<地形>
7層は弥生時代後期から古墳時代初頭の土層である。北端では63ライン付近が高くなっており、そこから東西 に標高が低くなる。しかし南端では60ライン付近が高くなっており、西側に向けて急に標高が下がっていく。こ のような地形の傾斜は6層以下でもおおむね共通しているが、北端では8層以下の東への傾斜が7層よりもきつ くなっている。
7層(弥生後期〜古墳初頭):淡黄灰白色粘質土。灰褐色粘質土を多く含み、鉄分の沈着が顕著である。上面の
標高は北側の微高地で1.0m、最も低くなる南西角で0.6mを測る。8層(弥生後期):暗灰褐色粘質土。植物の影響による腐食土層であると思われ、調査区全体に広がる。地形が
たわむ部分では暗灰色粘質土の包含率によって3層に分けることができる。調査区東南部が最も高くなり、標高 は0.9m、そこから北・西へと標高が下がっていき、最も低い南西角では0.45mになる。9層(弥生中期):淡黄灰褐色粘質土。7層から多数の樹根が入り込んでおり、鉄分を多く含む。上面は調査区
南東で0.65m、南西角で0.3mである。10層(弥生前期):暗灰色粘質土。調査区全体で確認される。植物の腐食土層であると考えられ、旭川西岸の弥
生時代前期を中心に確認される「黒色土」に対応する可能性がある。上面の標高は調査区南東で0.5m、南西角で0.2 mである。S=1/500
BE
BF
BG
BH 60
61
62 59
63 64
65
井戸1
井戸2
井戸3
井戸4 井戸5
土坑2
土坑3 井戸6
土坑1 土器棺1 土器棺2
土器棺3
弥生時代中期〜古墳時代初頭 奈良時代後半 平安時代末〜鎌倉時代
0 10m
N
図21 検出遺構全体図
第2章 鹿田遺跡の調査研究
11層(弥生前期以前):淡明緑灰色粘質土。9層から多数の樹根が入り込むのは7・8層の関係と同様であり、
やはり鉄分を多く含む。10層は調査区北端が最も高くなり、上面の標高は0.5mである。最も低くなるのは調査 区北東と南西では0.3m前後である。
12層:暗灰色粘質土。調査区南壁・西壁の深堀で確認した。粘性の強さで2層に分けており、上層は樹根状の
しみこみがみられる。北・東から南西に向かって標高が下がっていく。上面は調査区南東では0.4m、南西角では0.1mである。
⑵ 遺構・遺物(図21)
①弥生時代中期~後期
BD62〜BE63区の9層上面で弥生時代中期の溝が1条確認され、周辺では7層で弥生時代後期後半の土器がま とまって出土した。後者の土器には完形に近いものも含まれており、北の微高地側から廃棄されたものと思われ る。またBE62・BG59区では窪みに堆積した多量の焼土が検出されており、微高地上に被熱作業空間が存在した ことがうかがわれる。
②古墳時代初頭
土器棺3基、倒置した土器の埋置1ヵ所が確認された。
土器棺はいずれも土器の大きさにあわせたサイズの掘りこみ がみられた。BE62区の土器棺1は唯一蓋を伴っており、2つ の壺を組み合わせたものであった(図22)。棺身は阿波東部系 統のもので搬入されたものである。また倒置状態の土器はたわ みに単独で置かれており、周囲から土器片などは1点も出土し なかった。
③古代
BE61〜62区で井戸1基、土坑1基、ピット6基が確認された。
またこの範囲では古代の土器が集中して出土した。
井戸1は刳り抜きの井戸枠を伴うもので、平面形は多角形を なしている(図23)。時期は井戸枠内に納められていた土師器 杯から8世紀後半である。特筆すべきは井戸枠内から出土した 2点の絵馬である(図24)。これらは底から約60cm上に端と端 を重ね合わせるように水平に置かれていた。絵馬にはそれぞれ 墨や顔料で猿駒曳と牛が描かれていた。猿駒曳とは猿が馬を曳 いている様子を描いたもので、これまでは1297年の戯画が最古 とされていた。猿駒曳の絵馬は国内初出土である。また牛も国 内最古のもので、体の細部まで観察できる貴重な発見となった。
④中世
井戸5基、土坑2基、溝10条、畦1条が確認され、ピットも多数検出された。
井戸で注目されるのは井戸枠が残存していた井戸3と、鹿田遺跡で初めて木組みが確認された井戸4である。
井戸3の井戸枠は平面方形で、板材を縦に並べて上下を横桟木でとめる構造である。また井戸中位には土師質土 器椀が角に置かれており、底では大小2点の曲物が出土した。井戸4には本体部分の上面に木を方形に組んだ構 造物を設置していた。木組みには四角に刳り込みがあり、柱を立てるなどの機能が想定される。本調査で確認さ れた井戸はいずれも平安時代末〜鎌倉時代前半のものである。また土坑2では多量の炭や焼土に混じって土師質 土器椀・皿が出土しており、隣接する井戸5と何らかの関係性があったことがうかがわれる。
図23 井戸1の井戸枠(南東から)
図22 土器棺1検出状況(南から)
第1節 発掘調査の概要
溝はいずれも屋敷の区画溝であると考えられ、61ライン付近の溝群は第17次調査、63・64ラインにはさまれた 2条の溝は第6次調査で確認されている溝につながる可能性が高い。前者は2条の溝が南北方向に平行するが、
東側の溝はBFライン付近でほぼ直角に方向を東に変える。西側にはこれらの溝に沿う畦が盛土で作られており、
屋敷の区画に関わる構造物と考えておきたい。溝では獣骨が多数検出された点が注目される。また遺構に伴うも のではないが、BF59区の西側では銅鏡と小皿がまとまって出土した。
⑤近世
土坑68基、溝5条、畦が検出された。
土坑はおおむねBFライン付近で2列に並ぶように確認されており、その間には東西方向の道が存在していた と考えられる。調査区西端では多数の土坑が切り合っている状況が際立つ。土坑には枠(桶)が入れられている ものと素掘りのものがあった。
61ライン付近では中世に構築された畦が近世にも踏襲されている。またBF63〜64区およびBG〜BH63区では 畦畔が確認され、BH63区では水口も検出された。
⑥近代
畝状遺構、畦が検出された。
畝状遺構は中世以降の畦よりも東側で確認された。畝状遺構はBF59〜BG60区の範囲で東西方向に規則正しく 並んでいる。畝間は40cm前後の溝状で、畦に沿って掘られた南北方向の溝に連結している。また畦よりも西側 の63区では近世の畦の両側に3層が堆積していることから、畔より西側は水田として利用されていたと考えられ る。
d.まとめ
本調査地点では弥生時代中期の溝や、古墳時代初頭の土器棺が確認され、鹿田遺跡西端における土地利用や集 落景観を考える上で重要な成果が得られた。
また特筆すべき成果として奈良時代後半の井戸から出土した絵馬が挙げられる。当該期の絵馬は瀬戸内で初め ての出土で、近畿以東では宮都や城柵・官衙関連遺跡にみられる。また猿駒曳・牛が描かれた絵馬は宮都では出 土しておらず、当地域独自の動物に対する思想の一端を物語るものとしても注目される。古代における鹿田遺跡 の性格を考える上で貴重な資料となった。
さらに中世の屋敷地の区画や井戸についても新たな知見が得られた。屋敷地の区画溝に沿って構築された畦は 溝の内外を隔てるものと考えられ、近代まで踏襲されている。井戸では上屋の構造を考えることのできる木組み が鹿田遺跡で初めて確認された。これにより今後の調査においては掘方内に柱穴が存在する可能性も考えて調査 する必要があり、類例の増加が期待される。
なお以上の内容は暫定的なものであり、詳細な分析・検討を経て正式報告を後日行う。 (南健太郎)
図24 井戸1出土絵馬(左:猿駒曳 右:牛)
第2章 鹿田遺跡の調査研究