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(7)その他

ドキュメント内 理学部理学部 (ページ 95-102)

科学教育研究室

1946(昭和21)年4月、アメリカ軍政部は我が国における国定教科書の使用を禁じた。

それによって学校教育の現場では不安や混乱が生じたため、6・3・3制が実施された 1947(昭和22)年、石川県においては文部省からの補助金交付を受けた教員有志が新し い理科教育を模索すべく「石川県理科協会」を発足させた(太田兵吉、『人と自然−石川県 理科教育20年史』、石川県理科協会(1969))。一方1946年、科学教育の振興を目指した 文部省は、初等・中等教育の理科、数学(算数)及び技術に関する教科の教員の資質向 上・指導力充実を目的として、教員に基礎科学の研究体験をさせるために大学・高等師範 学校等に科学教育研究室を設置した。石川県の場合、金沢高等師範学校(1944〜1952年)

に設置された。金沢高等師範学校の「科学教育研究室」は、「石川県理科協会」に集う青年 教師たちの知的欲求を満たしたばかりでなく、現職理科教員に開かれた研修拠点となった。

金沢高等師範学校で「科学教育研究室」の萌芽を育てた一人は、四高化学教授から高等 師範学校に移り、科学教育振興に献身的な努力をしていた樫本竹治であった。樫本は 1949年に、開学して間もない金沢大学理学部化学科講師に着任したが、その後を追うよ うに1950年4月に金沢高等師範学校の「科学教育研究室」は、金沢大学に引き継がれて 理学部長を室長とする「金沢大学科学教育研究室」として再発足した。その目指すところ は高等師範学校に設置されていたときと同じであるが、金沢大学における規程も定められ

(理学部が事務を総括)、同年7月には第1回の研究生入室が許可された。その後、金沢大 学科学教育研究室での研修者は毎年途絶えることなく(1956年までは年2回の入室許可)、

1999年5月には第57回の入室式が行われた。

金沢大学科学教育研究室の実態は以下のとおりであるが、科学教育研究室という専用の 建物や部屋が存在しているわけではない。県教育委員会に申請して推薦を受けた国公私立 の小学校・中学校・高等学校の教員は、科学教育研究室に研究生(員)として入室し、6 ヵ月以上1年以内の間の定時または随時に本学の理系学部・研究所の教官の研究室で研究 指導を受ける。研究生(員)は勤務校での任務のかたわら勤務校または大学の研究室で実 験を行ったり、指導教官からの研究指導を受けたりする。そして各年度末には、指導教官 と研究生(員)全員が一堂に集まって研究発表会と修了式(修了証書授与)が行われ、研 究概要が出版されている。修了者の中には、科学教育研究室での研究成果などにより博士 の学位や学会表彰を受けた教員もいる。なお、研究生・研究員の所属のほとんどは石川県 内の小学校・中学校・高等学校であるが、石川県外からの入室もあった。1回(または単 年度)当たりの研究生・研究員の入室数は、1983年度(第41回)までは8〜17名であっ たが、1984年度(第42回)以降は2〜6名と少なくなっている。この入室者減少傾向の 始まりは、小学校・中学校・高等学校で校内暴力が続発し、「いじめ」問題も深刻になって きた時代に対応している。また、1989年度(第47回)以降、小学校教員の入室が途絶え、

1993年度(第51回)以降は中学校教員の入室も途絶えた。児童・生徒の理科離れ(本質 は教員の理科離れ)がとかく言われるようになった時代に対応している。このような変遷 をたどってきたが、金沢大学科学教育研究室が発足してから1998年度までの修了生は600 名(初期の資料が無いので概数)と見積もられる。なお、1976年度(第34回)までは、

研究生と研究員の区分があったが、翌年度以降は研究員または研究生(員)と区分が明確 でなくなった。

指導に当たる金沢大学の教官の所属の大半は理学部(数学、物理、化学、生物、地学)

であるが、教育学部(理科、数学、技術)、医学部(生化学、生物)、工学部(工業化学、

化学工学)、教養部(数学、化学、科学技術史)、がん研究所の教官も指導に当たってきて いる。研究生(員)は教科書の記述の行間や奥にある科学や最新の学問を学び、さらに最 新の研究機器や概念を駆使した実験研究や数学の研究を大学で指導を受けながら行うこと によって、知的欲求が単に満たされるだけでなく、十分な理解に基づく自信を持って理科 や数学(算数)や技術の教育を行ってきている。さらに指導教官は研究生(員)の勤務校 に出向いて児童・生徒の課外活動に助言を与えたり、研究生(員)の研究フィールドなど に一緒に出かけて実地指導も行っている。したがって指導に当たる大学教員の負担が増え る一面もあるが、初等・中等教育の教科書の記述に、科学的な本質部分が未解明であった り実証されていないのに常識として扱われていることがあることに気付いて、大学での基 礎研究の課題に還元されるテーマが発見されることもある。また、学問的には大学での研 究課題として直接扱われることのない問題でも、大学レベルの研究を支える重要な研究と いうものがあり(地域に根ざしたテーマなど)、そのような研究が小学校・中学校・高等学 校等の教員によって進められることは大学にとって有益なことである。さらに近年、大学 の教育改革が盛んであるが、大学の理系の教育改革を進めるとき、大学教官は小学校・中 学校・高等学校の理科教育の実態を視野に入れて改革を行わないと、改革の効果が現れな い恐れがある。科学教育研究室を通じて、小学校・中学校・高等学校の理科教育の実態に 関する有用な情報を大学が得ている点を効果として見逃すことはできない。初等・中等教 育における理科教育の時間数が減る傾向にある今日、本質の核心を突いた効果的な理科教 育を推進するための工夫が今まで以上に必要であり、そこにおいても科学教育研究室が果 たす役割は今後ますます重要となろう。

なお政府の中央省庁改革(2001年1月から1府12省庁体制へ移行開始)に伴って文部 省と科学技術庁が統合されることになっているが、約50年間続いてきた「科学教育研究室」

制度も見直しの対象になっており、「金沢大学科学教育研究室」は1998(平成10)年3月 に文部省の視察を受けた。室長(理学部長)、指導担当教官及び研究生(員)から制度の発 展的継続を要望した。

中西孝(化学科教授)

理学部談話会

理学部では、大学・大学院制度検討委員会において、将来計画の改訂作業を1980(昭 和55)年11月に開始し、新学科について委員及び学部内の教官より多数の興味ある提案 を受けた。これがきっかけとなり、1981年10月24日(午後1時30分)に、委員を含む各 学科の世話人が学部長室に集まり、普段面識のない他学科の教官の話を聞く「理学部談話 会」の発会式を行った。11月19日(午後6時)には委員の一人が、お茶、コーヒー、ドー ナツを準備し、「金沢城の鉛瓦とシダ植物ヘビノネゴザ」(学部長室)の話題を提供した。

その1ヵ月後の12月22日(午後6時)には、「カイコの分化」(KKR加賀、忘年会)、翌年 の2月12日(午後6時)には、「生命の進化」(理学部会議室)へと続いた。この時から話 題をポスターで掲示し、出席者が増えてきたので、場所を学部長室から理学部会議室に移 し、出席者にはお茶代として一人100円のカンパを募ることになった。また、この時の世 話人の委員は、手作りのケーキで談話会の参加者にサービスされた。その後、1992(平 成4)年9月に金沢城内から約4km山の手の角間キャンパスに移転するまで10年余り、

1992年6月(午後6時)には、52回「超低温の世界 そこは薔薇色か?」の談話へと続 いた。その間、忘年会、新年会及び記念会なども開かれ、また話題提供者、世話人、出席 者も学科を超えて交流を深め、談話会を盛り立てた。1997年2月28日(午後5時30分)

には、第65回の理学部談話会がその年に退官された二人の教官による「境界領域の苦楽」

と「ヨーロッパから見た絹の道」(第6講義室、懇親会、南福利厚生施設)の話題提供で行 われ、懇親を深めた。

本浄高治(化学科教授)

スポーツ交歓試合の歴史

1967年度のはじめ、当時友人でもあった金沢大学木羽敏泰理学部長と信州大学杉山隆 二理学部長の雑談の中で、理学部同士の交流を兼ねて、スポーツの交歓試合をやりません かとの話が持ち上がり、急速に話がまとまった。1967(昭和42)年、軟式野球の最初の 交歓試合が信州大学で行われ、両学部長が交歓の実を高めるため、連名で優勝カップを寄 贈され、今に伝えられている。1969年から1977年までの中断の後、1978年に復活し、

1979年からは女子ソフトボールが、また1980年からは硬式テニスが加わり、1998年に は第19回を迎えた。大会は、ほぼ金沢・松本と交互に開催され、試合後懇親会が開かれる。

ただし、15回(1993年)以降、理学部関係の女子職員の減少と高齢化のため、女子ソフ トボールが行えなくなっているのは時代の流れかもしれない。30年余りの交歓の歴史を踏 まえ、ますます発展を祈るとともに、中心になって開催を支えられた松岡慎一・玉井直人

(金沢大学)、吉江寛(信州大学)の各氏に感謝する。

河田脩二(野球部監督、理学部物理学科)

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