Thomas Penn Esq.
Jeremiah Bentham Esq. (attoney)
Isaac Maddox (Lord Bishop of Worceter)
James Whitchurch Esq. (metn.of Magd.H.)
「
Thomas Hollis Esq. ‑ Thomas Brand Esq.(FRS, FSA, (FRS, FSA) donor of charities)
」‑ Jonas Hanway Esq.
(merchant, founder of Marine Soc.)
おわリに
ここでは,以上の2., 3.から読み取れる特徴的な点をまとめながら,併せて今後 の検討課題を示しておく. 2.からわかるように, SOcietyofArtsの活動は,実に多 彩な経歴の人々によって担われていた.この集団の社会的構成については以下ですぐ に検討するが,貴族やジェントリのはか,庶民院議員,政府関係者,芸術家,聖職者, 内科医から出版業者など,さまざまな人がこの団体の活動に参加していた.このこと がこの集団の第‑の特色といえる.しかし同時に,この多様性はある限定された社会 層のうちでみられるものであった.本稿で取り上げた73名の社会的構成は,次のよ
うに整理できる.
聖・俗貴族
ジェントリ層
(Bt.,Knt.,Esq., Gent.,アイルランド貴族) その他
聖職者
2名
内科医 外科医
薬種商または薬剤師 学者・図書館員 事務弁護士 画家 商人
商人兼製造業者 製造業者 出版業者 不明
名 名 名 名 名 名 名 名 名 名 名
C M C O C O C O C M C O C O C O
^
以上の「その他」についてはそれぞれの人物をどこに分類したのか,疑問が生じる 場合があるかもしれない.そこで,問題となりそうなところに限って,具体的に示し ておく. 「学者」の例はHenry Bakerである. 「商人兼製造業者」はwaxchandler のJohn Goodchild, Nicloas Crisp , pewtererのBourchier Cleeveである.また,
「製造業者」については,比較的明確なThomas Mooreに加えて,オルガン製作者 であるWilliam Baileyや,時計製造業者のThomas Grignionを含めた. 「不明」
の4名のうち2名については,全く情報がないわけではなく,確認がまだ不十分であ ることによる.
「その他」のうち,少なくとも聖職者から画家までは疑似ジェントルマンとみなせ る. 「商人」については,海外貿易に従事しているか否か,また国内の場合でもその 規模が問題となるが,これまでの調査ではこれらに関する情報はなく,現時点では判 断できない. 「商人兼製造業者」と分類した人々についても同様である.こうした点 に問題を残すものの,真正ジェントルマンである貴族やジェントリ層に,画家までの 疑似ジェントルマンを加えれば,活動的会員の大多数が広い意味でのジェントルマン であったことになる.つまり, SOcietyofArtsの活動を担ったのは,決して「中産 的な産業家」10)ではなく,ジェントルマンであった.それゆえ,当時の代表的なジェ
ントルマンの団体であるRoyal SocietyやRoyal Society of Antiquariesの会員が 少なからず見受けられるのも,けだし当然といえよう.ただし,少数ではあるが,製 造業者など疑似ジェントルマンよりも下に位置すると考えられた人々が参加していた 点は注目しておいてよい.このことは,たとえば, RoyalSocietyにはみられない点 だからである.
当時「政治的国民」とみなされていたジェントルマンによってSOcietyofArtsの
Society of Arts設立期(1754‑57)の活動的全員のプロソポグラフィ 67
活動が行なわれていたとするならば,次に検討すべきは,活動的会員の政治世界との 関わりについてである.たとえば, SOcietyofArtsの活動は,ある特定の政治集団 の運動であったかどうか.この点については活動的会員のそれぞれについて情報がき わめて少ないため,断定的なことはいえないが,少なくとも,ある特定の立場が排除 されていたとは考えられない.たとえば,会長であったVisct. Folkestone (Jacob Bouverie)や, 1758年以降副会長の職についたEarl of Lichfield (George Henry Lee)のようにトーリーであったことが知られている人物もいるが, Ralph Verney のように,当時のホウィッグ政府の支持者もいたし,さらにThomas Hollisのよう に急進派もいたからである.もっとも今日では,この時代の政治の枠組をかつてのよ
うにトーリーとホウィッグの対立で捉えたり,あるいはそもそもこれらを「政党」と みなすことに大きな疑問がなげかけられいることに留意すべきだが.
ある特定の立場があらかじめ排除していなかったという点は,非回教徒の会員がい たことからもわかる.たとえば, ThomasBrandはユニテリアンであった.この人 物が例外的な存在ではなかったことは, 1758年にランカシャの非国教徒貴族である Hugh Lord Willoughby of Parhamがこの団体の副会長の一人に選ばれているこ
とからも明らかである.
しかし,いま述べたことは, SOcietyofArtsの活動が,当時の政治世界と無関係 であったことを意味しているわけでは決してない.むしろ逆で,大いに関係があった というべきである.この点については,これまでの研究ではほとんど論じられていな
A
いが,たとえば,議会との関係を見てみよう.本稿の範囲内でも, Society of Arts には貴族院議員5名に加え,庶民院議員が4名いた.この数は決して多いとはいえな い‑ただし,扱う時期をさらに1760年代まで拡大すれば,この数はさらに増えて くる‑が,議員でもあった彼らの存在は, Society ofArtsの活動にとって重要な 役割をはたしたように思われる.本稿では活動そのものは埠外としているので,ここ では指摘しておくだけにとどめるが, Society of Artsの活動が契機となって1750 年代末から1760年代前半までに,二つの議会制定法が修正されたのである.一方, 逆に議会での請願がこの団体の懸賞活動に組み込まれた例もあった.議員のうちで, 特に注目したいのは, 60年代後半に庶民院の財政委員会の議長となったCharles Whitworthである.彼については,これまで猟官派の代表的人物として語られてい るだけ(Whitwothの項目の5)に記したL.Namierの著作を参照)だが, Society ofArtsでの活動は議会における彼の財政委員会の活動と重なるところが多く,これ までの理解は明らかに一面的である.
政治世界とのつながりは議会だけでなく,政府ともあったように思われる.その具
体的な有り様は,今後の研究に委ねざるをえないが, 1758年から副会長の一人となっ
たEdward Hooper (関税局理事)やこの団体の植民地・交易委員会の委員長をつ とめたJohn Pownall (政府の植民地・貿易委員会の事務局長)には注目しておかね ばならない.
次に,活動的会員の社会活動に目を転じてみよう.特に顕著なことは,少なからぬ 会員が,ロンドンでの慈善活動にかかわっていたことである.たとえば, Foundling Hospital, Marine Society, Magdalen Hospitalの関係者が目につく.このことの 意味をどう受け止めるかば今後の重要な検討課題だが,一般論としていえば,特に真 正ジェントルマンならば,彼らは地主としての社会的地位ゆえに,多かれ少なかれそ
の地域において何らかの慈善活動を行なっていたと考えられる.したがって,慈善活 動への関与それ自体が,注目に値するというわけではない.今後解明すべき点は,こ れらロンドンでの慈善活動とSOciety of Artsの活動との具体的な関係についてであ
る.
最後に, 3.について述べておこう.この図については,あらかじめ留意しておくべ き点がある.この図をみると,活動的会員がが幾つかのグループに分けられるような 印象をうける.この印象はおそらく間違ってはいないと思われるが,しかし同時に注 意すべきなのは,そのグループの構成が図に示したようなまとまりになるかば確かで ないことである.はっきりしていることは矢印の前後だけであって,たとえはLord Romney (Robert Marsham)と一人とんだBrandenburghとの間に直接関係があっ たか否かは不明である.さらにこの図は,グループが異なる人々の間で結びつきがあっ たことを排除しているわけではない.また,矢印の前後の人と人の関係も,その程度 はいろいろでありうる.したがって,この図だけで, SOcietyofArtsの人脈のすべ てを理解することはできない.
こうした制約があるもの,この図からわかることも,もちろんある.第1は,この 団体の設立者とみなしうる, William Shipleyの役割についてである.彼が推薦した 活動的な会員は2名にとどまり,しかもそのうち, ThomasMooreは懸賞活動の結 果(懸賞金を獲得)入会したと考えられるので,おそらく彼らの間に以前からの直接 的なっながりはない.したがって,人的関係に関するかぎり,彼の影響力は小さいと 推定される.無論,彼が他のグループの人物と面識をもっていた可能性は否定できな
いが,彼がSOciety of Arts設立のために勧誘活動した上でこうであることを考えれ ば,その可能性は小さい.
第2は,人脈のうえで大きな位置を占めたのは,本稿が対象とする時期に副会長の 職にあり,また1761年から18世紀末まで会長をつとめた, LordRomneyに端を発
する人々であった.この点からすれば, LordRomneyの地位は名目上のものでなく,
実質を伴ったものとみなせよう.
Society of Arts設立期(1754‑57)の活動的会員のプロソポグラフイ 69
第3は,この図は会員の相互関係におけるkey manが誰であるかを示唆している.
その代表的な例は,活動的な会員13名(全体の20%近く)を推薦した内科医の Thomas Manninghamである.彼の人脈の一部は,彼が内科医であったことと関係
しているように思われるが,残念なことに,彼の経歴についてこれまでにわかってい ることはきわめて少なく,それぞれの会員が彼とどのような関係にあったのかはわか らない.彼は, H.BakerやN.Crispについで会議や各委員会への出席回数が多く, これらの二人とともにSOciety ofArtsの活動の中心にあったと目される人物である ので,今後さらに情報収集が必要となろう.この点は,彼についで多くの活動的会員 を推薦したEdward Wadeついても同様である.
第4は,比較的まとまった集団と考えてよさそうなのは, Sir Henry Cheereから 始まる芸術家のグループである.もちろん,このグループのメンバーすべてが芸術家 ではなかったが.
以上のはかにも, 2.での記載事項を勘案すれば,会員どうしの相互関係についてわ かる点は多々あるが,ここでは今後の研究方向に関わる点に限定しておいた.本稿の データをもとにすれば, Society of Artsの活動がこれまで以上に理解しやすいもの となろう.
註
1) The Society for the Encouragement of Arts, Manufactures, and Commerce, Rules and Orders of the Society, London, 1758, pp. 3‑4.
2)拙稿「18世紀イギリス科学の社会史にむけて」, 『思想』 No.779 (1989年), 46貢.
3)拙稿「ソサエティ・オヴ・アーツ前史‑18世紀イギリスの科学と社会」,草光俊雄,近藤和彦ら 編著『英国をみる‑歴史と社会』 (リプロポ‑ト, 1991年), 119‑136貢.
4)近藤和彦「ネイミアの生涯と歴史学」,前掲書(註3), 89貢.
5)科学史研究におけるプロソポグラフイの意義については,たとえば, Steven Shapin and Arnold Thackray, ̀Prosopography as a Research Tool in History of Science: The British Scien‑
tific Community 1700‑1900', History of Science, 12 (1974), pp. 1‑28.
6) Royal Society of Arts (本稿が対象とするSOcietyof Artsの現在の組織)の前図書館長, D.G.
C.Allan博士は,この団体の歴史に関する多数の研究を発表している.その幾っかは,本稿の2.
に掲げてある.たとえば, StephenHalesやWilliam Shipleyの項目を参照されたい.
7)たとえば,この団体の副会長の職にあったStephenHalesは,住居がロンドンから遠く離れ,ま た高齢であったため,会議への出席回数はたいへん少ない.しかし,彼は絶えずこの団体と手紙で 連絡をとりあっていた.この点については, Halesの項目の5)に示したAllanの論文を参照のさ れたい.
Royal Society ofArtsが所蔵しているSOcietyofArtsの手稿議事録は,すでにマイクロフィル ムにうつされ,市販されている. TheRoyal Society of Arts, Archives of the Royal Society of Arts, Series A,31reels, World Microfilm Publications, 1984.本稿で用いたSOciety MinutesはこのうちのRee12 (1754‑61の議事録)である.