○ 展
焼夷弾と砂袋神奈川県域への空襲は、1942年(昭和17)4月18日から1945年(昭和20)8月15日ま で、ほぼ毎日のように続いた。空襲によって横浜、川崎、平塚、小田原などの都市が焼夷弾による火災で 大きな被害を受けた。市民は落下した焼夷弾に砂をかけて消化するため、砂袋を用意していたが、実際に は大量に投下される焼夷弾には効果はなかった。陳列の焼夷弾はM69型と呼ばれるもの。
○ 展
慰問袋銃後から戦地の軍人へ手紙や写真、お菓子などの慰問の品が送られたが、これらを入れる袋には、文字 ばかりでなく、戦意高揚をはかるための工夫がなされた。展示資料は、桃太郎と動物たちが英米中三国の 首脳らしき人物を攻めている図柄である。
○パ 国民防空図譜
この国民防空図譜は防空講習の教材として制作された。1941年(昭和16)の日米開戦以降は防空 意識を国民に周知させるため各種の印刷物が陸軍の監修を得て作成されたが、その一方で、大規模な防空 演習をとおして、隣組や婦人会など住民意識の中にまで防空体制が浸透し「国防国家体制」が構築されて いったのである。
○展 大日本国防婦人会徽章 昭和初期 1点 実物
○展 うちわ絵、燈火管制用安全遮光カバー
○展 アンブール式防火弾
昭和10年代に一般家庭用に販売された消火器の一種で、消化液がガラス瓶に入っており、
火焔に向けて投弾すると消化液が飛散して炎を消す仕組みであったが、初期火災以外では効果はなかった。
○パ 戦時貯蓄債券
戦争の遂行には膨大な資源と費用を要するため、政府は金属資源や貴金属の回収をおこなう一方、国民 のわずかな蓄えまでも国債や報国貯金といった名目で半強制的に回収したのである。
○パ 軍都神奈川
○展 陶器製分銅付棒秤
太平洋戦争中、鉄などの金属原料は兵器や武器の製造に優先して使われ、国民が使用する金属製品や部 品には陶器などの代用品でまかなわれた。この棒秤は、重りの部分が鉄や銅ではなく陶器でつくられてい る。
○展 国策湯丹保 1940年代 1点 実物
○展 愛国イロハカルタ 昭和 18(1943)年
民主主義と甘いお菓子を知った -昭和の開国―
進駐軍のもとで、日本の古い社会体制は解体されました。
兵隊さんがくれたお菓子は、民主主義の味がしました。
昭和20年(1945)8月15日、日本の無条件降伏によって、15年に及んだ長く苦し い戦争は終結しました。日本占領連合国最高司令官に就任したマッカーサーは8月30 日に厚木飛行場に到着し、9 月 2 日横浜港沖の戦艦ミズーリ号甲板上で日本の降伏文書調印式に臨みまし た。幕末のペリー来航による開国と同じように、マッカーサーの占領政策は日本の政治経済体制を大きく 変えたので、第二の開国=昭和の開国とよばれています。神奈川県は首都に隣接し、軍事施設が多かった ことから、占領軍の約4分の1が進駐し、多くの土地や建物が接収されて、人びとは進駐軍の姿を目のあ たりにしました。
2012.5.15
○パ 写真マッカーサー
○パ 横浜港桟橋から上陸するアメリカ軍 1945年9月2日 複製 米国立公文書館蔵
○パ 空襲をまぬがれた横浜港湾地域 1945年10月16日 複製 米国立公文書館蔵
○展 社会科教育用掛図
昭和 21(1946)年11 月に日本国憲法が発布されると我が国の政治の制度や考え方は戦前に比べて大きく 変わりました。納税やつかいみちについてわかりやすく理解するための教材として作られたのがこの掛図で
す。 1952(昭和27)年頃
○パ 昭和21年度略暦
戦後まもない1945年(昭和20)11月に印刷された。祝祭日が戦前のままで、また種蒔きなどの 農事暦や年齢早見表もついている。
○パ 真相はかうだ
日本の軍国主義思想を排除しようとのGHQ(連合国軍総司令部)の方針により、1945年(昭和20)
12月9日から「真相はこうだ」のラジオ放送がはじまる。しかし、露骨な内容のため強い拒絶反応をま ねいたので、GHQは翌年1月から柔らかい調子の「真相箱」という番組を開始した。展示資料は、「真相 箱」の内容を連合プレス社が再録刊行したものである。
平和が訪れても、長い戦争によって破壊されていた人びとの生活は、すぐには回復 できませんでした。日々の住まいと食料を探し求め、闇市や買い出しで精一杯 の暮らしでした。進駐軍の兵士が乗るジープを追いかけて、もらったお菓子の甘さと、商品の豊かさに 驚きました。そして、電化製品を使い、おしゃれな服装をするアメリカ人の生活様式にあこがれをもっ たものです。アメリカの映画、図書、音楽などが進駐軍によって普及したこともあって、戦争中には敵 性語として禁止されていた英語への関心が急速に高まり、英会話のラジオ放送や入門書が流行しました。
○パ 日本貿易博覧会資料
戦後の神奈川の復興は、食料問題、住宅問題、被災者の援護などさまざまな問題を抱えながら着手され た。県内の横浜・川崎・平塚・小田原の4市は政府の戦災復興事業に指定され、区画整理事業を中心に復 興が進められた。横浜は貿易港として再開することになり、その復興を期すために、昭和24(1949)年3 月から6月にかけて日本貿易博覧会が野毛山と反町の2会場で開催され、総計360万人の入場者を数えた。
しかし、県と横浜市の足並みが揃わなかったため赤字となった。
○展 トランジスタラジオ
NEC(Nippon Electric Campany) が1958年(昭和33)に販売開始した6石ポケットラジオ。赤色
をはじめ白、緑、青など多様な色違いパージョンがあり、1960年代に大きな人気を博した。
○展 手回式映写機
戦後、家庭でも映画を楽しむための手回式の映写機が流行した。「ポパイ」や「のらくろ」などの人気映 画をシーツを用いたスクリーンに投影して楽しんだ。
○展 真空管ラジオ、
○展 テレビ受像機 昭和30年代 実物
○展 初期のパソコン
日本語の処理できるパソコン(パーソナル・コンピュータ)が出現したのは、1981(昭和56)年のこと であった。富士通のFM8、日本電気のPC8001、新日本電気のDC6001がそれぞれ発売された。当初は、
日本語の入出力処理の能力が低くワープロの方が普及率は高かったが、パソコンの処理能力も向上し低価 格化によって急速に普及していった。陳列資料は、日本電気株式会社(NEC)製のPC880シリーズ。
戦後の生活
2012.5.15
豊かさを追い求めて、ひたすら走り続けた
-戦後復興から高度経済成長へ-
東京オリンピックと大阪万博は、
戦後の日本を世界の表舞台に立たせました。
しかし、そのかげで農業は衰退し、
交通戦争や公害等の社会問題が生まれました。
昭和30年(1955)を起点として、日本経済は高度成長の軌道にのります。
「もはや戦後ではない」「所得倍増計画」が流行語となったように、
戦後の
復興段階を越えて国際社会に復帰するため、日本人はがむしゃらに働きました。東京オリン ピックの開催決定は、新幹線や高速道路など社会資本の整備を促進させました。こうして開かれた 同
39年(1964)の東京オリンピックと同
45年(1970)の大阪の日本万国博覧会は、日本が経済 大国に成長したことを世界に示しました。しかし、この経済発展の反面で、大気汚染、交通戦争に みられる公害や、農業の衰退など、大きな問題も生み出しました。
● 東京オリンピック関係資料
昭和39年(1964)10月10日、抜けるような青空のもと、第18回オリンピック東京大会の開会式が史 上最高の94ヶ国の参加を得て開かれた。戦前の昭和13年(1938)にも東京大会の開催が正式決定してい たが、日中戦争の拡大などの理由で中止になっており、以来、26年ぶりの念願が実現したのである。東京 オリンピックの開催は、戦後の日本の復興と国際社会への復帰をスポーツを通して世界に示すためと、急 速に人口が増大した東京の都市問題を、周辺都市を含んだ都市基盤の整備によって解決の道を目指そうと したことの二つの目的があった。東海道新幹線の開通や首都高速道路、都営地下鉄の工事、上下水道の整 備などが東京オリンピックを契機に着手されたのである。
○展 東京オリンピックポスター
○展 東京オリンピック記念メダル・盃
○展 東京オリンピック公式カタログ
○展 東京オリンピックエンブレム
○展 オリンピック東京大会記念切手
○展 月刊朝日ソノラマ(東京オリンピック特集)
○展 映像メディア(模型)
高度経済成長の光と影
2012.5.15
テーマ5 現代の神奈川と伝統文化
〔民俗〕
薄れゆく村人たちの絆
伝統的なムラ社会では、村人たち独特の付き合い方がありました。田植えや屋根の葺き替え作業、道路の 補修などは重労働だったので、おたがいに協力して助け合うために、強い絆で結ばれていました。また、冠 婚葬祭の互助組織や祭礼を運営する祭祀組織、稲荷講・大山講といった信仰的講集団などの組織もムラのな かにしっかりと根付いていました。しかし、農具の発達、農地の宅地化、転入者の増加などにより、村や小 さな町の都市化がすすむなかで、村人たちの付き合い方も大きく変わりつつあります。
● 膳椀
結婚式などの祝儀や葬式などの不祝儀の際に使用する膳や椀などは共同所有し、ムラの共有財産として、
ワングラ(椀倉)といわれる物置に保管してきた。
○展 膳椀一式
パ 村の変遷(大正期・昭和中期・平成初期)
年中行事や冠婚葬祭の際に、贈ったり、返礼したりする品物のことです。古くは酒を酌 み交わす宴がもたれたなごりで、酒あるいは食品を贈答品とするのが普通です。実際の 贈答品には歳暮に鮭・鰤、年玉に餅・米、盆に素麺、餞別に金銭・守り札、出産に産着・米、婚礼に酒・
餅、葬儀には金銭・赤飯がみられました。婚礼や葬儀のとき県央部から県西部にかけては、ダイカイと呼 ばれる容器に、境川の東部では朱塗りのオハチに赤飯などを盛って贈ります。これらは、それぞれ 2 個で 一組となり、その単位を一荷といいます。
● ダイカイとアカオハチ(ハンディ)
赤飯を入れる容器で、ダイカイは丸型のくりぬきで、外は黒漆、中は朱塗り。アカオハチは蓋と鉢が朱 塗りでおひつのたがは黒漆で塗ってある。これらは、二個で一荷といい、結婚式や葬式などの際に赤飯を 入れて持参した。
○展アカオハチ(ハンディ) ダイカイ
伝統的なムラでは、他所からの転入者に対して一定のムラ入りの手続きを必要 としました。近年では、ムラの寄り合いの席に酒を持参し、挨拶をして認めて もらう程度ですが、かつてはムラの有力者を仲介人(身元引受人)に頼み、その人の紹介でムラへの加入 が認められる例が多くみられました。津久井郡城山町葉山島では、この仲介人をワラジヌギドといいまし た。承認されると、ムラの一員として冠婚葬祭などの互助組織に入り、ムラ生活を維持していくことがで きました。しかし、祭祀への参加や共有財産の使用については、古くからのイエとは平等ではない例が多 くみられます。
● メドバン帳
土葬の場合には、穴掘りは重要な大役であった。その役には、喪のない組や講中などから順番に2人と か4人出した。世帯主が出るが、独身者や妻が身持ちの場合は避ける。穴掘り帳(メドバン帳)という順 番表があり、これに記して回している。
○展 香典帳
○パ ムラの生活 贈答品
ムラ入りの儀礼