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ドキュメント内 本研究の意義とその成果 (ページ 92-109)

3) A pervading and permanent thing (vyāptinitya), if existing, cannot produce an effect because it is unable to restrict the effect to a particular place and time.

From this theory of causality, one can evolve the ontological distinction between the individual and the universal, and, moreover, conclude the theory of impermanence:

4) Only the individual (svalakṣaṇa) is causally efficacious (arthakriyāsamartha) and therefore real (sat). A pervading and permanent thing such as the universal (sāmānya) is causally inefficacious and therefore unreal (asat).

5) Because a pervading and permanent thing does not exist in reality due to its lack of causal efficacy, all existents are exclusively impermanent (anitya).

This is my conclusive analysis of the cores of the Sautrāntika philosophical system.

第3部 「無常」の比較思想学的考察

(1)インド人と日本人の無常観について

日本人の無常観が、むしろ「無常感」ともいうべき情緒的なものだということはしば しば言われてきた。中世の文学作品に代表される詠嘆的な無常感の吐露は、その代表で ある。だが、それが仏教を通して広まった概念であるにせよ、人の死とこの世の栄枯必 衰はインドであれ日本であれ、同じように繰り返される営みである。それにどのように 向き合い、それがもたらす苦悩を越えるのか。いつの時代もどこの地でも、人に与えら れた課題なのである。インドの原始仏典の中で語られる無常は、過酷な現実であると同 時に、精神的に越えねばならない対象である。それを嘆くより、それと対峙し、強い心 をもつことが求められる。やがて思想的発展と共に、無常は論理的に証明され、考察さ れる思惟の対象ともなっていく。インドにおいても、無常を嘆く文学的表現はないわけ ではないし、その人としての悲しみの深さに違いはない。しかし、インドでは、それは 常に宗教的生き方(修行、信仰)を促す契機として登場する。こうした点で比較してみ ると、日本人が描いてきた無常は、無常そのものの耽美的詠嘆にとどまっている場合も 確かにあるであろう。だが、多くの人はやはりそれを契機に出家するなど、宗教的生き 方を選んでいる。日本人が文学的表現を好んで用いるとき、そこには、変え難き現実の 苦悩の言葉による昇華があったのではないだろうか。また、武士の社会では、生き死に は日常であり、死への覚悟を固めるために、無常観があっさりと語られることがある。

「無常」という概念の受容も多様なのである。以下に掲載する論文は、2004 年に行っ たハーヴァード大学のBuddhist Studies Forum(3月22日)、カルフォルニア大学のロ サンジェルス校(9月20日)、ヴァークレー校(9月23日)における講演"Listening to a Stanza on Impermanence: Indian and Japanese Insights into a Fundamental Buddhist

Doctrine"の改訂版であり、『仏教文化』(44号、東京大学仏教青年会、2005年)に発表

したものの再録である。

(2)論文 祇園精舎の鐘の声に無常偈を聞く

吉水千鶴子

(一)

「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことわり をあらわす。おごれる人も久しからず、只春の世の夢のごとし。たけき者も遂にはほろ びぬ。偏に風の前の塵に同じ。」『平家物語巻第一、祗園精舎』

今日もなお多くの日本人が諳んじているこの『平家物語』冒頭の一節は、祗園精舎の 伽藍図を説明した『祗園図経』という経典の伝承にもとづいている。「祗園精舎」は「ア ナータピンディカがジェータの園に建てた精舎」(祗樹給孤独園精舎)を指し、当時の 大国であったコーサラ国の首都サーヴァッティー(シュラーヴァスティー、舎衛城)郊 外にあり、現在の北インド、サヘート・マヘートに遺跡が発見されている。インドでは、

雨季になると草木、虫などを踏み殺すことが多いとして修行者たちは雨季を一箇所に定 住して過ごす。ブッダは弟子たちとともに、ここ祗園精舎で最も多くの雨季を過ごした と伝えられ、事実、初期仏典には「ブッダが祗園精舎におられたとき」という場面設定 が多い。サーヴァッティーの長者スダッタまたの名をアナータピンディカ(給孤独、孤 独な人に食を給する人という意味)が、王子であったジェータから譲りうけた土地に、

住居を建ててブッダとその弟子たちに提供したので、このような名前となった。

この祗園精舎に鐘があったかどうかはわからない。祗園精舎の遺跡から直径四センチ ばかりの風鐸が発掘されたという報告があるが、『祗園図経』のインド原典は現存せず、

中国撰述である可能性が強いので、中国人の想像であるかもしれない。1祗園精舎には、

無常堂という名の堂があり、四隅に頗梨(はり、水晶)の鐘がついていた。その鐘の音 は諸行無常の偈となって響き、病気の僧の苦しみを癒し、極楽浄土へ生まれんと願わせ るという。2この話は、念仏往生を説く浄土教のさきがけとなった平安時代の僧、源信 の『往生要集』の青蓮院写本に言及があり、3これをとおして中世の日本に広まったと 考えられている。『平家物語』の作者も、この『祗園図経』の伝承に日本的な鐘のイメ ージを重ねたのであろう。しかしながら、この鐘の音に聞こえる無常偈とは、まぎれも ない古代インドから伝えられた詩である。それは紀元前四-三世紀に編纂されたもっと も古い仏典であるパーリ語『阿含経』相応部、長部の中の『涅槃経』などに登場する。

「諸々のつくられたものは実に無常である。生じ滅びる性質のものである。それらは 生じては滅びる。それらの静まるのが安楽である。(諸行無常、是生滅法、生滅滅巳、

寂滅為楽)」4

1 大正新修大蔵経四五巻一八九九番。この経典は祗園精舎の建物の配置、祭られた仏像の配置を述べるも のである。唐の高宗は、都、長安に玄奘三蔵のために西明寺という寺を創建したが、それはインドの祗園 精舎を模したものといわれる。この経典は、あるいはその建立に関わるものか。奥書には、天台宗の円珍

(八一五―八九二)が唐から日本へ持ち帰ったとある。

2大正新修大蔵経四五巻八九三。

3 『往生要集』(岩波日本思想体系六、一九七〇)四九頁。

4『ブッダ最後の旅』(涅槃経)、中村元訳、岩波文庫一六〇頁、『ブッダの真理のことば(ダンマパダ)、感 興のことば(ウダーナヴァルガ)』中村元訳、岩波文庫一六一頁参照。

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日本人は、この偈を漢訳の『大般涅槃経』をとおして親しんだと思われる。5そこでは、

ブッダの前世の姿である雪山童子が、自分の命と引き換えにこの偈を聞きたいと望んだ という物語から雪山(せっせん)偈とも呼ばれている。『平家物語』にいう「沙羅双樹 の花の色」も『涅槃経』にもとづく。ブッダが息を引き取ったとき、咲いていた沙羅双 樹の花が色褪せて、散ったという。これはブッダを失った人々の悲しみを象徴すると同 時に、人間ブッダにも花にも共通する諸行無常の真実を語るものであろう。だがブッダ はその生前にすでに無常なものへの執着を捨て、迷いと苦しみのない安楽な境地を実現 し、その死をもって完全な涅槃に入り、この無常が支配する世界に決して再び輪廻する ことはない永遠の楽を得たのである。無常を嘆くことではなく、無常の真実を知り、こ の涅槃の境地を実現することに仏教の核心はある。

さて、紀元前にインドで説かれた諸行無常の偈がいかに日本人に親しまれていたかを 示すいまひとつの事例が「いろは歌」である。戦前まで、日本人はこの歌で手習いをし ていたが、これは真言宗の伝統では弘法大師作とされ、6 諸行無常偈の翻案であると言 われている。

「いろはにほへとちりぬるを(色は匂へど散りぬるを=諸行無常)わかよたれそつね ならむ(我世誰ぞ常ならん=是生滅法)うゐのおくやまけふこえて(有為の奥山今日越 えて=生滅滅巳)あさきゆめみしゑひもせす(浅き夢見じ7酔いもせず=寂滅為楽)」

「色」とは花の色であり、ここでは花そのものを指すが、仏教では形を含んだ目に見え るものの総称であり、「諸行」すなわちすべての作られたものを代表する。これは「諸 行無常」のヴィジュアル化であり、色と匂いをそこに与えている。第二節では「生じ滅 するもの」として、具体的に「人」が示される。ものも人も無常である。そして第三節 にいう「有為」とは「諸行」「すべての作られたもの」に他ならない。その「有為の奥 山を越えていく」すなわち厳しい修行をへて目覚め(悟り)へ到ることを、「いろは歌」

は山道を歩む人の姿として主体的、絵画的に描く。花の色、匂い、深山、山道、そこを 歩く人の息遣い、汗、そして覚醒というひとつのストーリー、一枚の絵ができあがって いる。

このように日本の平安末から鎌倉時代にかけての中世文学は、無常の姿を生き生きと 描き出し、血と肉を与えた。有名な『方丈記』の冒頭「ゆく河の流れは絶えずして、し かも、もとの水にあらず。」、蓮如上人の御文より「されば朝には紅顔ありて、夕には白 骨となれる身なり。」8などを挙げるまでもなかろう。こうした無常という観念の絵画的 表現は十一世紀初めに編纂された『和漢朗詠集』あたりから頻出し、流行したようであ る。近代日本の知識人たちはここに日本人の美学を見た。唐木順三は、「無常を語る場 合、きわだって雄弁になり、それを書く場合、特に美文調になるという傾向がきわめて 顕著であるということが、日本人のひとつの特色といってよいであろう。…日本人は無 常を、無常世界観、無常観として考える以前に、無常感としてまづ共感し、その共感を、

5 大乗仏教系の涅槃経である。チベット語訳と漢訳のみ現存する。大正新修大蔵経三七四-三七六番。

6 弘法大師空海によって中国より伝えられた梵字悉曇は日本語の五十音の設定に影響を与えたと考えられ ているが、平安時代には四十七音からなる「いろは歌」に先んじて、四十八音からなる「あめつちの歌」

も作られた。「天、地、星、空、山、川、峰、谷、雲、霧、室、苔、人、犬、上、末、硫黄、猿、生ふせよ、

榎の枝を、馴れ居て。「いろは歌」は実際には空海よりも後の平安時代末期に作られたと考えられている。

7 当時の綴り字では清音と濁音の区別がなく、ここは「ゆめみし」とあり、「夢を見た」という過去の意味 か、「夢を見ない」という否定の意味か、ふたつの解釈が可能であるが、否定で理解するのが一般的である。

8『御文』五―十六「一生過ぎ易し。(中略)我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず。おくれ 先だつ人は、木の雫、末の露よりも繁しといへり。されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。

すでに無常の風来りぬれば、すなはち二つの眼、たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むな しく変じて、桃李の装を失ひぬるときは、六親、眷属集まりて嘆き悲しめども更にその甲斐あるべからず。

さてしもあるべき事ならぬばとて、野外に送りて夜半の煙と果てぬれば、ただ白骨のみぞ残りけり。

ドキュメント内 本研究の意義とその成果 (ページ 92-109)

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