藤沼邦彦・板橋秋穂・松田元生
l 槻ノ木遣誹の立地
槻ノ本遺跡は青森県の中央、陸奥湾に揺する平内町の小湊地区に所在するひ平内町は青森市と 地震
I
に挟まれており、南は八甲間山に連なる山岳地苦、j
とは陸奥湾に突出する東泊半島となっている槻ノ木遺跡辻平内町役場から車総距離にして高東へ約1km、小湊JIIの右岸から夜華山へと続く標高
10m
の河岸段丘上に位置するむこの地域は6、ア月になるとヤマセと呼ばれる季節風が吹き、その影 響で非常に風が強く、気温も上がりにくしh
かつて槻ノ本遺跡は他に、錦野里遺跡、下槻遺跡、小湊遺跡、などとも呼ばれた
2 .
機ノ木遺跡の欝査麗( 1 )小湊中学校教職員、町喜志による発掘
1 9 4
ラ(昭和2 4 )
年4
月に小野忠明による調査が行われたっ詳しい遺物の出土状況は不明であるが、内耳史j に発掘当時の現場写真と遺坊の出土状況の写真が掲載されているむ
( 2
)襲塵義塾大学による発掘調査1 9 5 1
(昭和2 6 )
年7
Ji 31 日 ~8 月 4 日の 5 日間にわたり発掘を行っているむ慶応大学の藤田亮策を 中4
、に、清水潤三・江坂輝弥、それに地元の小野忠明などが参加したむ遺跡、の南部にある娼に さ20m
、幅2m
のトレンチを設定した。表土下2 5c m
の黒一士!言内から土師器・亀ヶ詞式土器・装飾品などが出土した(平内町
1 9 7
ア)む型式と腎位の関係は明らかではないc( 3
)平内町教資委員会と平内町郷土史研究会による発掘調査1 9 6 5
(昭和4 0 )
年5
月2
・3
・5
日の3
日開に、延べ7 2
人が参加したり発掘地点試遺跡中央から 北寄ちの焔で、長さ8m
、 幅2m
のトレンチを3
本設定し、それぞ、れA
、B , C
と名づけた(平内町1 9 7 7 ) 8
なお資料は平内町郷土資料館に所蔵されているC 出土した土器辻1 7 0
点を越えていたが、などは不明で、ある
3 .
実淵図化の対象とした槻ノ木遣欝の遺物今回資料{とを行ったものは、自中忠三郎氏が保管しているもので、国
3 3
のみ青森県立郷土館所蔵の るc 問中氏が発掘した槻ノ木遣誌の資料の大部分;之、現在国立歴史民許可博物館に所載されて いるな問中氏の所にあるものは、その残りである槻ノ本遺跡から出土した遺坊の総数は不明であるが、国立竪史民裕博物館に所載されているものだ けでも、約
8 0 0
点あるc また、問中氏が現有している遺物の写真、平内町金郷資料館の展示品をると、大
j
阿君式と大漏B C
式の土器が多く、槻ノ本遺跡はこの時期を主体とした遺跡であると言う こと治宝できるむち る
槻ノ木遺跡の出土遺物 (国立歴史民俗博物館所蔵)
国立歴史民俗博物館 『縄文時代の扉を開く 一三内丸山遺跡から縄文列島へ‑
J 2 0 0 1
より転載〈
槻ノ木遺跡、の基本文献〉1 9 5 5
年 清水潤三「青森県東津軽郡小湊遺跡J r
日本考古学年報J 3
日本考古学協会1 9 5 5
年 清水潤三「青森県東津軽郡小湊遺跡J r
日本考古学年報J 4
日本考古学協会1 9 6 6
年 平内町教育委員会 『縄文土器写真集 第一集J
平内町郷土研究会1 9 7 7
年 平 内 町 「 第 二 章 町 の あ ゆ み 第一 節 先 史 時 代J r
平 内 町 史 上 巻J
1 9 9 0
年 青森県埋蔵文化財調査センター編 『北の誇り・亀ヶ岡文化』図説ふるさと青森の歴史シリー ズ③
青森県教育委員会2 0 0 3
年 小林圭一「東北北半における縄文晩期前葉の注口土器J r
研 究 紀 要 創 刊 号j 財団法人山形 県埋蔵文化財センター円i
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7
時空込万百宅金五三F~骨三三雷
①区画文を施す。
8
②充填文を施す。
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10cm第 66 図 槻 ノ 木 遺 跡 出 土 土 器 (7
・8)
‑99 ‑
o
10cmi r一 「 寸
①区画文を施す。
②配置文を施す 。
③充場文を施す。
第
6 7
図 槻 ノ 木 遺 跡 出 土 土 器( 9)
‑100 ‑
7 r
日14
1 5
、 と 二 二 二 二二三 ジ
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10cm t己
第
6 8
図 槻 ノ 木 遺 跡 出 土 土 器( 1 0 " ' 1 5 )
‑101 ‑
①
区画文を施す。O 10cm
②充填文を施す 。
③充填文の抜き出し
。
第
6 9
図 槻 ノ 木 遺 跡 出 土 土 器( 1 6 )
‑102 ‑
18 17
ドキュメント内
亀ヶ岡文化遺物実測図集 -
(ページ 101-108)