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10月25日の「男性が女性になってお嫁に行った奇妙な話」の記事では、徐々に身体がおか しくなり、女になってしまったので、手術をしなければならなかったことと、性転換手術を 受ける理由について紹介している。これを見ると、当時、新聞で紹介された性転換手術が必 ずしも仮性半陰陽に限られたものではないということが分かる。
同性愛については、主にアメリカの事例を紹介する記事が多く、「高官、変態性欲者多数」
(1950.5.22)でも、ワシントンの公務員の同性愛の現状について紹介している。記事によ ると、ワシントン警察は、公務員の中で変態性欲者が約1,500人存在し、その中で同性愛者 が約400人いると報告している。他の記事でも、合意による同性愛を禁止するという合衆国 裁判所の報告について紹介している(東亜日報、1976.3.30)。1966年3月4日の記事には、
恐喝団が同性愛に陥ったアメリカの著名人を 10 年間苦しめてきているという記事18が掲載 された。この記事によると、脅迫を受けた人の中には恐喝団に莫大なお金を払った人もいる し、この恐喝事件について証言を求められた陸軍の高官は自殺したと述べながら、同性愛に ついて否定的に説明している。
セクシュアル・マイノリティを対象とした研究が行われたのは1980年代からであり、当 時書かれた論文を通してもセクシュアル・マイノリティに対する社会の認識について見る ことができる。
イ・ヒチュンは、「春園小説の同性愛に関する考察」(1988)で、同性愛をテーマとする春 園の小説19「愛なのか」と「尹光浩」の二本を用いて、なぜ、作家が同性愛をテーマとした のか、その小説が示唆するものは何か、文学の中で描写する同性愛と作家自身の伝記的事実 とはどのような関連性があるのかについて精神分析学的な観点から分析している。その結 果、精神分析学的な観点からみると、同性愛は精神疾患の一つである性倒錯症であるが、春 園を単なる性倒錯者とみなすことには留意する必要があると述べている。小説の中で見ら れる春園の同性愛経験は3回にわたって現れている。そして、その同性愛欲求に潜在してい る無意識の背景について3点を分析している。まず、一点目は、貧困と孤独による少年時代 の孤児のような経験が愛情欲求になり、それが現実の窮乏と挫折感にぶつかったときに心 的カタルシスの形として表現されたのが同性愛だという解釈である。二点目は、「愛したい 自分」と「愛されたい自分」の両価的自我透視の結果が同性愛であるという解釈である。こ れは分身的な自分の姿を通じて自分が自分を愛することであるナルシズム的要素に結びつ いている。三点目は、同性愛は男性が父親を憎み、母親に対して抱く性的愛着であるエディ プスコンプレックスに由来するという解釈である。また、エディプスコンプレックスは、春 園小説の特徴的な要素である放浪、自然愛、ナルシズムなどを通じて表現される広範なコン プレックスの原型に当たると分析している。
18 東亜日報(1966年3月4日)「同性恋愛高官を狙う、恐喝団が脅迫行為」
19 春園は作家の号、春園李光洙の同性愛をテーマとした韓国最初の現代小説である(イ・ジュラ
ン、1998)。
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現在はセクシュアル・マイノリティ運動によってセクシュアル・マイノリティに関連する 研究が多く行われ、資料なども増えているが、セクシュアル・マイノリティ運動が本格的に 始まる1990年代以前には、セクシュアル・マイノリティに関する資料が少なく、記録もほ とんどなかった。そのため、ここでも主に新聞記事に頼って韓国のセクシュアル・マイノリ ティに対する社会の認識について検討してきた。
その結果、セクシュアル・マイノリティに対して当時の社会がいかに無知であったのかが 明らかになった。セクシュアル・マイノリティの姿は新聞記事を通して1920年代から確認 することができるが、セクシュアル・マイノリティについて書かれた記事のほとんどが正確 なデータを根拠に作成されたものではなく、セクシュアル・マイノリティを「変態」、「異常 な者」、「性倒錯症」など、否定的に捉えるものであった。
第2節 セクシュアル・マイノリティ当事者の無知と不安
第1節で見てきたように、韓国社会における同性愛についての社会的認識が否定的だっ たことを考えると、当事者自ら自分がセクシュアル・マイノリティであるとカミングアウト して組織を結成することは非常に困難な環境にあったことは間違いない。しかし、この時期 は、カミングアウトどころかセクシュアル・マイノリティの存在すら社会に知られておらず、
セクシュアル・マイノリティ本人でさえも自分のことについて異常であると考えていた。異 性愛主義の社会のなかで生まれ、異性愛主義中心の教育を受けてきた者が、同性愛に対して 否定的なイメージを持つのは不自然ではないと考える。セクシュアル・マイノリティに関す る情報も、自分と同じ処遇の人に出会った経験もほとんどなかったセクシュアル・マイノリ ティたちは、周りの人々と異なる自分に対する違和感を解消できず、常に不安を抱えながら 生活せざるを得なかった。したがって、当時のセクシュアル・マイノリティの活動は人の目 を避けながら行われていた。韓国初のセクシュアル・マイノリティ人権団体「チョドンヘ」
が組織される前の1990年以前のセクシュアル・マイノリティの活動については、活動家や 新聞記事、雑誌、セクシュアル・マイノリティ団体が出した報告書などに頼ることになる。
本節では、主に「韓国同性愛Ghetto、汚辱と汚名の年代記」(イ・ヒイル、1998)、「韓国レ ズビアン・コミュニティの歴史」(ハン・チェユン、2011)、『韓国レズビアン人権運動史』
(イ・へソル、1999)の内容を参考・援用し、当時のセクシュアル・マイノリティたちが自 分たちのことをどのように認識し、どのように生活をしていたのかについて見ていく。
韓国でセクシュアル・マイノリティによる活動が見られるようになった時期を確定する のは難しいが、上述の資料によると1950年代からゲイの活動が見られる。日本による植民 地支配からの解放以降のゲイの姿は明洞の「ドンミョン劇場」で見られる。現在では鍾路、
梨泰院などの地域にゲイが集まる場が存在するが、当時はゲイが集まるところは人目に付 かないほどに暗い劇場であったとされる。その後も中区明洞の「ギョンドン劇場」、城東区 往十里の「グァンム劇場」などが次々と登場した。
当時の「ドンミョン劇場」の雰囲気について、韓国初のゲイとレズビアンの雑誌『BUDDY』
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の編集委員であったイ・ヒイル(1998 a)はインタビューを通して、次のように描写してい る。
私の記憶で<ドンミョン>が最初だった。多分解放されてちょっと時間が経ってから だよな。その劇場は明洞にあった。昔の新世界デパートの屋上、そう! そこにあった。
後に火災でなくなるまでずっとそこにあった。…(中略)…もちろん昔も今もやり方は 同じだった。恋愛というのが時代によるものか。映画は見るやら見ないやら、立ってい るやら相手探すやら、そうするうちに目が合ったら近くのどこかの旅館や森の中に行 って、セックスをした。それでも<ドンミョン>はちょっとましなやつらが出入りしてい たようだ。そこは明洞じゃないか。繁華街だったから、なかなか立派な建物も多く、百 貨店もあり、ああだからさ、ネクタイのやつらも結構いた。実は私が最初出会った男も、
スーツを着たれっきとした中年男だった。
「劇場の歴史:立っている人々」(イ・ヒイル、1998 a:45)による
この話から確認できるように、1950 年代のセクシュアル・マイノリティによる活動はほ とんどがゲイによる活動であり、ゲイたちの出会いは主に明洞の百貨店などのある繁華街 を中心として形成された暗い劇場の中で行われていた。なぜ、ゲイの集まる劇場が1950年 代から明洞で、さらに百貨店付近を中心に形成されたのだろうか。その理由について、イ・
ヒイル(1998 a)は、韓国経済の構造が1960年代末に輸出産業型に変わる前までは生活必 需品をはじめとして商品のほとんどを外国から調達していたため、外国人商人たち(特に、
同性愛者)の頻繁な来韓が百貨店を重点において行われたからだと述べている。
今のようにセクシュアル・マイノリティが集まる場が多様ではなかった1950年代におい ては暗くて人目に付かない劇場は、匿名の出会いを求めたゲイにとって最適の場所であっ たと考えられる。1960 年代には、劇場の他にもターミナルのトイレや南山公園、サウナな どが出会いの場となっていたが、これらの共通点は人々の目を避けて密かに出会いと性的 交渉が可能であったという点にある。
匿名の存在が集まるターミナルでは、主にトイレを利用した出会いが行われていたが、具 体的には、トイレの壁に「同性愛をする人を探しています」というメモを残すと、それをみ た人が連絡をすることで出会いが成立し、性的交渉までが可能になるやり方であった。ター ミナルは見ず知らずの人々が集まる場所であり、たとえそこで何が起きても近所から非難 される恐れがなかったため、匿名でなければ自分の欲望を表わすことができなかったセク シュアル・マイノリティにとってトイレというところは欲望を満たす最適の場所であった とされる(イ・ヒイル、1998 b)。
イ(1998)は、もう一つのゲイのゲットー(Ghetto)である南山公園の歴史について、明