大阪毎日新聞社の海外視察員として、芥川龍之介は 1921(大正 10)年 3 月 19 日に東京を発って中 国への旅路についた。途中で発熱し、大阪で一週間ほど滞在したため、正式に中国の上海に到着し たのは 3 月 30 日である。上海に到着して以降の日程と路線は、表 8 と図 102 で示された通りである。
表 8 中国旅行の日程
日付
日程
3 月 30 日 上海到着。万歳館に宿泊 4 月1 日〜23 日 乾性肋膜炎で里見病院に入院2
4 月 23 日〜5 月1日 退院後、上海城内を見物、中国有名人と会見 5 月1 日〜5 日 杭州で見物(西湖や秋瑾墓など)
5 月5 日〜8 日 上海で休憩し、本を買い込む 5 月8 日〜11 日 蘇州で見物(寒山寺)
5 月 11 日〜12 日 鎮江を通過し、揚州で見物 5 月 12 日〜14 日 南京で見物(秦淮や市内など)
5 月 15 日〜16 日 上海に戻り、胃痛で診察を受ける 5 月 17 日〜24 日 蕪湖、九江、盧山で見物
5 月 26 日〜30 日 漢口で見物(黄鶴楼)
5 月 30 日〜6 月 1 日 長沙に着き(洞庭湖、女子師範学校で排日運動に遭遇)
6 月1 日〜6 日 漢口で滞在し、游記執筆の困難を『大阪毎日』の学芸部長薄田に報告 6 月7 日〜11 日 洛陽に到着(龍門石窟を見物)
6 月 14 日〜7月 10 日 北京で見物、有名人(辜鴻銘、胡適)と会見 7 月 10 日〜7月 12 日 天津で見物
7 月 12 日 天津から帰国の途に着く。途中で奉天、釜山(朝鮮)を経由する
(注)『支那游記』3をベースに、そして張蕾『芥川龍之介と中国 受容と変容の軌跡』4を参考にして作成
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図 103 中国旅行の行程図(『芥川龍之介全集』第十九巻の「注解」部分より5)
生まれてはじめての海外旅行だけあって、旅行の日程を充実したものにしようとしたことがうかがえる。
また、芥川が中国旅行を行った 1921 年4 月〜7 月という期間は、1921 年五・四運動6が終息に近づき、
中国共産党が結成される前夜7という時期であった。民族運動が盛んなこの時期において、芥川は中 国で何を見たのであろうか。
4 月上海に着いてから、20 日余りは病院で治療を受けたため、実際に中国見物ができたのは、23 日 からだといえる。上海での滞在時間は最も長いが、病院で過ごす時間が半分を占め(23 日間)、観光 は一週間だけになっている。次に長く滞在したのは北京で、滞在時間が 1 ヵ月に達している。ほかに 江南地域の旅は 1 日から 4 日のペースで行われ、主に上海を拠点に往復していたのである。また、長 江地域での見物で漢口の観光は最も長く、合計 10 日間に達している。
以上各地における滞在時間をまとめて考えると、まさに芥川は旅行前で『毎日新聞』の薄田泣菫8へ
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の手紙で書いたように、「上海を中心とした南の印象記」と「北京を中心とした北の印象記」を書くため のように時間配分を行ったといえる9。旅行の手配、つまり各地方の案内者や宿泊については、次の表 10 にまとめている。
表 10 中国旅行の案内者及び宿泊状況10 地名 案内者(接待を含めて) 宿泊
上海
村田孜郎11
トーマス・ジョンズ12 友住君13
余洵14
万歳館
杭州 村田孜郎 新々旅館
蘇州 島津四十起15
島田太堂16 不明 揚州 高洲太吉17 高洲の家 南京 中国人案内者、
五味18 不明
蕪湖 西村貞吉19 西村の社宅(唐家 花園)
漢口 水野20
宇都宮五郎21 水野の家
北京
中野江漢22
波多野乾一23、松本鎗吉
24、辻聴花25
不明
天津 常磐ホテル
(注)『支那游記』(改造社、1925年初版)、『芥川龍之介全集』第八巻、第十九巻(岩波書店、1996年)を ベースに作成
上記のように、案内者は概ね新聞関係者や中国研究の学者で、芥川の中国旅行は本格的な取材旅 行だという性格が感じ取れる。そして、宿泊先は個人経営の一般レベルのホテルで、そして日本人経 営のところが主となっている。
しかし、旅行の成果をまとめる『支那游記』は、前述したような上海と北京の両地を中心に「南の印
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象記」と「北の印象記」というふうに綴られたのではなく、上海、江南地域、長江地域そして北京という四 つの部分にわけて、地域ごとに記述される形になっている。
具体的な掲載状況について、「上海游記」は『大阪毎日新聞』(1921 年8 月17 日〜9 月12 日)におい て、「江南游記」も同じく『大阪毎日新聞』(1922 年 1 月 1 日〜2 月 13 日)において連載されていた26。 それに対し、「長江游記」27は『女性』第 6 巻第 3 号(1924 年 9 月 1 日)において、「北京日記抄」は『改 造』第7 巻第6 号(1925 年6月1 日)においてそれぞれ一回ずつしか掲載されていない28。「上海游記」、
「北京日記抄」は、大別して地方景観の印象記、観劇記、そして中国名人との会見記などという内容と なっており、そして「江南游記」、「長江游記」は概ね名所の印象記となっている。1925(大正14)年にお いて、全紀行を収録した『支那游記』29が出版された。『支那游記』には、4 篇の掲載紀行がまとめて収 録された上、「前置き」や「雑信一束」のような内容も新たに加えられていた。本稿は、著者が入手でき た 1925 年初版の『支那游記』(以下『游記』と略す)を考察対象とする32。
第2節 先行研究の現状と検討方法について
『游記』で描かれた中国について、現代の研究者によって様々な考察が行われてきた。まず、日本 側の先行研究について、2000 年以前のものを考えてみると、『支那游記』に対する評価は概ね芳しく ない。その中で、吉田精一の論説が代表的である。吉田氏は『芥川龍之介』36において、『支那游記』
は「支那の現在や将来を深く洞察し得たものではない」と評価している。彼の論説に影響された研究が 多く、内村剛介は「未熟と成熟--上目づかいの「支那游記」 (芥川竜之介--新しい評価軸を求めて)」37 において、芥川は中国で自身に対する「絶縁体の新文化」に接した際に、「それにどう対応すべきかを しらない」ので、「求めた。会った。書いた。しかしそれだけである」と、芥川が革命中の中国に対する 態度を批判している。さらに、和田博文は「芥川の上海体験 (特集:芥川龍之介--モダン=現代とは何 か)」38において、芥川は下層の中国人対し、「嫌悪感を催すだけ」で、「上海への拒否感情をはっきりと 表している」と論じている。
一方、『芥川龍之介全集』、『芥川龍之介事典』の編集に携わった関口安義は「中国旅行—芥川龍之 介の道程(九)—」39、『芥川龍之介とその時代』40や『芥川龍之介の歴史認識』41などにおいて、芥川の游 記をベースにして緻密な考察を行った。2004 年までの論考では、関口氏は中国旅行が芥川の「期待 を裏切った」旅と結論づけたが、芥川の全体的な中国観をまだ明確にまとめていない。しかし、2012年 で出版された『芥川龍之介新論』において、関口氏は「当時の日本の検閲制度を考慮」する必要性を 提示し、積極的に芥川の日本の帝国主義政策に対する反省を論じた。さらに、芥川が章炳麟をはじめ