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蚕円

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労働

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調査

報告

書﹂

百円以上七百円未満百分ノ九

( 1 5 )  

百分

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百分ノ八

百 分 ノ

山 長 佐 福 七

県 県 県 県

器 宕 九

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C

貧円

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頁円平一均月

鯰田炭鉱では所属鉱夫の稼ぎ高が 開西大學﹃繹済論集﹂第一四巻第一号

﹁二百円未満

二百円以上三百円未満 大正︱一年九月より同︱二月の四ヶ月間の実績

︱二

(18)  (17) 

納 屋 制 度 論

を示すものである︒

日(市原•田中) 大正十二年一月末現在における右四県の納屋頭の数は一︑

0

ても納屋頭の所得額は うべき大正︱二年に於

︱二

(22) 

は納屋頭を置く同県の炭鉱に零細規模のものが非常に多いこと納屋制度末期ともい

右 の 表 を み る と 自 ら 稼 働 す る 納 屋 頭 が 山 口 県 に 最 も 多 い こ と

山 長 佐 福

計 口 崎 賀 岡

県 県 県 県

屋 稼収入自

竺 邑 元

頭 ア

数 ル

総 自

~ ~

合 稼

円 額

収 入

人 月

癸 翌 ;表

(19) 

くべき莫大な数字であ

( 2 1 )  

る ︒

四0

銭 に 比 較 す る と 驚

平 山 長 佐 福

均 県 県 県 県

同 屑 胄

奎円 宍円

屑 自

円 均

だったので約三︑000円程度の月額収入があったことにな に︑高額の所得を得ることになるが︑所属鉱夫の少い納屋頭は月額六円などという低収入であるため︑自らも鉱夫と共に稼働して生計の途を立てることになるのである︒大正︱一年九月ー︱二月の四ケ月間における自らも稼働しつつ鉱夫を養っていた納屋頭の数及びその収入額をあげてみる︒ 0六名であり︑その二0彩に当るニニ八名の納屋頭は自らも一

常盤地方では飯場制度の全盛期だった明治四四l五年頃の有

力飯場頭﹁宗像氏は当時二九0名︑日野氏三五0名程も擁した

り受領する金額約二︑000

円︑

直接

坑夫

に給

与す

る金

額は

一︱

00

円程度であったと云うから︑粗雑な住居費︑食費を差し引

( 2 0 )  

くも莫大な収入があったものと察せられる﹂というような状態

る︒これを明治四三年の常盤炭田の好間炭鉱々夫の賃金︑採炭

夫最高一円二五銭︑最低四0

銭 ︑

最高七七銭︑雑夫平均 後山夫最高六0

銭 ︑

支柱夫 大飯場を経営するに至った︒当時日野氏は会計十五日分会社よ 夫の賃金と大差はない︒ 多数の鉱夫をその支配下にもつ有力な納屋頭は右の例のよう労働者として稼働しているが︑その収入は上表の如く少額で鉱 んなんとするものがあったことは︑実に驚くべきことである︒

(1

) (2 ) 

(3

(4

(5

(6 ) 

隔西大學﹃網済論集﹄第一四巻第一号

額にのぽっている︒

特別周旋人の一ヶ月平均手当額は左表のごとくである︒

最高は二五九円二二銭︑最低七円一五銭︑平均九六円八二銭で

最低は別としても最高︑平均ともになお相当な高額である︒

﹃頭

領伝

﹃日

本石

炭読

本﹄

︱︱

10

九l

三 一

0頁

﹃再阪日本炭鉱誌﹄八二頁

﹃頭

領伝

﹃明

治鉱

業社

史﹄

﹃三井田川鉱業所沿革史﹄前史草稿

計 五0闊満

五0

̲j〇0

;̲̲̲j五0

;̲̲0 0 

贋 上_

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‑ ‑ ― ー 五

出 日 四 ( : : ) 国 田

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四 一 ー 山

H  H 田

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九 五 五 七 ー =叶

出 日 国 口 回

(23) 

)内は朝鮮人

更に昭和四年︱一月末における三菱筑豊鉱業所管下各炭鉱の 右表の如くであり︑平均額はとも角も最高額においてはなお巨

りになっている︒ めに不明であるが明治三

0

年及び三一年の調査によれば次の通 明治前期における各炭鉱の納屋頭の数は正確な資料がないた

(7 )

﹁親方制度の実態﹂

(8

)

﹃鉱夫待遇事例﹄ニ︱八ーニニ四頁

(9

)

﹁親方制度の実態﹂七二頁

( 1 0 )

﹃個別資本と経営技術﹄一七0ー一七一頁

( 1 1 )

﹃日

本炭

鉱誌

( 1 2 )

﹃鉱山労慟資料﹄四七頁

( 1 3 )

' 四 九 頁

( 1 4 )

﹃人と人﹄第六巻第八号

( 1 5 )

( 1 6 )

( 1 7 )

﹃鉱山労働資料﹄

( 1 8 )

同 五

0

( 1 9 )

( 2 0 )

﹃炭鉱棗落﹄二七ニーニ七三頁

( 2 1 )

﹃再阪日本炭鉱誌﹄二七二頁

( 2 2 )

﹃鉱

山労

働資

料﹄

﹃( 2

3 )

人と人﹄第六巻第︱二号

︑ 納 屋 及 び 納 屋 頭 の 数

︱二

納 屋 制 度 論

右の外に

鯰 田 炭 鉱

室 木 炭 鉱

勝 野 炭 鉱

︱︱

函取納屋頭二名

日(市原•田中) 計 綽取受負兼納屋頭一名 計

( 1 )  

︱二

六名

大納屋頭五名︑中納屋頭四名︑

二名

︱︱

大辻炭坑納屋頭

︱二

次のようである︒ 更に﹁鉱夫待遇事例﹂によれば明治三十九年頃の納屋頭数は 一名︑車夫納屋頭一名 又三井田川炭鉱では﹁明治三0年七月に田川採炭組が前経営

者の田川採炭株式会社から其の業務を引き継いだ際は一八名の

( 3 )  

納屋頭がいたが一応解約して改めて四人の納屋頭を選任した﹂

とあ

る︒

﹁夕

張第

一坑

飯場ニニケ所︵人員記載なし︶

三七名 計

金 田 炭 鉱

ので

一名乃至数名の納屋頭がいたことは間違いない︒

焦 丸 炭 鉱

一 名

の如く︑納屋頭の数は不明であるが︑大納屋の数をあげてある

継 井 炭 鉱

五名

田 川 採 炭 鉱 同

御 徳 炭 鉱

二名

扶 桑 炭 鉱 同

:  

棟^棟

' ‑ t  

平 恒 炭 鉱

六名

本 洞 炭 鉱 同

八棟

笠 松 炭 鉱

一名

塩 頭 炭 鉱 同

七棟

日 焼 炭 鉱

二名

新 入 炭 鉱

二二名第一大之浦炭鉱

棚・炭

︱︱

棟 同五棟

朝 日 炭 鉱

五名

岩 崎 炭 鉱 同

四棟

長 浦 炭 鉱

四名

第 三 大 辻 炭 鉱 大 納 屋

四棟

馬場山香月炭鉱

一 名

﹁ 大 隈 炭 鉱 頭 領 納 屋

二棟

経営﹂している︒

︑ ̲ . /

註︵  明治二二︑三年頃佐渡鉱山には部屋頭と称するものが五最も少ない福丸でさえ一七0名を擁するほどの大勢力であっ 竹延︑田中両名の如きは七百名以上に及ぶ多数の子方を抱え ったが﹁磐城炭鉱を中心としたもののみにても宗像︑日野︑菊地︑五十嵐︑中島︑松坂︑安斉︑横山︑大沼︑広谷︑反保︑佐藤︑笹山︑西川︑虫本等の諸氏がそれぞれ飯場頭となり︵中

( 6 )  

略︶宗像氏は当時二九0名日野氏三五0名程も擁した大飯場を計

三︑

二00

名 福丸

四三名

( 7 )  

七四名 西村 遅れた常盤炭田では︑飯場の全盛時代は明治四四︑五年頃であ古賀 応じて若干名の納屋頭を置いていたことは間違いない︒開発の

三八三名

三四

0名 榎本六二八名 採用していた少数のものを除き︑大多数の炭鉱ではその規模に田中七五七名 右以外には具体的な数字を掲げていないが︑当時直轄制度を竹延七七五名 古河西部鉱業所同

香 春

 

同四名

( 5 )  

一八

名﹂

納屋頭名所属鉱夫数 大正二年︱一月現在の納屋頭は次の七名であった︒

峰 地

 

四名

てい

た︒

忠 隈

 

‑0

名度と納屋制度に分属していたが全鉱夫の約七割が納屋に所属し 明 治

 

一名

本 洞

II 

‑0

﹁大

之浦

上山田

   

同 同

新 入 炭 坑 納 屋 頭

一四

名 0名

( 4 )  

八名

開西大學﹃網済論集﹂第一四巻第一号

いた

人いて︑その中最も有力な部屋は三百人位の配下を有して

一三

︵﹁佐渡金銀山史話﹂四七七頁︶

三菱新入炭鉱では鉱夫を炭鉱から辞令を貰っている甲種鉱夫

と辞令を貰っていない乙種鉱夫とに分けていたが︑後者の中︑

坑外日役は主として請負制度により︑それ以外の鉱夫は直轄制

納 屋 制 度 論

新入についてみると納屋頭数は三

0年は二二名で三十九年に

は三0

名に増えているが︑大正二年になると七名に淘汰されて

いて︑納屋制度消長のあとを示している︒

みてみよう︒

H

︵市

原・

田中

彩が納屋頭を置いている︒

右 に よ る と 九 州 の 一 三 五 炭 鉱 中、七九炭鉱、比率にして五九

山 長 佐 福

計 口 崎 賀 岡

県 県 県 県

⑱ 

炭然

六 八 山 鉱}レ

八 計

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