1988年、1108頁。「パジェス」の項目、執筆者は海老沢有道)

207 レオン・パジェス、松﨑實校註『日本廿六聖人殉教記』(木村太郎訳)、岩波書店、1931年。

208 レオン・パジェス『日本切支丹宗門史(上・中・下)』(吉田小五郎訳)、岩波書店、上中巻1938年、下 1940年。

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るとまで云はれた。その記事が出ると間もなく、當時カンダの三才社に少しばかり殘つ てゐた「鮮血遺書」が大抵賣れて了へばそれぎりで、今では日本國中探し歩いても精々 手に入るのは六版のもの位で、初版再版などは拝みたくとも拝めないと云ふ事である。209

この松崎の説明から鑑みて、同書が有名になったのは内田魯庵の新聞の連載によるもの であることだが、どのような理由であれ、少なくとも第六版以上も重版されている事実か ら鑑みて、日本国内にそれなりの冊数が出版された事が窺える。

だが、当時の「キリシタン殉教」理解に最も影響を与えたと思われるのは、このヴィリ オン著作(『日本聖人鮮血遺書』)を原著とした『殉教血史 日本廿六聖人』という日活映画 作品(1931年に作成・上映)である。1931年9月1日の『キネマ旬報』(411号)210に よると、「版権所有及び映画製作権者平山政十」「原作ホイヴェルス博士」211、更に出演者 は「山本嘉一」と、特別出演として「片岡千惠藏・澤田清・伏見直江・山田五十鈴」であ った。又時代を反映して「伊太利宰相・ムツソリーニ閣下特別御出場」とあり、更に、御 後援「羅馬教皇ピオ11世聖下」、御賛助「内閣總理大臣男爵若槻禮次郞閣下・前内閣總理 大臣濱口雄幸閣下・政友會總裁犬飼毅閣下」など、錚々たる名前が挙げられている。同映 画のクレジットには「原著ヴィリオン」とあり、この意味について山梨淳は「「原著者」と は、ホイヴェルスが、この本を参照しつつ、映画の脚本を作成したという意味」212である と述べている。この映画の規模は、撮影は半年、出場人員が15000人、撮影費30万円、

ロケ地はイタリアのローマであったことも記されており、実に大掛かりな映画である213。 この作品は、題目の通り、16世紀末の長崎二十六聖人についてのドキュメンタリー的な映 画であり、キリシタンたちが徐々に「殉教」していく様子が描かれている214。同作品の実 際の映像は部分的にしか残っておらず、スチール写真が保管されているのみであり、観客 の入りは悪くなかったということが分かるだけで、その内容は明らかではない、という215

209 松崎實、前掲書、5頁。

210 小松弘、牧野守監修、佐藤洋編集(復刻版)『キネマ旬報』(第411~415号)、文生書院、2012年、

122頁。

211 ヘルマン・ホイヴェルス(Heuvers, Hermann 1890-1977年)、上智大学(上智学院)第2代学長 としてのみならず、文芸の面でも活躍した。「ホイヴェルス」日本キリスト教歴史大事典編集委員会 編『日本キリスト教歴史大事典』、教文館、1988年、1276-7頁。同項目の執筆者は尾原悟。

212 山梨淳「映画『殉教血史 日本二十六聖人』と平山政十 一九三〇年代前半期日本カトリック教会の 文化事業」、『日本研究』(第41集)、国際日本文化研究センター、2010年、190頁。

213 小松弘、牧野守監修、佐藤洋編集、同書、122頁。

214 小松弘、牧野守監修、佐藤洋編集、同書、127頁。

215 日活株式会社 映像事業部門 版権営業部 管理業務チームの谷口公浩氏からの調査回答による。(2017

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1931年11月11日の『シネマ旬報』(418号)には、本映画の批評が掲載されている。こ れを書いたのは北川冬彦という映画評論家であり、彼自身はこのような宗教映画を好んで おらず、作品自体に対する評価は低いものであるにせよ、制作規模の大きさについてはそ れなりの評価をしていると言える。

キリスト教の日本に於ける殉教史を描いた長篇もの。朝鮮のカトリック教徒やローマ法 王などの後援を受けたり、・・・・・・多勢の俳優をうごかしたり、ともかく大がかりの作品 だ。これはいまゝでの池田富保のやり方で、ともかく懸命につくってゐることだけは觀 取出來る。しかし、このいまの時代に、どう云うわけでこんなキリスト(ママ)殉教史を、こん なにも大ゲサに描いたのか。その眞意は、わからんでもない。いや、判りすぎるほど判 つてゐる。が、僕にとっては、このやうな宗教映畫は緣がない。緣がないどころかこの やうな映畫の存在は断然否定さるべきだ。・・・・・・この映画は、結局、人々の眼をセット やロケーションや出演俳優の人數で、くらます程度のもので、脚色や監督手法は、平々 凡々たるものだ。がつちりと、手堅い手法ではあるが、これと云つた創意は、どこをさ がしても見られない。ただ、一生懸命やつてゐる。結局、この映畫は、キリスト教徒の ためにつくられたものといふ外はない。キリスト教徒にとつては、有難いものだらう、

ことに、廿六人が十字架上で殉教するあたりはたまらないものなのだらう。が、僕は一 向感動しないのだ。觀客はどうであろうのか、聞き度いものである。216

このように、北川自身の評価は明らかに低いものであるが、映画のスケールの大きさだ けは評価されている。同作品パンフレットに作品の一場面として掲載されている写真は、

二十六人の信徒たちが横一列に並び、高さ3mもあろうかという十字架に全員が縛られて 磔にされ、槍で突き刺されようとしている構図である217。このような典型的な「殉教者」

のイメージと重なるような場面が、本編の至る所に現れてくるのではないかと想像される。

この作品について、前述の『シネマ旬報』では「興行價値――すばらしい大がゝりな宣傳、

それの効果が一番聞いてゐると思ふ」218と評価されており、宣伝的な効果があったことを、

919日。E-mailによる回答)。

216 小松弘、牧野守監修、佐藤洋編集(復刻版)『キネマ旬報』(第405~421号)、文生書院、2012年、

87頁。

217 日本活動写真『殉教血史 日本廿六聖人』、1931年、1頁。

218 小松弘、牧野守監修、佐藤洋編集、前掲書、87頁。

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作品の意義として挙げている。同映画の原著書が『日本聖人鮮血遺書』であった理由とし て、山梨は「この著書が、大正末期からのキリシタン時代に関する一般の興味の高まりと ともに、日本キリシタン史の代表的著作として人口に膾炙されていたため、興行上の宣伝 効果の観点から、その知名度の高さが評価されたため」219と述べる。更に、平山政十の「日 本二十六聖人」の事績に関する知識は、「他の多くの時代者と同じく」220ヴィリオンの『日 本聖人鮮血遺書』を通して得られたものと推測される。つまり、ヴィリオンの同著作は「戦 前、恐らく最も広範な読者を獲得し、一般に名前を知られた書物であった」221と言われる ように、1930年代前半頃に一般的に広がっていた「日本聖人二十六聖人」観は、ヴィリオ ンの『日本聖人鮮血遺書』に負う部分が多く、そこに示された「殉教」の場面、或いは「殉 教観」が当時の日本に浸透していたと確実に言えるだろう。

平山政十が、同映画作品を制作した理由として「伯父守山甚三郎の「迫害話し」と甚三 郎の信仰態度にあった」222事が挙げられる。浦上キリシタンの家系に生まれた彼は、フラ ンスの教育系修道会が経営する、長崎の英仏語専門学校(後の海星学園)223で学び、外国 人修道士の教育を受け、フランス語と英語の基礎知識を身につけた。その後1905年から5 年間にマルセイユに留学し、朝鮮に移住して父親が始めた牧畜事業を行なっていた224。軍 国主義化していく日本社会において、キリスト教徒への偏見が強まる中、平山は同映画作 品によって、それらの偏見が払拭されることを目的としていた。つまりこの映画は、プロ パガンダ的作品として制作された作品であった225と言える。これは、聖人伝に対する信仰 的称賛のみならず、「大和魂の美徳を極度に発揮した性格」226を、二十六聖人の「殉教」

に見出した平山政十の「殉教観」が現れた作品という意味も持っている。1930年代初頭の カトリック教会で、キリシタン殉教の日本人的な性格が強調されていたことに関しては、

山梨は「当時の日本人信徒が、自己のアイデンティティをカトリシズムの普遍性の中に解 消させることなく、自らの「日本人」性を積極的に訴えることによって、国民として日本

219 山梨淳、前掲論文、190-1頁。

220 山梨淳、同論文、191頁。

221 山梨淳、同論文、189頁。

222 平山政十の父平山政吉は、甚三郎の妻タキの弟に当たる。池田敏雄『キリシタンの精鋭 津和野乙女 峠の受難者たち』、中央出版社、1972年、264頁。

223 創立者はフランス人マリア会員ジャック・バルツ。1892(明治25)年、海星学校として設立され、

1903(明治36)年に海星商業学校、1911(明治44)年、海星中学校に改組。1948(昭和23)年に

学制改革により、海星高等学校、海星中学校となる。

224 山梨淳、前掲論文、183頁。

225 山梨淳、同論文、180頁。

226 山梨淳、同論文、194頁。