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(1)村上寅次の人間形成と西南学院

ドキュメント内 村上寅次『波多野培根伝』の研究 (ページ 66-70)

村上寅次は1913(大正2)年8月10日に福岡県八幡市(現在の北九州市八幡 東区)枝光に生まれ,早くに父を亡くしている。後に幼い日の記憶をたどり,

臨終の父を送った時を回想している。

126) 村上寅次の「履歴書」によると,村上は1938年4月に西南学院中学部に就職して いる。他方,『西南学院七十年史 上巻』(537頁)は1936年の西南学院中学部の宗 教部活動の中に村上寅次を教員として記しており,この報告からすると村上は1936 年には西南学院中学部の教員として在職している。また,村上寅次『歌集 望郷』(29 頁)には,「1936年 福岡市西新の西南学院高等学部に入学 百道松原の学寮に生 活す」とある。ここにも「1936年」とあり,村上が西南学院中学部に就職した年が 高等学部入学と誤って記憶された可能性を考えさせる。しかし,西南学院中学部の 就職時については「履歴書」を採用した。

村 上 寅 次 村上寅次『望郷』口絵より

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回想

意識なき臨終の父によりゆきて おづおづ呼べり幼なことばに

みちびかれ湿せる筆を手に持ちぬ いまわの父の唇うるおすと

貨物車のとどろき長き夜の更けを 迫りし父が命まもりぬ

127)

幼児が深い経験を言葉で理解することはできなくても,このような経験は彼 の生涯を貫いて存在の根底に関わる問いを発しつつ強い影響を与える。村上に とっても幼い日の父との死別という深刻な経験は,何よりも彼の感受性を鋭く したであろう。しかも人間の生死に敏感な彼の感受性は自ずと宗教的感性を芽 生えさせた。やがて,西南学院高等学部に入学した村上が学院のキリスト教や 波多野培根から決定的な影響を受けた根拠として,豊かな宗教的感性を内在さ せた彼の幼児経験が考えられる。さて,八幡市枝光にある地元の小学校を卒業 した村上は,1925(大正14)年4月に八幡中学校に進学する

128)

。次いで,1930

(昭和5)年4月には西南学院高等部商科に入学,玄南寮に入る。16歳であっ た

129)

。彼は西南学院高等部における4年間に生涯を決定するいくつかの重要な 出会いを経験する。

幼い日における父との死別という宗教的経験を実存的な求めとし,これに向

127) 村上寅次『歌集 望郷』47‐48頁。

128) 旧制中学校の修業年数は5年間であった。したがって村上の場合,1925年4月に 八幡中学校に入学し,1930年3月に卒業したと推定される。

129) 西南学院高等部の当時の修業年数は4年間であった。したがって,村上は1930年 4月から1934年3月まで在学したと考えられる。なお,彼が所属した学科は商科で あった。この事実は彼自身の証言によって確認できる。『西南学院七十年史 上巻』

727頁。

村上寅次『波多野培根伝』の研究 −67−

けた答えとして村上寅次が西南学院高等部で出会ったのがキリスト教信仰であ る

130)

。この信仰は彼の魂に平安をもたらしただけでなく,彼の生涯を決定した 他の出会いにも通定した。村上が残した歌集には若い日にキリスト教の真実に 向かう姿を歌った短歌がある。

阿蘇湯の谷行

心しづめ聖書に対うひとときを 谷風こもり梢ならしぬ

ローマ書七章

うつせみのなやみを越えていにしえの 聖人が説きしこれの文はも

砕けたる心を神はよろこぶと 知る時しややに心ひらけり

131)

第2に村上が研究者として生涯追求することとなったテーマ,キリスト教 教育との出会いである。彼は後に『教育的実存とキリスト教−福音の下におけ る教育論−』

132)

(以下,『教育的実存とキリスト教』と略記する)を著したが,

「序」で次のように述べている。

最後に,著者が西南学院在学中,教育とは何かを身をもって示し,さらに 著者を導いて教育学研究に入らしめて下さった現同志社大学教授篠田一人先

130) 村上寅次は1938年4月(他の資料によると1936年4月)に西南学院中学部に就 職すると,早い時期から教師として宗教部活動に参加していた。この事実は西南学 院高等部在学中に村上がキリスト教と実存的に出会っていた可能性を推測させる。

131) 村上寅次,前掲書,50‐55頁。

132) 村上寅次『教育的実存とキリスト教−福音の下における教育論−』ヨルダン社,

1962

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生の深い学恩を記さずにはおられない

133)

多彩な内容を含む『教育的実存とキリスト教』で注目すべきは,「第一部 教育的実存とキリスト教」である

134)

。ここでは現場で教育活動に取り組む教員 の実存的課題がキリスト教の立場から考察されている。ところで,このような 実存的考察は如何にして可能なのか。第1部が教育現場における村上の経験に 裏づけられた実践的性格を持つことは言

うまでもない。そして,彼の教育現場に おける経験の中核には西南学院高等部で 彼自身が受けた教育がある。

第3は教育への志であり,これが波多 野培根から村上が受け取ったものである。

培根は1930(昭和5)年9月15日に西南 学院高等部の学生寮,玄南寮3階の第1 号室に移っている。以来3食を玄南寮で 採るなどして,高等学部の学生と共同生 活をした

135)

。村上は1930年4月に入学し て以来,玄南寮で生活した

136)

。したがっ て,玄南寮では村上が培根の半年先輩で あり,彼は培根とは3年半寮生活を共に した。そこで,村上が培根から継承した 精神性がキリスト教教育への志である。

133) 村上寅次,前掲書,3頁。

134) 『教育的実存とキリスト教』は3部構成となっている。次の通りである。

第1部 教育的実存とキリスト教 第2部 プロテスタント教育の歴史的展開 第3部 現代キリスト教教育研究の動向

135) 玄南寮は3階建てで1部屋8畳に学生2人が生活した。定員数は50名で,培根は 3階の西端の部屋であった。参照,村上寅次『波多野培根伝(四)』稿本,1186‐1188頁。

136) 参照,村上寅次『歌集 望郷』29頁。『西南学院七十年史 上巻』627‐628頁。

培根が愛し,村上が『波多野伝』の冒頭 においた方正学の漢詩

村上寅次『波多野培根伝(一)』稿本(2頁)

提供:西南学院100周年事業推進室 村上寅次『波多野培根伝』の研究 −69−

彼は,『波多野伝』稿本の冒頭で記している。

国家使数十年無才智士 国家不可一日無気節士

(国家数十年才智の士無からしむとも 国家一日も気節の士無からしむべからず)

方正学

137)

強調されている「気節の士」の育成こそ培根におけるキリスト教教育の志

であり,これが村上『波多野伝』稿本の主題でもある。村上は玄南寮におけ

る寮生活を初めとした西南学院高等部で培根に身近に日常的に接し,彼のキ

リスト教教育の志に触れた。やがて村上自身も教育への志を継承して生きる

なかで,培根との出会いの意味を再確認しながら取り組んだのが『波多野

伝』稿本に違いない。

ドキュメント内 村上寅次『波多野培根伝』の研究 (ページ 66-70)