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『順正理論』に説かれる衆賢説

ドキュメント内 佛教文化研究 第60号 (ページ 177-180)

 前節までに検討したように、有部において無表は異熟果を取るものと理解されている。し かし『順正理論』を検討すると、無表がどのような異熟果を取るのかについては、有部にお いて見解が分かれていたようである。そこで本節では、この『順正理論』に説かれる衆賢説

13) Dhammajoti[2003:note 30],[2007a:pp. 517.30-518.4, p. 534 note 112](=[2009:p. 395.20-25, p. 406 note 114])

14) 『大毘婆沙論』巻122(T27. 639b10-11);AKBh. (p. 8.9);AKVy. (p. 30.8-16)

15) 上記の前後の箇所もDhammajoti[2007a:p. 515.9-16](=[2009a:p. 393.29-35]によって引用 され、本稿の理解とは違う角度から検討されている。『大毘婆沙論』では無表について「律儀業」

「勝業」「律儀果」「大果」などの言及があることを指摘している。

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とは互いに倶有因であるとされる。そして、これら随心転の諸法は、心と同一時に起こり、同一 果をもち、善等の同一の自性をもつとされる。

 

   AKBh. (p. 84.1-6):

    katham ete cittam anuparivarttante / samāsatah4

      kālaphalādiśubhatādibhih4 // 2, 51cd //

     kālas tāvac cittenaikotpādasthitinirodhatayā ekādhvapatitatvena ca / phalādibhir ekaphalavipākanihs4 4yandatayā / pūrvakas tv ekaśabdah4 sahārthe veditavyah4 / śubhatādibhih4 kuśalākuśalāvyākr4tacitte kuśalākuśalāvyākr4tatayā / evam4 daśabhih4 kāran4aiś cittānuparivarttina ucyante /

    【問】どのように、これらは心に随って起こるのか。【答】要約すれば、

      時と、果などと、浄などとによってである。(2, 51cd)

     まず、時とは、〔随心転の諸法が〕心と同一に生じ、〔同一に〕住し、〔同一に〕滅すること によって、そして同一の世(adhvan)に属することによってである。「果などと」とは、同 一の〔士用・離繫〕果をもち、〔同一の〕異熟〔果〕をもち、〔同一の〕等流〔果〕をもつこ とによってである。ただし前(生・住・滅の解説部分)にある「同一」の語は、「倶」の意 味として理解すべきである。「浄などとによって」とは、善・不善・無記の心であれば、〔そ れに従ってこれらも〕善・不善・無記であることによってである。このように〔生・住・滅・

世・果・異熟・等流・善・不善・無記の〕十因によって随心転であると言われる。

   AKVy. (p. 192.8-13):

     ekaphalatayaikavipākatayaikanis4yam4datayā ca cittam anuparivartante. phalam iha purus4akāraphalam4 visam4yogaphalam4 ca. vipākaphalanis4yam4dayoh4 pr4thaggr4hītatvāt.

adhipatiphalam4 tu sarvasādhāran4atvāt na gan4yate. ayam4 caikaśabdah4 sam4khyāne sādhāran4e vā ekaphalatayetyādi. pūrvakas tv ekaśabdah4 sahārthe cittena sahotpādasthitinirodhatayety arthah4. na hy atra sam4khyānārthah4 sam4bhavati. na hi yaś cittasyotpādah4. sa eva cittānuparivartinām4. yo vā tes4ām4. sa cittasyeti.

     果を同一とし、異熟を同一とし、等流を同一とするゆえに、心に随転する。ここでの「果」

とは、士用果と離繫果とである。異熟果と等流〔果〕とは別に含まれるからである。一方、

増上果は、すべてに共通であるから〔この中に〕含まれていない。また、この「同一」なる 語は、「数」〔の意味〕として、あるいは「共通」〔の意味〕として「同一の果」云々とある。

ただし前(生・住・滅の解説部分)にある「同一」なる語は、「倶」の意味として〔つまり〕

「心と倶に生・住・滅がある」という意味である。なぜなら、その場合には「数」の意味は あり得ないからである。なんとなれば、心の生〔相〕は随心転の〔生相〕ではなく、あるいは、

それら〔随心転〕の〔生相〕は心の〔生相〕ではないからである。

   同趣旨は、『大毘婆沙論』巻16(T27. 82b09-16),巻155(T27. 787b26-29);『順正理論』巻15(T29.

418a22-b05);『蔵顕宗論』巻9 (T29. 815a14-b08)を参照。また倶有因に関する問題点について は兵藤一夫[1985]を参照。

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有因となっている諸法が同一の果をとることは、有部論書の各所に説かれている。AKBh.は、次 の場合に倶有因が適用されるとする。

   AKBh. (pp. 83.16-84.1):

      sahabhūr ye mithah4phalāh4 / (2, 50b)

     mithah4 pāram4paryen4a ye dharmāh4 parasparaphalās te parasparah4 sahabhūhetur yathā katham /

      bhūtavac cittacittānuvartilaks4an4alaks4yavat // 2, 50cd //

     catvāri mahābhūtāny anyonyam4 sahabhūhetuh4 / cittam4 cittānuvarttinām4 dharmān4ām4 te 'pi tasya / sam4skr4talaks4an4āni laks4yasya so 'pi tes4ām / evam4 ca kr4tvā sarvam eva sam4skr4tam4 sahabhūhetur yathāyogam / …中略… / ke punar ete cittānuvarttino dharmāh4

/

      caittā dvau sam4varau tes4ām4 cetaso laks4an4āni ca / cittānuvarttinah4 (2, 51abc)

     sarve cittasam4prayuktāh4 / dhyānasam4varo 'nāsravasam4varas tes4ām4 ca ye jātyādayaś cittasya ca / ete dharmāś cittānuvarttina ucyante /

      倶有〔因〕なるは、互いに果となる〔諸法〕である。(2, 50b)

     「互いに」とは、「相互に」ということである。諸法が相互に果となれば、それらは相互に倶 有因である。【問】どのようにか。【答】

       大種〔が相互に〕と、心と心に随い転ずるもの(随心転)と、相と所相とのようにである。

(2, 50cd)

     四大種は互いに倶有因である。心は随心転の諸法の〔倶有因であり〕、それら〔諸法〕もそ れ(心)の〔倶有因である〕。有為〔法〕の〔四〕相は、所相(その相を有する有為法自身)

の〔倶有因であり〕、そ〔の有為法〕もそれら(四相)の〔倶有因である〕。またこのように、

すべての有為〔法〕は、理に応じて、倶有因である。…中略…。【問】では、この随心転の 諸法とは何か。【答】

       心所と、二つの律儀と、それら〔三者〕の〔四相〕と、心の〔四〕相とが、随心転である。

(2, 51abc)

     全ての心相応〔法〕と、静慮律儀と無漏律儀と、それら〔三者〕の生(jāti)など〔の四相〕

と、心の〔四相〕との、これら諸法が随心転であると言われる。

   AKVy. (p. 191.29-31):

     tes4ām4 ca ye jātyādayaś cittasya ceti. tes4ām4 ca cittasam4prayuktānām4 cetanādīnām4 dhyān-asam4varasyānāsravasam4varasya ye jātyādayaś catvāro dharmāś cittasya ca te(1)

cittānuparivartina ucyante.

     「それら〔三者〕の生(jāti)など〔の四相〕と、心の〔四相〕との」とは、「それら心相応 である思などと静慮律儀と無漏律儀との生(jāti)などの四法と、心のそれ(生などの四法)

とが、随心転であると言われる。

       (1) cittasya ca teは、Wogihara校訂本の註(p. 191 註3)により補う。

   すなわち、心と随心転の諸法(心所法・静慮律儀・無漏律儀・これら三者の四相・心の四相)

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何故に無記法は異熟を起こさないのか。【答】腐敗した種のように、力が弱いからである。

【問】何故に無漏法は〔異熟を起こさ〕ないのか。【答】〔水に〕潤されていない堅実な 種のように、渇愛に潤されていないからである。なぜなら、非繫〔である無漏法〕が、

如何なる〔界に〕繫せられた異熟を起こさせるというのか。〔起こさせるはずがない。〕

けれども、堅実で〔水に〕潤された種のように、その他は〔力強さと、渇愛による湿潤 という〕二種を具えているので〔異熟を〕起こさせる。

 これと同趣旨がほぼ全ての有部論書において説かれるが、そこに「無表が異熟因とはなら ない」という例外規定は設けられていない9。従って、無漏律儀を除く静慮律儀、別解脱律儀、

不律儀、非律儀非不律儀は、いずれも善もしくは不善の有漏法であるから10、それらは異熟 因となって異熟果を取ると理解することが妥当である11

ドキュメント内 佛教文化研究 第60号 (ページ 177-180)

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