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第 4 章 認知科学とヴァレラの神経現象学

第 8 節 認知科学に対する哲学的な方途

認知科学の研究は、表象主義に始まり、知覚、身体へと研究の視点を変え、力学的な認 知観の上で、進められている。こうした認知科学研究の経緯の中で、長らく正統説289であ った計算主義ないし結合主義の成果を哲学的に解釈する仕方には、様々な立場がある。つ まり、認知科学的な成果の解釈に伴って、哲学的な反省や見解も、同時に生じているので ある。それらの立場や見解には、様々なバリエーションがあり、われわれは、認知科学の 哲学的な吟味を進める上で、それらのことも考慮するべきであろう。この点について、ヴ ァレラが自らの立場(認知観)を明確にするために、様々な認知観を四つの分類290してい る。われわれは、差し当たり、ヴァレラの分類に即して、認知科学や脳神経科学における 哲学的な意義と、それらの研究の主張と問題点を確認する。

分類の一つ目は、1)還元主義であり、これは、認知ないし意識を、脳の物質的な特性 や法則へと一元的に還元する立場である。二つ目は、2)神秘主義であり、これは、神秘 体験や私秘的な意識という意味ではなく、科学的な見解として、脳と意識の機能的な解明 に、限界があるとする立場である。そして三つ目は、3)機能主義であり、これは、認知 科学における最もオーソドックスな立場であり、意識の活動を、脳の機能の現れとして見 るものである。つまり、脳の活動の観測と、意識において現れるものが、互いに対応する という立場なのである。そして最後の四つ目は、4)現象論であり、これは、以上の三つ の立場が、外面的な、客観的な事象の観測に終始してきたのとは異なって、内面的な、主 観的な側面を基に、認知を考える立場である。ヴァレラは、これら四つの中では、とくに 最後の現象論に注目するが、しかし、この現象論は、科学的にも哲学的にも、従来の思想 の枠を超え出るものではないとして、さらに徹底した方法論と態度を擁する現象学を求め るようになる。

以上のように、ヴァレラは、認知科学研究に対する哲学的な四つの見解を吟味し、最終 的に現象学へと至ることとなる。われわれは、これらのことを確認することによって、な ぜ、ヴァレラが現象学を認知科学研究に必要としたのかを理解することができるだろう。

1)還元主義

認知という意識現象がラディカルに物理-化学的な法則に基づくものと考えることを堅 持する、還元主義という立場がある。この立場は、個々人の経験を問題にすることなく、

すなわちそれぞれの意識経験の具体性を消去し、物質的な、実在的な説明によって、意識 が成立すると考えるものである291。還元主義は、この確信が前提になっている限りで、認 知や意識の研究における問題を、脳神経系における客観的に定量化されるものとしての、

物質的な反応のみを取り扱うことになる。そして広い意味において、そのような科学的に 観測される対象のみを問題にするのである。つまり、殆どの認知科学や脳科学の研究者は、

この還元主義を基本的な態度をとっていると言えるだろう。したがって、この態度は、世

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界の自然科学的な解明、すなわち物質的な仕組みの解明を目指すことなのである。とくに、

意識のハード・プロブレムの問題に関して言えば、主観的な意識現象は、観測される脳神 経細胞の機構の中に解消され、つまり、脳神経細胞の活動に伴って生じる付帯的な現象に 過ぎないとされ、意識現象の質(クオリア)を主題とすることはないのである(このよう な強い還元主義の立場を、とくに消去主義とも呼ぶ)。このような考え方からすれば、還元 主義における意識の研究とは、脳を構成する 1000 億のニューロンの組成と相互作用の研 究に他ならないのである292

この還元主義によって、脳と意識現象の関係は、因果的な繋がりがあるということを、

様々に実証されてきた。例えば、脳疾患による認識の変化や、それに伴う脳の解剖学的な データ、そして精神病に対する薬理学などをとおして、脳科学(脳生理学)は、物質的な 作用と認識の関係についての様々な成果を上げている293。今日、意識に関する問題につい て、脳という神経細胞の集合に対する科学的な見解を参照しないという態度は、無理があ るだろうし、無視するわけにはいかない。だが、クオリアや表象という意識の現象におけ る具体性ないし「質」の問題に対し、還元主義は、脳神経の物質的な現象を原因とし、意 識における経験という現象を結果として、両者の繋がりを指摘するが、現象を抽象し、記 号化して、数量的に比較するに留まり、その内容のバリエーションや質それ自体が成立す る仕組みに対する言及は、今のところ保留の態度を取らざるを得ない294。したがって、還 元主義の前提を採る限り、意識現象の具体性を問題にすることは、最初から困難なものと 自覚されており、物理-化学的方法のみに依存した研究は、クオリア問題に対して限界を 露呈するのである。

2)神秘主義

この還元主義とは異なり、意識の主観的な特質を解明することはできないとする、神秘 主義という立場がある。認知科学における神秘主義とは、意識の主観的な側面に重きを置 く立場であり、一見、精神や主観性、魂など、形而上学的ないし私秘的なものを擁護して いるようにも捉えられる。しかし、その主張の内実は、河村によると、「従来の単純な二元 論や超越的思弁や宗教的神秘主義とは無縁である」295という。認知科学における神秘主義 的な主張というのは、ヴァレラが神秘主義であるとみなすコリン・マッギンによると、「意 識は、ある種の脳組織の自然特性をつうじて、脳に根源を持つが、それは馴染みの電気化 学的な過程では説明できない。この特性が不可知であり、このことがあらゆる難問を生み 出している」296というものである。つまり、このマッギンの「不可知」という主張が、認 知主義における神秘主義という呼称に繋がっているのである。

マッギンが以上のような前提において不可知とする点は、その主観的な意識の還元不可 能性というより、まさに脳における創発の仕組み......

である。つまり、この創発の仕組みは、

客観的なデータを根拠とする神経生理学的な脳科学の手法では原理的に捉えられないとい うのが、マッギンの主張における要点である。このような創発を問題にするのは、脳科学 の研究が計算主義から結合主義へと複雑化していく中で、露呈してきた問題である。つま り、単純な性質を持つ複数の脳神経細胞が局所的な相互作用を複雑に組織化することで、

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個別の要素の振る舞いからは予測できないような意識が構成される(創発される)という 考えが背景になっている(本文第4章第7節1)、4)参照)。つまり、認知科学における神 秘主義は、「意識が脳神経から創発する現象であるだろう」ということを研究の前提とする ものの、意識現象の科学的な実証性、再現可能性を考えた場合、以上のように創発の定義 を説明したとしても、実際にその組織化を再現して解明することが困難であると考える。

このことからマッギンは、脳科学の研究に対し、一定の限界を設けなければならないと言 う。この限界についてマッギンは、言わばナマコに天文学が理解できないように、人間に おける知の限界(認知的な閉鎖cognitive closure)を認めており297、この問題を保留にす る他ないとしている。したがって、認知科学における神秘主義とは、このような意味にお いて、心的なものを知るための人間の方法が、本質的に限界を持っているとし、意識のハ ード・プロブレムを解決できないと考える立場なのである。

3)機能主義

そして次に、認知を意識の機能と考える機能主義という立場がある。機能主義は、本来 それ自体として意識に現れることのない脳神経の活動を、意識の経験に対する説明の論拠 として採用している。このことは、すでに上で述べたように、認識を脳という複雑な神経 回路による記号処理、言わばコンピューターの演算として捉える計算主義という考え方を 背景にしている(本文第4章第7節1)参照)。ヴァレラによってこの立場にあるとされる レイ・ジャッケンドッフは、意識において現れてくるもの(知覚や表象)と、それに対応 する神経活動の演算能力との関係を「投影(projection)」298と呼んでいる。しかし、神経 活動と意識経験との両者の関係というのは、「対応するだろう」という、言わば仮説である。

なぜなら、個々人の固有な経験や、その時々の経験という具体的な多様性は、そのように 生じたデータの差異や不一致というものを、この立場において厳密に取り扱うことがない からである299。つまり、脳神経系の反応に対応する意識の現象というのは、個々人の、す なわち「私の」意識現象ではなく、われわれの具体的な意識現象の最大公約数といった、

「一般的な」意識現象の対応関係を言い表すことしかできないのである。

ジャッケンドッフ自身も、この対応関係について、「この仮説の経験的な説得力というの は、現象論的な証拠(phenomenological evidence)を計算論的な理論に関係づけるとこ ろにある」300と述べるものの、このような研究の前提となる現象論的な証拠の確実性は、

「相互的な信頼の雰囲気の中に留められている」301に過ぎないと述べている。したがって、

結局のところ、この現象論的な証拠を正当なものとする手続きがなければ、機能主義の主 張が本質的な解明に至っていると認めることは難しいだろう。

このような機能主義的なアプローチの曖昧さは、データの獲得と理論構築において、た んに三人称的な、外面的なアプローチに依拠するだけで、データ獲得の規定について、「信 頼する」ということ以上の方法と基準を持っていないことに由来する。その方法を持ち得 ない限り、機能主義のアプローチは、意識の主観的な特質、すなわち、自己意識やクオリ アといった心的な現象に届くことはない。それに対してヴァレラは、まさにジャッケンド ッフの言う計算論と現象論の間の循環関係について、「ジャッケンドッフの計算論的な理論