• 検索結果がありません。

遺   構

ドキュメント内 Ⅱ   平城・ 京内寺院等の調査 (ページ 31-37)

︲ 川 ︲

2  遺   構

A奈

良 時代 の講 堂

基壇 外装

 

基 壇 は金堂 と同 じく凝灰岩製 の束石 を用 いな い壇正積 基壇 で、地 覆石 と羽 目石 の一 部 が残 って い る。 基壇 土 は特 に北辺 中央 付 近 の残 りが良 く、東西両端 および南 にゆ くに したが っ て後世 の削平 を受 けて い る。凝灰岩 製 の地覆石 は、上面 幅 が30cm前 後、長 さはまち ま ちで55 cm か ら110cm、 厚 さは25cm前 後 で あ る。 上 面 に は深 さl cm程 の く り込 み を入 れ て 羽 目石 との仕 口

と して い る ものが あ る。 羽 目石 は北面 中央 階段 よ り東 に残 って い るが上面 が摩滅 して お り、法 量 は確 定 で きな い。 地 覆石 の下 には平 瓦 を二 ない し三枚 (厚 さ約

10cm)敷

いて い る。 その 中 に 本 薬 師寺 に使 用 され た軒 平 瓦

6641‑Hが

含 まれ て お り、地 覆 石 に改装 の痕 跡 もな い こ とか ら、

基 壇 は創 建 当初 の もの と考 え る。 また、 かつ て中門東 の南面 回 廊 部 や、 第233次で 検 出 した北

―‑ 69 ‑―

X

‑147980

‑148010

‑19530 ‑19520 ‑19510 ‑19500 ‑19490

い も

主 一  

^曖υ

図46 第263次調査遺構平面図 1

0        20Cm

蓋 は復 元 赤は鎮壇具 内部

図47 講堂基壇南北断割断面 (西) 図48 江戸鎮壇具出土状況

面 回廊 の単 廊 部 分 の瓦敷 きな ど もこ う した地覆 石下 に敷 かれ た瓦 と認 め られ る。

地 覆 石 お よび平 瓦 のな い部分 につ いて も、地覆石 を据 え るときに基壇縁 を カ ッ トした線 が残 り、 それ らによ って基壇規模 が判 明す る。 その規模 は東西43.3m、 南 北 22.2mと な り、 これ を

『 薬 師寺 報 告』 で採 用 して い る薬 師寺 の造 営 尺

(1尺 =29.6cm)を

用 い る と東 西146尺、 南 北75 尺 とな る。 したが って、 従来 の成 果 を若 干修 正 す る ことにな る。 なお、『 薬 師 寺 報 告 』 で は南 大 門・ 金 堂 な どの主 要 堂 塔 の遺 構 の座標 を示 し、 そ こか ら伽藍 中軸線 を計 出 して い るが、講 堂 の座標 は これか らか な り外 れて しま う。実 際 に検 出 した遺構 によ る講堂 の中心 の座標 は

X=―

147995,5Y=‑19506.3と

な り、 これで は『薬 師寺報告』 に記 す金堂 の中心座標

(X=‑148052.4 Y=‑19507.7)よ

り上

4mも

東 に寄 る こ とにな る。 そ こで遺構 の 直 上 に復 元 され た現 金 堂 を再 測量 して み る と、 そ の中心 はお お よそ

X=‑148052.3Y=‑19505.6と

な り、 講 堂 の座 標 との 関係 で不 自然 で はな い。 したが って、『薬 師寺報告』 で発掘 時 の座標 を国土 座 標 に変 換 す る際 に誤 りが生 じたので あ ろ う。F薬師寺 報 告 』 の測量成 果 につ いて は再 検 討 が必 要 で あ る。

基 壇 の築成

 

今 回 の発 掘 部分 はち ょうど江戸 時代 の講 堂 基 壇 の下 に「保護」 されて いたため に 残 りが よ く、重 要 な点 が 明 らか にな った。 講 堂 周 辺 の地 山 は灰 白色 ない し淡 い灰茶色 の砂上 で、

講 堂北 辺 か ら東辺 にか けて は奈良 時代 以前 の流 路 の埋 土 と見 られ る灰 黒上 が あ り、 これ らの上 にお お よそ20〜30cmほ ど整地 を行 い、基壇部分 はその上 に版築 を行 って い る。 掘込地 業 は認 め 版 築 は もっ と も残 りの良 い部 分 で約30層、120cmに及 ぶ。 版築 が約 100cmに 及 ん だ 段 られ な

‑71‑

階 で礎 石 を据 え付 け、 さ らに20cmほ ど版築 を して上面 を整 え る。基壇北端 の中央 やや東 に、 凝 灰岩 が5個据 わ って い る。 これ は基 壇上 面 の化粧 で あ り、 当初 の敷 石 と判 断 した。 敷 石 の方 向 か らみ て布敷 で あ る。 したが って地覆石下 端 か ら敷石上 面 まで の基壇高 が約100cmと な る。

基 壇 版築 の上面 に近 い部分 には、厚 さ約2 cmの ベ ンガ ラを敷 いた真 っ赤 な層 が あ り、 その上 に は凝灰岩 の粉 を敷 き詰 めた白土 の層 が基壇一面 を覆 って い る。 これ は版築 の効果 とい うよ り も、独特 の色彩 に意 味 が あ り、版築 の段 階 で何 らか の祭祀 を行 ったので はないか と も考 え られ るが、 なお類例 の検討 が必要 で あ ろ う。

 

 

創 建 当初 の講 堂 は礎 石 建 ち瓦葺 きの建 物 で、礎 石 の据 付 穴 と抜取 穴 を49箇所 で検 出 し た。礎石位 置が江戸 時代 の講堂 と重複 す る ものが多 いため、 原位 置 に礎 石 は

1個

もな く、根石 が残 るの も一部 に限 られ る。課 題 とな って いた裳 階 の有無 につ いて は、北面 に

6個

所 の礎 石跡 が あ り、他 は削平 されて い る ものの四面 に裳 階 が め ぐって いた ことがわか る。

身 舎 と庇 の礎 石据 付 掘 形 は一 辺2.5m前後 の隅丸 方形 で 、 深 さ は基 壇 上 が 最 もよ く残 って い る北 端 中央 部 で55cmを測 る。一 方 、裳 階 の礎 石 掘形 は直径 1.3mの 円形 で、深 さ は65cmあ る。 た だ し、裳 階 の掘形 は、身舎 と庇 の よ うに基壇築成途 中で掘形 を掘 るので はな く、版築終了後 に 上面 か ら掘 られて い るので、掘形 の底 の レベル と して は裳 階 の ほ うが若干高 い。

礎 石 抜取 穴 の埋 土 は、 江戸 の基 壇 土 と同 じで あ り、礎 石 の うち の い くつ か は19世紀 まで原 位 置 を とどめて お り、 江戸 の講 堂 再 建 時 に抜 き取 られ た と推 定 され る。 江戸 時代 の様 子 を描 いた 薬 師寺 伽 藍 古 図 の中 に は、講 堂 の位 置 に基壇 のみ描 き、 そ こに柱位 置 を示 す ものが あ るが、 こ れ は当時 にお け る礎石 の残存 を示 す ので あ ろ う。

また、礎 石跡 の間で各礎石掘形 の四隅 の方 向 に掘形一 辺40cmほ どの方形 の掘形 の小柱穴 が並 ぶ。 これ は講堂 建設 時 の足場穴 で あ ろ う。

建 物 規 模

 

以上 か ら、講堂 の規模 は次 の よ うに確定 で きる。平面 形 は四面庇 に さ らに裳 階 がつ く形 で、身 合 は桁行

7間

梁 間

2間

、桁 行 柱 間寸 法 は15尺等 間、 梁 間 は17尺等 間 で あ る。 庇 の 出 は桁行 、梁 間方 向 と もに10尺 とな る。裳 階 の出 は これ まで6.25尺と推定 されて きた が、6.5尺 と 見 るべ きで あ る。 したが って桁 行 総 長 が138尺、 梁 間67尺で 、 さ きの基 壇 規 模 と合 わ せ 考 え る

と、基壇 の出 は

4尺

とな る。

階段

 

階段 は南 北 に それ ぞれ 3カ 所 づ つ あ る。 凝 灰岩 製 の階段 の地 覆石 が北面 には残 ってい る。

Y=‑19500

‑― 裳隣 石据付穴 

Y=‑19503

凝灰岩敷石 装 階 礎 石 据 付 穴 中央 畔

図49 基壇北面立面図

 1:50

―‑ 72 ‑―

階 段 の 出 は110cm(3.7尺 か

)で

あ る。 基 壇 版 築 後 に階 段 部 分 も含 め て 、 長 方 形 に カ ッ トして 地 覆 石 を据 え、 そ れ か ら階 段 を造 り足 して い る。 した が って 、 階 段 の 中 に隠 れ る部 分 に も一 部 地 覆 石 が の こ って い る。 と くに南 面 の東 階 段 部 分 の地 覆 石 は ほ とん ど摩 滅 して い な い。 北 面 中 央 階 段 で は西 側 の凝 灰 岩 製 耳 石 が 残 る。

基 壇 の 周 囲

 

基 壇 縁 か ら外 側 に約80cm離れ て 玉 石 組 の雨 落 溝 が め ぐ る。 溝 は西 南 部 分 で最 も残 りが良 く、 内 の りで30cmを測 る。 ま た北 側 に は、 階段 の位 置 に対 応 す る よ うに、 玉 石 敷 き の 通 路 が3カ所 に あ り、 北 の食 堂 に続 い て い る。 石 敷 通 路 の 幅 は東 が315cm、 中央 が375cmで、 西 は 確 定 で きな い。 南 側 に は玉 石 の通 路 は な い。

雨 落 溝 を構 成 す る玉 石 は、 北 側 の 階 段 の部 分 で は階 段 地 覆 石 の上 に の って お り、 ま た、 講 堂 西 南 部 分 で は石 組 溝 の外 側 に雨 落 溝 側 石 の抜 取 と見 られ る痕 跡 が あ るか ら、 創 建 当初 の もの で はな く、 時 期 の下 る もの で あ る。 ま た玉 石 敷 きの通 路 につ い て も これ と一 連 の もの で、 時 期 が 下 る可 能 性 が あ るが 、 本 調 査 で は この点 につ い て は確 定 で き な か った 。

江 戸 時 代 の講 堂

 

 

これ まで建 って い た江 戸 時 代 末 期 建 立 の講 堂 は桁 行 の 柱 間 五 間 (総 長 19.5m)、 梁 間 五 間

(17m)で

、 創 建 当 初 の講 堂 に較 べ て 東 西 規 模 が約 半 分 に縮 小 さ れ て い る。 そ の築 造 は、

当 時 まで残 って い た創 建 以 来 の礎 石 を抜 き取 り、 基 壇 の東 西 を カ ッ トして削 平 し、 残 りの部 分 に土 を積 み足 して新 基 壇 と し、 新 た に礎 石 を据 え 直 して建 物 を 作 って い る。 江 戸 時 代 の基 壇 土 は暗 褐 色 の砂 質 上 で 、 厚 さ10cm前後 の層 を な して い るが、 そ れ ほ どつ き固 め た様 子 はな い。

 

 

礎 石 は計 30個 で 、 大 小 さ ま ざ ま で あ るが 、 重 さ

2tを

越 す 大 石 もあ って 、 全 体 的 に大 きい。 礎 石 表 面 の柱 座 の加 工 は大 別 して 以 下 の 四種 が あ る。

1)表

面 を 一 辺 約60cmの 方 形 に 造 りだ し、 十 字 に溝 を切 って 柱 の 中 心 を示 した もの (図

51‑5)で

、 中 に は墨 書 で 番 付 を記 す 石

16.51101 15 1 15 1 15 1 15 1 15 1 15 1  15   1 10 16.51

一い・Φ一 一 一 一い︒Φ

図50 創建講堂柱配置図

―‑ 73 ‑―

礎石位 置

図51 江戸講堂礎石

 31100

もあ る。 この タイ プが最 も多 い。

2)径

約 75cmの 円形 の柱座 に径 15cmの ホ ゾ を造 り出 す礎 石 が

3個

(図

51‑1)、 3)径

約 65cmの 円形 の 柱 座 に径 20cm深 さ15 omの ホ ゾ穴 を ほ る礎 石 が

1個

(図

51‑4)、 4)一

辺75cmの方 形 柱 座 で それ か ら二 方 向 に地 覆座 を造 りだ した礎 石 が

1個

あ る (図

51‑2)。 1)の

加 工 は江戸 期 の もので あ ろ う。 中 にはそれ以 前 の加 工 の痕 跡 が 一 部 に残 る もの もあ り (図

51‑3)、

二 次 的 な加工 の礎 石 が多 い と思 われ る。

2)〜 4)は

江 戸 再 建 以 前 の 加 工 と推 定 され、複数 の建物 で使 われて いた礎 石 を転 用 した もの と見 られ る。 なお、

4)の

礎 石 は現 在 橿 原 市 にあ る本薬 師寺金堂 跡 に残 る礎 石 の形 と類似 して い る こ とを付 け加 え て お く。

石質 の詳 細 な検 討 はまだ行 って いないが、現存 す る江 戸 の講堂礎石 の中 に は、 本来 創 建講堂 に 用 い られ て いた もの、他 か ら持 ち込 ん だ もの な どが あ り、 その多 くは表面 を再 加 工 し、一部 は

100Cm

―‑ 74 ‑―

加 工 を加 え な い ま ま礎 石 に使 った の で あ ろ う。 礎 石 の据 付 掘 形 は西 側 柱 部 分 の み 円形 で 、 直 径 1.8m前 後 、 深 さ1.lm前後 と深 く、 そ れ以 外 は一 辺1.8m前後 の方 形 の掘 形 、 深 さ は

0.6m前

後 と 浅 い。 大 小 の 根 石 を二 な い し三 段 に敷 い た上 に礎 石 を据 え て い る。

江 戸 の 講 堂 に は薬 師 三 尊 を安 置 す る た め、 須 弥 壇 を 中 央 北 寄 り に築 い た 。 東 西 約 8.5m、 南 北 約3.5mで高 さ は80cmあ る。 須 弥 壇 の下 に は鎮 壇 具 が 埋 め られ て い る。

    (寺

崎 保 広)

ドキュメント内 Ⅱ   平城・ 京内寺院等の調査 (ページ 31-37)

関連したドキュメント