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 開かれた国家に必要なのは、ヘルダーが言うような民族の独自性、アイデンティティの 承認であり、その承認を拒否してはならない。ここではr承認をめぐる政治』のさまざま な定義について考察し、開かれた国家がどのようなものかを探っていく。承認をめぐる政 治には次の二通りの解釈がある。

①名誉から尊厳への移行とともに、普遍主義的な政治が生じ、全ての市民の平等な尊厳を 強調するようになった(諸権利の平等化)。すべての立場はそれがいかに反動的なものであ

っても、この原則への引照によって擁護されているのである。

②これとは対照的に承認をめぐる政治は差異をめぐる政治をも意味する。差異をめぐる政 治において我々が認めることを求められるのは、ある個人や集団の独自のアイデンティテ ィ、すなわち他のすべての人々からの区別である。これは差異の承認とも言い換えられる。

 差異をめぐる政治は、様々な再分配の政策や特定の人々への特別の機会の提供など平等 な地位の変更を引き起こし、結果として①の立場、普遍的な尊厳をめぐる政治と衝突した。

 例えば、差異をめぐる政治における差別禁止の概念は、「差別しないように異なる処遇を 与える」というものである。これまで利益を受けてこなかった集団の出身者に対して、求」 ぎ 職や大学入学について競争上の便宜を与えるという逆差別措置は、永遠に区別を維持し擁i 記することを意味し、平等な尊厳を失わせるものである。

 何を承認するかによってこれらの政治は対立し、乖離する。承認をめぐる政治では特定 の普遍的諸権利の承認、差異をめぐる政治では特殊なアイデンティティの承認を要求する が、その根底にある価値観を見るとき、この乖離の基礎の一つはより一層明確になる。

 平等な尊厳をめぐる政治は、全ての人間が等しく尊敬を受ける価値があるという観念に もとづいている。カントによると、我々の内にあって尊敬を命じるものは、自らの生を導 く能力を持つ理性的主体としての我々の地位である。カント以来、それに類するものが、

平等な尊厳についての我々の洞察の基礎であり続けてきた。

「このようにここで価値があるものとして取り出されたものは、普遍的な入商あ潜在的 能力、全ての人間が分かち持つ能力である。人がこの潜在的能力を使ってなすことではな

く、この潜在的能力それ自体が、全ての人が尊敬に値することを保証するものである。実 際この潜在的能力の重要性についての我々の感覚は、次のようなところまで及ぶ。すなわ ち、ある状況がふりかかったために、自らの潜在的能力を正常な仕方では現実化できない

人々一例えば障害者、あるいは昏睡状態にある人々一にまでも、我々はこの保護を及ぼす のである。21」

 差異をめぐる政治においても、普遍的な人間の潜在的能力がその基礎にあるといってよ い。すなわち、個人として、またひとつの文化として、自らのアイデンティティを形成し、

定義づける潜在的能力である。この潜在的能力が、全ての人において尊重されなければな

らない。

「しかし少なくとも文化間関係の脈絡においては、近年、より強い要求が生じるに至った。

すなわち、現実に生成した諸文化に対して、人はみな平等な尊重を与えるべきであるとい う要求である。ヨーロッパないし白人による支配に対する批判者たちは、彼らが他の文化 を抑圧してきたのみでなく、これらを正当に評価することに失敗してきたとして、この侮 蔑的な判断が事実として間違っているのみでなく、ある意味で道徳的に誤っていると考え

る。22」

 この強い非難が働く限りにおいて、平等な承認の要求は全ての人間の潜在的能力を認め ることを超えて広がり、彼らがこの「潜在的能力から現実に作り出したもの」に平等な価 値を認めるということを含むことになる。これが承認をめぐる政治と差異をめぐる政治の 乖離であり、後に見るようにこれは深刻な問題を生み出す。

 これら二つの政治形態は、共に平等な尊敬の観念にもとづきながら、対立するに至る。

一方にとっては、平等な尊敬の原則は、我々が差異を顧慮しない仕方で人々を扱うことを 要求する。人間がこの尊敬を命ずるという基本的洞察は、全ての人々において同一なもの に焦点を当てている。

 他方においては、我々は特殊性を認め、更に溺養さえしなければならない。前者が後者 に対して行う非難は、まさに後者が不差別の原則を侵害するというものである。後者が前 者に対して行う非難は、前者が人々を、彼らにとって非本来的な、均質な鋳型へと押し込 めることにより、アイデンティティを否定するというものである。このことは、その鋳型 がそれ自体では中立的なものである場合でも一すなわち、特定の誰かのものではない場合

21テイラー1996、58頁 22テイラー1996、59頁

でも一、十分に悪いといえるであろう。

 二つの政治形態が持つそれぞれの性質から、平等な尊厳をめぐる政治には次のような批 判がある。

「すなわちその主張によれば、平等な尊厳をめぐる政治の、差異を顧慮しない中立的な一 連の諸原則なるものは、実際には、ひとつの支酉己的な文化の反映である。そうであるとす れば、少数派のあるいは抑圧された諸文化のみが自自疎外の形態をとることを強制されて いることが分かる。この結果、公平で差異を顧慮しないと想定された社会は非人間的であ る(アイデンティティを抑圧するから)ばかりでなく、先行的で無意識な形において、そ れ自体極めて差別的なのである。23」

 平等な尊厳をめぐる政治が差別的であるといわれている理由は、それが個々のアイデン ティティを抑圧するだけでなく、無意識に支配的(少数派を排除する)な性格を持つから である。平等な尊厳に基づく自由主義は、「普遍的で差異を顧慮しない一定の諸原則が存在 すること」を、想定しなければならない。我々はそれをいまだ定義づけるに至っていない番 かもしれないが、それらを定義づけるという課題は、本質的なものとして生き続けるので

ある。

「差異をめぐる政治の、最も急進的な形態によって提起された批判は、r(差異を)顧慮し ない』自由主義の諸形態は、それ自体で、特殊な諸支化(わ皮映であるということである。

すなわち、この偏向が単に、これまで提唱された全ての理論がたまたま持っていた弱点で はないかもしれないという考え、このような自由主義の観念自体が一種のプラグマティッ クな矛盾、すなわち、普遍的なものを装った特殊主義かもしれないという考えである。24」

 つまり、差異を顧慮しないという偏向、平等な尊厳をめぐる政治は必ずしも普遍的なも のではないことがここから読みとれる。では、どのようにしてこれら二つの政治は出現し たのか。西洋社会におけるこれらの出現の重要な諸段階のいくつかを一瞥しながら、ゆっ くりと、かつ慎重にこれら一連の争点に移っていきたい。最初に、平等な尊厳をめぐる政

23テイラー1996、61頁 24テイラー1996、61頁

治を見ることにする。

「平等な尊厳をめぐる政治は、西洋文明において二つの様式を取って出現した。我々はこ れらを二人の旗手、ルソーおよびカントの名前と結びつけることができよう。もっともこ の意味するところは、これら二つの様式の実例の全てが、これら二人の巨匠の影響を受け てきたということではなく、彼ら二人がこの二つのモデルの、初期の傑出した定式者であ るということに留まる。我々は、これら二つのモデルを検討することによって、それらが どの程度まで、偽りの同質性を押し付けるという批判を受けるに値するのかを測定するこ とができる。25」

 ルソーは「平等の一なかの一自由」の状態を、「階層秩序と他者依存」によって特徴づ けられる状態と対置させる傾向を持つ。後者の状態においては人間は他者に依存するが、

これはそうした他者が政治権力を行使するという理由、あるいはその人が生存や自らの大 切な計画の成功のためにそうした他者を必要とするという理由のみによるのではない。こ れは何よりも、彼が他者による承認を渇望するためである。他者依存的な人間は評価

(opinion)の奴隷なのである。

 この着想はルソーが他者依存と階層秩序の間に想定する結びつきの革新的要素のひと つである。論理的に見れば、これら二つは相互に分離可能であるように見える。平等の状 態において、他者依存がありえないのはなぜなのであろうか。これがありえないとルソー が考えた理由は、彼が他者依存を他者から良い評価を受ける必要と結びつけ、そしてこの 評価を伝統的な名誉の観念の枠組みの中で、すなわち本質的に優越性と結びついたものと 理解したからである。この状態において我々が追い求める好評は、本質的に差別的なもの である。それは地位にもとつく善なのである。

 ここにおいて名誉が持つこのような決定的な位置のゆえに、人類の堕落した状態は、逆 説的に次のような性格を合わせ持つ。すなわち権力(の保持)において不平等であるが、

同時に全ての人々が他者に依存している、つまり奴隷が主人に依存しているだけでなく、

主人も奴隷に依存しているのである。

25テイラー1996、61頁

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