第1節 はじめに
カントは『判断力批判』の目的論的判断力に関する議論の中で、反省的判断力の働きを、
私たちの外的世界に当てはめてみることを主張した。136そこから見てとることのできる世 界の諸相は、有機体的世界と言えるものであって、それ以前の世界の機械的連関とは異な る姿を、私たちに提示するものであった。さて、外的世界を有機体的世界として捉える―
―すなわち、目的の相で捉える、ことは、私たちの目の前に広がるものを、そのような観 点から見ることに留まることはなく、自ずと私たち自身を目的の相で捉える議論を引き起 こすものである。私たち人間は、当然のことながら他の動植物と同様に、私たちの眼前に 広がる有機体的世界の一構成要素である。しかし、その一方で、人間は一構成要素であり ながらも、有機体的世界を構成する主体であると言うことに留意しなければならない、と いうことである。
多様な被造物のすべては、どれほど大きな技術的な仕組みをもち、どれほど合目的的 に互いに関係しあう多様な連関をもっていても、(中略)もしもこれらのうちに人間(理 性的存在者一般)が存在しなければ、なにもののためにも現存しないであろう、言い 換えれば、人間が存在しなければ、全創造は単なる荒野であり、無駄であり、究極目 的をもたないであろう137
ここで、カントが提示していることは、私たち人間が存在しなければ、そもそも有機体 的世界は存在することは無い、ということである。こうした、有機体的世界の一構成要素 でありながらも、その世界を構成するという人間の独自な立ち位置は、それでは私たち人 間の目的は一体何であるのかという議論を引き起こすものと考える。カントに即して言う ならば、それは最終目的(letzter Zweck)と究極目的(Endzweck)に関する議論を惹起すること になるのだが、これら両目的の内実の検証と、異同の確認から、『判断力批判』の付録「目 的論的判断力の方法論」(以下「方法論」)の議論は始まるものと言える。以下、本章を通 じて、『純粋理性批判』『実践理性批判』では、不十分であった私たち人間と神の直接的な 結びつきを考察するものであるが、その結びつきの媒介を為す最高善に関する議論を確認 していくことが自ずと議論の中心となる。しかし、ここで留意せねばならないことは、カ ントの最高善に関する議論は、「方法論」によって初めて展開されている訳ではないという ことである。周知のように、カントは『実践理性批判』に於いて、最高善に纏わる議論を 展開し、そこから神の導出を試みた。もし仮に、「方法論」に於ける最高善の議論が、『実 践理性批判』の中で論じられたものとその内実を同じくするのであれば、『判断力批判』が それ以前の二批判書の不十分な点を補うことは不可能となり、ひいてはカント三批判書の 体系を瓦解させる要因ともなりうるのである。138こうした点に留意しながら、まずは、最 高善の内実の比較を通じて、「方法論」に於ける神の導出経緯が、それ以前のカントに於け る議論のものとは異なるということを論じていきたい。また、神の導出の議論は、ただ単 に神が存在することを論じるだけではなく、自ずとその議論は私たち人間と神との関係を 検証する方向に向かう。言わば宗教へと向かうその議論は、「方法論」の範疇からはいささ
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か逸脱するものであると考えられるが、神の導出から宗教へと転じるに際しての、導入的 な議論も行っていくことになるだろう。
第2節 『実践理性批判』に於ける最高善と神の導出に関して
『実践理性批判』の中で展開される最高善の議論は、私たち人間の両義性に基づいて行 われていると言ってよい。すなわち、『純粋理性批判』に於いて論じられた、感性界と叡知 界の両方に跨る人間が、実践理性(私たちの自由な意志の能力)に基づいて行為した場合、
何を目指すのかということである。カントは、感性的存在としての存在であり、かつ感性 界を超えた高次の使命を持つ人間の目標としての最高善を提示している。
人間は、感性界に属しているかぎり、満ち足りるということのない[存在]者であり、
(中略)しかし、人間は、そうだからといってまったくの動物ではなく、理性が自前で 語るあらゆることに無関心で、理性をもっぱら感性的[存在]者としての自分の必要 を満たす道具としてのみ用いている、というわけではない139
感性的な人間の本性と、理性的な人間の本性の統一を図るに際して、その方法は前者が後 者を包摂する、後者が前者を包摂する、そして前者と後者が対等な関係で結合するという 三つの方法が考えられよう。その際、第一のものは、議論の対象にならないことは言うま でもない。というのも、感性的なものに全てを委ねると言うことは、人間の理性的な有り 様を滅却し尽くしてしまうものであるからである。さて、第二の方法を検討することにな るが、結論先取的に論じるのであれば、この方法は、カントがストア学派(der Stoiker)的と して否定しているものであると言えよう。ストア学派が論じる最高善は、最高善を構成す る道徳と幸福の関係が分析的関係にあり、理性的な人間の本性が、感性的な人間の本性を 呑み込む構造を成しているのである。
ストア学派によれば、幸福の感情はみずからの徳の意識のうちにすでに含まれていた
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幸福と道徳性とが最高善の要素でありながら種的に全く異なったものであり、それゆ え両者の結合は分析的に認識することができない141
それでは何故、カントがストア学派の考えを斥けるのであろうか。それはカントが私た ち人間が感性的本性に基づき、自らの幸福を追求することが必要不可欠であると捉えてい たから、ではないかと考える。
幸福の原理を道徳性の原理からこのように区別することは、そうはいってもただちに 両者を対立させることではない。純粋実践理性が欲しているのは、幸福への要求を断 念すべきであるということではなく、ただ義務が問題となるやいなや、幸福にまった く心を向けてはならないということだけなのである。しかもある観点からすれば、自 分の幸福を気遣うことは義務でさえある142
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「義務が問題となるや…」の件は、カントの最高善思想をストア学派的と思わせるのに 十分な箇所ではあるが、注目するのは、むしろ「自分の幸福を気遣うのは義務」という部 分であり、ここにカントが、ストア学派とは異なり、私たち人間の感性的な本性を重視す る姿を表していると思われる。また、カントの最高善思想とストア学派のそれを区別する 場合、最高善がどのようにして実現されるのかという観点における両者の違いにも着目す べきであろう。ストア学派が最高善をこの世の人生の中で見出すことを主張したのに対し、
カントは、一人の人間の一生を超えた、言わば永遠の追求の中で最高善は見出されるべき ものと考えていたのである。
エピクロス(Epikur)もストア学派も、一生において徳の意識から生ずるような幸福を何 にもまして賞揚したからである143
われわれの考え[カントの考え――引用者]では、最高善とは理性がすべての理性的
[存在]者に掲げるそのあらゆる道徳的願望の目標であるが、その最高善の可能性を、
はるか彼方に、すなわち知性界との結合のうちに求めなければならない144
ともあれ、上述したようなストア学派への批判を通じて、カントは自らの最高善思想を 展開している訳であるが、幸福という感性界に属するものと、道徳という叡知界に属する ものを総合するに当たって、カントが持ちだす概念が神であると言えるだろう。『実践理性 批判』に於いては、神の属性について語られる箇所は見受けられないが、カントが神に全 能の意を持たせ、幸福と道徳という相異なるものの総合を神に委ねたということは想像に 難くないのである。145さて、こうして展開された最高善に関する議論は、神の導出に至り、
その結末を迎えるに至るが、もう尐し詳細に最高善によって実現されるべきその幸福の内 実について検証してみたいと考える。
カントが、私たち人間の幸福の追求を重んじていたことは、先に見てきたことではある が、ではその幸福と言うものは一体どのようなものであるのだろうか。
幸福とは、この世界における(in der Welt)理性的[存在]者にとってその存在の全体に ついて一切のことがその希望と意志のとおりになるといった状態146
幸福の原理は、たしかに格率[行動方針]を与えることができるが、しかし、仮にひ とが[自分のみならず]普遍的な[万人の]幸福を客体としたとしてみてさえ、意志 の法則となりうるようなものをつくりなすことは決してない。(中略)また幸福にかん する各人の判断ははなはだしく各人各様の見方に左右され、くわえてその見方そのも のも時に応じてさまざまに移り変わる147
こうしたカントに依る議論を確認していくならば、ここで論じられている幸福は、まさ に感性的な世界で考えられ(in der Weltとあるように)、また主観的な幸福であると言えるで あろう。カントが『実践理性批判』を通じて論じようとしたことは、感性的・主観的幸福 を構成要素とする最高善と、その実現のための神の概念の要請と考えられるのである。