以上見てきたことを簡単に振り返ると、楊振声の「彼女」が描いた二人の少女の「友 情」は、ごく親密なものではあったにしろ、同性愛と呼ぶほどではなかった。影曼 Y との友情は雲羅Yにとって、熱しやすく冷めやすいクラッシュに過ぎなかったようで、
自身の婚約に関して影曼Yへの思いやりは何一つない。影曼Yは身寄りのない孤独な 少女であり、自己の分身にも身内にも等しい大切な存在を失い、究極の絶望ゆえに気 が触れてしまう。影曼 Y には、『ロミオとジュリエット』において秘かにジュリエッ トと結婚するロミオの勇気はなく、「こんなこと」の影曼Lのように二人で一緒に暮ら すという選択肢も思いつかなかったのである。そして、そのことは「彼女」の影曼 Y には、女学校の生徒という点にのみ1920年代の「近代性」が刻印され、精神面では前 時代と変わらぬ、あくまでも社会的弱者としての役割が与えられたということを意味 しているだろう。
これに対して、凌の「こんなこと」は楊の「彼女」を換骨奪胎する際に二人の少女 の境遇を変えることで、明確に少女同士の恋愛関係を描き出した。影曼Lが雲羅Lに 二人で一緒に暮らすことを提案し、「あなた、私と結婚しなさいよ」と言うシーンには、
封建的社会規範とは大きく隔たった強い意志性を見出すことができる。「彼女」から「こ んなこと」への変奏には、若い女性の自らの意志による選択という、新時代の新女性
のありようが克明に織り込まれている。ただ、彼女達はその選択を貫けず、結局当時 の社会体制の前に屈する他なかった。影曼Lがラストでおかしくなってしまうのは、
愛する雲羅Lが女性である自分とではなく、男性と結婚したことに打撃を受けたから であった。中国文学における女性同性愛の系譜を辿るのは本稿の狙いではないが、「心 が籠って繊細で美しい」(楊)、「大変美しいこの一篇」(徐)と評された凌の「こんな こと」と、民国期中国の女学校における少女のセクシュアリティについては、より一 層の研究対象とされてしかるべきであると考える。
凌の「こんなこと」の雲羅Lは父がなく、母と兄によって他の男との結婚を強く勧 められ、それに逆らえずに結果として後妻として嫁ぐことになる。家族が恋愛の障害 となるという点において、雲羅Lはまさしくジュリエットであったと言えるだろう。
そして、雲羅を失った影曼Yも影曼Lも結果的には封建的旧式結婚の被害者となっ てしまう。彼女達も当時の家制度によって抑圧されたジュリエットであったのだ。
注
1 女子教育に関しては、以下を参照した。熊賢君著『中国女子教育史』山西教育出版社2006、 夏暁虹著、藤井省三監修、清水賢一郎・星野幸代訳『纏足をほどいた女たち』朝日選書1998、
関西中国女性史研究会編『中国女性史入門』人文書院2005、末次玲子著『二〇世紀中国女性 史』青木書店2009
2 盛英主編『二十世紀中国女性文学史』上巻、天津人民出版社1995を参照。
3 参考までに1916年の統計を挙げれば、全国に女学校は3,461校、女子生徒数は172,724人で ある。一方、高等教育に関して見れば、1920年に北京大学が全国で初めて女子学生9人を聴 講生として受け入れた後、1922年から23年には大学・高等師範学校などの高等教育機関の女 学生は887人、学生総数のわずか2.5%に過ぎなかった。注1熊賢君前掲書参照。
4 曹丕「典論」藤堂明保監修、神塚淑子訳『文選下』学習研究社1985
5 楊振声については現在、中国本国ではあまり研究されておらず、「過去の人」として忘れられ た存在となっている。日本においては、宮尾正樹「楊振声と「玉君」」(『お茶の水女子大学中 国文学会報』第7号、1988)、拙稿「楊振声「抛錨」・石華父『海葬』・柯霊『海誓』をめぐっ て―恋愛と復讐の変奏」(『お茶の水女子大学中国文学会報』第32号、2013)、「楊振声「搶 親」・「報復」と民国期中国の強奪婚―少女は語らない」(『言語文化論叢』金沢大学外国語 教育研究センター紀要、第18号、2014)、「楊振声と「五四」 楊振声の「五四」」(『野草』
第94号、2014)などがある。また、楊振声の国語教科書編纂事業について、『中国文芸研究 会会報』において今泉秀人氏による研究・紹介が進んでいる。
6 凌叔華については中国日本双方で一定程度の研究の蓄積がある。例えば日本では飯塚容「凌 叔華―人と作品」(『中央大学文学部紀要』第106号、1983)、大槻幸代「凌叔華と「新月社 サロン」―恋愛結婚・核家族制度およびマンスフィールドの受容をめぐって」(『日本中国 学会報』第46号、1998)、阿部沙織「〈新女性〉の死:凌叔華「女児身世太凄涼」をめぐる一 考察」(『お茶の水女子大学中国文学会報』第27号、2010)など。
7 例えば近年では劉陽揚「論大革命前後(1925-1926)凌叔華的小説創作」(『現代文学研究叢刊』
2014年第4期)、崔涛「“五四”女性文学同性愛之反叛与反思」(『求索』2013年第9期)、郭海 鷹「從女同性恋書写看凌叔華的女性観―以「説有這麼一回事」為例」(『広東外語外貿大学 学報』2011年第6期)など。
8 楊振声に関する伝記的記述は、季培剛編『楊振声事跡編年』(2014年11月時点で未刊行、九 三学社より刊行予定)に拠る。著者季培剛氏のご厚意により、未刊原稿(PDF版)の利用の 許可を得た。
9 凌叔華に関する伝記的記述は、宋生貴編『凌叔華的古韵夢影』東方出版社2008に拠る。
10 楊振声「説有這麼一回事附字」『晨報副鐫』1926年5月3日。『凌叔華文存』上巻、四川文芸 出版社1998も参考にした。
11 素心「関於『説有這麼一回事』的信并一点小事」『晨報副鐫』1926年5月5日。『凌叔華文存』
下巻、四川文芸出版社1998も参考にした。
12 1925年、『現代評論』に凌叔華が発表した小説「酒後」を受け、二ヶ月後に丁西林(Ding Xilin、
1893-1974)が同タイトルの一幕劇の戯曲を『現代評論』に発表している。これはあくまで小
説の戯曲化と言えるだろう。
13 『晨報』副刊に関しては、以下を参照した。周葱秀・涂明著『中国近現代文化期刊史』山西 教育出版社1999、馮并著『中国文芸副刊史』華文出版社2001
14 同注11
15 徐志摩「志摩附識」『晨報副鐫』1926年5月5日
16 中国におけるシェイクスピア受容に関しては、以下を参照した。瀬戸宏「中国のシェイクス ピア受容史」(『シアターアーツ』第11号、2002。瀬戸宏氏のサイト転載に拠る。
http://www.asahi-net.or.jp/~ir8h-st/ryuunokai_034.htm 2014年11月28日閲覧)、瀬戸宏「中国シ ェイクスピア受容の黎明」(『摂大人文科学』第19号、2012)、夏嵐「中国におけるシェイク スピア戯曲の翻訳と出版」(『富山大学人文学部紀要』第51号、2009)、瀬戸宏「上海戯劇協 社『ヴェニスの商人』上演をめぐって」(『演劇学論集』第57号、2014)
17 楊振声「她為甚麼忽然発瘋了?」『晨報副鐫』1926年5月3日。以下、本作の引用は全て同 テキストに拠り拙訳。『楊振声選集』人民文学出版社1987も参考にした。
18 素心「説有這麼一回事」『晨報副鐫』1926年5月3日。以下、本作の引用は全て同テキスト に拠り拙訳。『凌叔華文存』下巻、四川文芸出版社1998も参考にした。
19 常彬著『中国女性文学話語流変1898-1949』人民出版社2007
20 鄭如玲「是女同問題?還是女権問題─談〈説有這麼一回事〉的主題所在」、臺灣國立中央 大學「性/別研究室」サイトに拠る。http://sex.ncu.edu.tw/course/liou/4_Papers/Paper_07.html 2014年11月28日閲覧
21 注5宮尾論文及び拙論に詳しい。
その他参考文献
中野好夫訳「ロミオとジュリエット」『シェイクスピア全集6』筑摩書房1967 河合祥一郎著『「ロミオとジュリエット」恋におちる演劇術』みすず書房2005
【附記】
本稿は学術研究助成基金助成金の交付を受けた基盤研究(C)「近代都市・青島における 知識人の交流と文化空間の創成」(課題番号:24520387、研究代表者:富山大学・齊藤大紀)
による研究成果の一部である。
初出雑誌
『言語文化論叢』第19号、119-141頁(金沢大学外国語教育センター、2015年3月)
青島の海水浴場のロシア人
──王統照「海水浴の後」について 齊藤 大紀
はじめに
かつて青島に在住した作家の中で、王統照(1897-1957)は、さほど先行研究が多い 作家ではないだろう。沈従文(1902-1988)、老舎(1899-1966)、聞一多(1899-1946)
をはじめとして、多くの著名作家がかつて青島に居を構えていたのであった。彼らの 作品、人となりについては、まさに鈴なりといってもいいほどに、優れた研究が存在 している。しかし王統照については、中国においては劉増人氏の著作をはじめとする 研究があり、日本においても広野行雄氏、吉田富夫氏の研究があるものの、決して数 が多いとはいえないだろう1。むしろ少なすぎるというべきか。
少なすぎるといったのには、それなりの理由がある。というのも、王統照の経歴を 見れば、人柄・作風が地味ながら、この作家・詩人・編集者・文化官僚が中国現代文 学史のなかで占めた地位がいかに大きかったかわかるはずである。1897年、先祖に清 初の著名な詩人王漁洋(1634-1711)をもつ山東省諸城県相州鎮の名家に生まれ、長じ ては北京なる中国大学に進み、五四運動の渦中に身を投じる。文学研究会の発足にと もなって発起人のひとりに名を連ね、中国現代文学最初期の長編小説である『一葉』
(1922)を発表する。徐志摩(1897-1931)とともにタゴール(1861-1941)のおともを したこともあった。母の死にともなって、北京を引き払い、青島に移住する。青島で は、青島市立中学などで教鞭を執りつつ、『青潮月刊』などの雑誌の編集も行う。その いっぽうで上海にもしばしば足を運び、葉聖陶(1894-1988)のすすめによって、代表 作『山雨』(1933)を執筆した。この山東省の農村の崩壊を描いた小説によって、王統 照は、国民党当局の怒りに触れ、ヨーロッパへと旅立つ。帰国後、日中戦争全面化の 中で、日本軍に占領された青島から孤島となった上海に居を移し、日本軍が上海を占
1 劉増人『王統照伝』(北京十月出版社、2000年)、劉増人『王統照論』(山東教育出版社、2001 年)。広野行雄「王統照の『山雨』について」(『中国文化:研究と教育:漢文学会会報』第 40号、1982年)、広野行雄「王統照第一短編集の評価をめぐって」(『中国文化:研究と教育:
漢文学会会報』第41号、1983年)、吉田富夫『五四の詩人王統照』(同朋社出版、1985年)、
このほか中国における王統照研究の著作としては、王立鵬『王統照的文学道路』(学林出版社、
1988年)、楊洪承『王統照評伝』(花山文芸出版社、1989年)、王立誠『瓣香心語:王統照紀 伝』(山西人民出版社、1999 年)、馮光廉・劉増人編『王統照研究資料』(知識産権出版社、
2009年)などがある。