1.近視進行抑制の必要性
世界的に近視の有病率は増加しており,Brien Holden Vision Institute (http://www.brienholden vision.org/)の推定によれば,現在 16 億人,2020 年には 25 億人の人々が近視に罹患すると報告され ている。殊に東南アジアの近視有病率は高く,若年 層での有病率が 80%を越える国々も少なくない。
残念ながらわが国では,屈折異常に関する大規模な 疫学的データは調査されておらず,正確な近視の有 病率は不明である。
近視が強度になれば,黄斑変性症,網膜剝離,緑 内障といった失明につながる眼疾患,さらに白内障 を発症しやすいことが広く知られている。緑内障に 関する疫学的調査 Tajimi study で,同時に実施さ れた屈折検査では-5 D を越える近視が 8.2%と報 告され(Iwase A et al, 2006),強度近視が成人失 明(矯正視力 0.05 未満)の第一位の原因疾患であっ た。また厚生労働省研究班によって実施された視覚
障害 1 級の原因疾患は,緑内障 26%,糖尿病網膜 症 21%,網膜色素変性症 8.8%,強度近視 6.5%で あると報告されている。
学童期に何故近視が進むか,1950~1970 年頃に は,眼軸長の過伸展による眼軸説と水晶体の屈折力 が強まるとする屈折説に分かれ,わが国でも学問上 の論争が繰り広げられた。しかし 1980 年代になる と,超音波やレーザー干渉計など生体計測の技術進 歩により正確に眼軸長を測定することが可能とな り,その結果,学童期の近視進行は,軽度近視から 高度近視に至るまで眼軸長の過伸展が主な原因であ ることが明確になっている。さらに近年のコホート 研究によれば,強度近視に移行する症例の危険因子 は学童期の近視の強度であることが報告されている
(Gwiazda et al, 2007)。したがって,学童期に近視 進行や眼軸長の過伸展を抑制することができれば,
強度近視の有病率を低下させ,さらには黄斑変性 症,網膜剝離,緑内障といった眼疾患の発症を抑止 することが期待される。近視の有病率を考えたと き,効果的な近視進行抑制治療が確立されれば,社 会的に,また医療経済に及ぼすインパクトは極めて 大きいといえる。
2.眼鏡レンズによる近視抑制治療の機転 1990 年代になると,Earl Smith は生後間もない サルを対象として一連のレンズによる近視化実験を 行った。その結果,凹レンズで網膜後方への焦点ず れ(ボケ)を与えると,軸長が過伸展を示し,近視 進行を促すことが明らかになった(lens-induced myopia)。このような現象は,他の動物種を対象と した研究でも複数報告されており,これらの知見を 基に,「眼軸長の視覚制御機構(visual regulation of axial length)」の理論が確立された(Smith E,
1998)。さらに網膜後方へのデフォーカスが強膜の 性質にどのような機転で影響を及ぼすのか,網膜内 における神経伝達系に関する基礎研究が進んでい る。近年では,眼軸長の視覚制御機構は,本来正視 化(emmetropization)を促す生理的な適応機能で あったが,近業を強いられる情報化社会においては 眼軸長の過伸展を促すものと考えられている。
次に Jane Gwiazda らは,近視の学童の調節反応 を他覚的に測定し,正視の学童に比べ網膜像のボケ に対する調節反応が悪く,調節ラグ(lag of accom-modation), す な わ ち 近 業 時 の 網 膜 後 方 へ の デ フォーカスが大きいことを報告し,過大な調節ラグ が近視進行の原因であると考えた(Gwiazda J, 1993)。
さらに,Earl Smith や Frank Schaeffel らは,実験 動物において周辺部網膜に局所的に後方へのデ フォーカスを加えた時,対応する局所に眼軸の過伸 展が生ずることを発見し,眼軸長の視覚制御のメカ ニズムは,黄斑部に限定された機能ではなく,むし ろ周辺網膜の役割が大きいことを示した(Smith EL et al, 2005 & 2009)。さらに Hoogerheide らの 網膜周辺部に後方へのデフォーカスを認めた症例で 近視が進行するという臨床的な観察(Hoogerheide J, et al, 1971)をもとに,Neil Charman らは周辺部 網膜における網膜後方へのデフォーカスが近視進行 の主な原因であるという新たな仮説を示した(Char-man WN, Radhakrishnan H,2010 & Schmid GF, 2011)。現在の標準的治療法である単焦点レンズで
近視を矯正するとき,周辺視野から来る光線はレン ズ素材を斜めに通過することから,軸外乱視(off- axia astigmatism, oblique astigmatism)とともに 軸外遠視(off-axis hyperopia)が発生する。さらに 近視眼では長眼軸により眼球は前後に長いプロレー トな形状を取る場合が多く,その時後極部網膜はよ りスティープとなるため,光学的な焦点面である image shell との間にずれを生じ,近視眼の周辺網 膜に向かうほど後方へのデフォーカスを発生しやす いと考えられる。
眼鏡レンズやコンタクトレンズを用いる光学的近 視進行抑制治療はいずれも,これら網膜後方へのデ フォーカスを生ずる要因を取り除くことによって,
眼軸長を安定化させることが主なねらいである。
レンズ下方に漸増するプラスパワーを配置した累 進屈折力眼鏡レンズ(progressive addition lenses:
PALs)は,調節必要量を減じることによって,近 業時の調節ラグを軽減する効果があり,また後述す るレンズ周辺部にプラスパワーを配置した特殊非球 面の眼鏡レンズは,周辺部網膜への後方へのデ フォーカスを軽減させる作用を持つ。
3.ハイレベルの科学的根拠
21 世紀になって実施された近視進行抑制に関す る臨床試験の大部分は,無作為化や二重盲検化など evidence-based medicine(EBM)の要件を備えて おり,統計学的な方法論に基づいて,遺伝因子や環 境因子など近視の進行に係わる背景因子や調節ラグ や近見眼位などの臨床的特徴を交絡因子として統計 学的に調整し,より精密にデータを解釈しようとす る努力がなされている。米国医療政策研究所はエビ デンスのレベルをⅠ:複数の無作為化比較対照試験 のメタアナリシス,Ⅰb:無作為化比較対照試験,
Ⅱa:非無作為化比較対照試験,Ⅱb:その他の準 実験的研究,Ⅲ:非実験的記述的研究,Ⅳ:専門家 委員会や権威者の意見に分類しているが,眼鏡レン ズによる近視進行抑制研究においても,2000 年か ら約 10 年間に,レベルⅠ,Ⅰb に該当するハイレ ベルの科学的根拠が集積されている(Walline JJ et al, 2011 & Li SM et al, 2011)。
筆者らも PALs を用いて,学童の近視進行抑制を 目的とした無作為化臨床比較対照試験(エビデンス レベルⅠb)を実施した(Hasebe S, et al, 2008)。
後方へのデフォーカス
後方へのデフォーカス
後方へのデフォーカス 近業時にみられる調節ラグ(Gwiazda)
周辺網膜での相対的屈折誤差(Charman& Smith)
Image shell(焦点面)
図 1 網膜後方へのデフォーカスが起こる仕組み
95 名の軽度~中等度近視を示す小学生を対象とし て 3 年間にわたり経過観察を行った。18 ヶ月毎に 得た調節麻痺下の自動レフ値に基づいて近視進行速 度をもとに PALs の近視抑制効果を評価した結果,
近見加入度数+1.5 D の PALs(Sola MC-PAL)は 対照である単焦点レンズ(SVL)に比較して平均 0.17 D/ 年近視進行を抑制する(p = 0.007)ことが 明らかになった。さらに,二元配置分散解析(混合 モデル)により治療―治療順序因子が有意(p = 0.0223)であったことから,治療開始が早いほど抑 制効果が大きいことが明らかになった。
また 6 ヶ月間隔で実施した非調節麻痺下の自動レ フ値を用いた再検討においても,6,12,18 ヶ月時
点における平均近視進行(PALs/SVLs)は,トラ イ ア ル 前 半(0~18 ヶ 月 ) で は そ れ ぞ れ 0.29 D/
0.52 D,0.63 D/1.04 D,0.97 D/1.37 D,トライアル 後半(18~36 ヶ月)ではそれぞれ 0.33 D/0.43 D,
0.60 D/0.64 D,1.02 D/0.95 D であり,非調節麻痺下 の自動レフ値においても調節麻痺下の自動レフ値に 基づく結果とほぼ同様の抑制効果が示された。これ に加えて,経過観察期間内であっても,時間経過と ともに PALs の効果は低下する傾向がみられた。
初めて PALs を近視進行抑制に用いた Leung は,
屈折度において抑制率 46%という強力な治療効果 を報告した(Leung JT, et al, 1999)10)。民族や生活 習慣などにより,近視の進行速度には大きな差があ るため,研究結果を一様に比較することはできな い。しかし,その後に実施された多数の無作為化比 較対照試験ではいずれも,Leung が報告したほど 大きな効果は得られなかった(表 1)。報告された 単焦点レンズに対する PALs の抑制効果は,屈折度 で 11~17%,眼軸長で 2~13%に止まり8),11),治療 効果は統計学的には有意であるが,臨床的治療法と しては不十分であり,標準的な近視進行抑制治療と しては推奨できないというのがメタ解析(エビデン スレベルⅠ)のおおよその結論である(Walline JJ et al, 2011 & Li SM et al, 2011)。
4.周辺網膜における後方への デフォーカスの是正
メタ解析により PALs による近視進行抑制効果が,
統計学的には有意であったが,臨床治療としては効 図 2 累進屈折力レンズ(PALs)の近視進行抑制効果
3 年間の平均近視進行を示す(n = 92)。参加者は,グ ループ 1 とグループ 2 に無作為に割り付けされ,二重盲 検化を遵守した。検査はクロスオーバー法により,観察 期間の中間地点(18 ヶ月)でレンズの種類を交代した。
PALs:累進屈折力レンズ,SVLs:対照の単焦点レン ズ。
0.0
0 18 36
PALs
PALs SVLs SVLs
グループ1 グループ2
平均近視進行(D)
時間経過(月)
-0.5
-1.0
-1.5
-2.0
-2.5
図 3 PALs を用いた近視進行抑制の臨床試験―メタ解析 統計学的には有意であるが,臨床効果としては小さい(抑制率:14%)。
0.00 0.25 N.A.
統合平均値差
0.00 Leung(1999)
Shih(2001)
Edwards(2002)
COMET(2004)
Hasebe(2008)
Yang(2009)
Cheng(2010)*
-1.50 -1.00 -0.50 -0.50 -0.25 対照群(単焦点レンズ)に対する平均抑制効果
屈折度(D/年) 眼軸長(mm/年)
-0.14 -0.054