本章の第 1 節では、トルキスタンに古くから存在していた教育システムの初等教育の 役割を果たしていたマクタブと当時の高等学院であるマドラサについて論じる。第 2 節 では、トルキスタンの征服後にロシア当局が開校したロシア語・現地語学校について検 討する。第 3 節では、新方式学校の創設者であるイスマイル・ガスプリンスキーと彼の 活動について述べる。
第1節 旧来の教育 20世紀初頭のマクタブ
19世紀末-20世紀初頭のマクタブについては数多くの研究がなされてきた。その中で 最初になされた研究の一つはオストロウーモフの「トルキスタンにおけるムスリムのマ クタブとロシア語・現地語学校」(1913)である。また、バルトリドの『トルキスタン 文化史』(1927)も当時の学校について詳しく述べている。さらに、ムハンマドジャノ フの著作『学校とウズベク民族の教育論 19 世紀-20 世紀初頭』も、ロシアがトルキス タンを征服する前とその後の教育について書いている。また、ベンドリコフの『トルキ スタンにおける民衆教育史解説』(1960)もトルキスタンの教育に関する最も体系的な 研究である。さらに、ナリフキン5は『現地民の過去と現在』(タシュケント, 1913)で トルキスタンの社会・教育的な面について詳しく述べている。これらのほか、当時のム スリム知識人も数多くの論説や記事を書き残している。その中から、本章ではハージ・
ムイーン、ベフブーディー、ヴァドゥド・マフムド(Vadud Mahmud 1898-1976)、イス ハクハン・トラ・イブラット(Ishoqhon toʻra Ibrat 1862-1937)らの論説をとりあげる。
これらを参照しながら、まずマクタブについて考察する。
5 ナリフキン [Vladimir Petrovich Nalivkin, 1852-1918]は、トルキスタンで活動した民族誌学者、
政治家である。カルーガの貴族に生まれた。ペテルブルグの第 1 陸軍士官学校を卒業した後、
1884 年からタシュケントの最初のロシア語・現地語学校で中央アジアの言語を教え始めた。1890-1895年にはトルキスタン地方国民学校視察官を務めていた。
図2. マクタブの授業(タシュケント) (Bendrikov 1960: 36)
マクタブはトルキスタンの民衆が読み書きを習うための施設であり、中央アジアにイ スラーム教とともに8-9世紀に入ってきた[Salijanova 1998: 30]。マクタブは最初イスラ ーム教の教典コーランを読むことを教えるために設立された。マクタブはモスクの中、
もしくは教師の家で開かれていた。地域のモスクのイマーム、あるいはアザンチ6がマク タブの教師を務めていた。教師の義務は児童に読み書きを教え、彼らを礼儀正しい人に 育てることであった。マクタブの目的は、生徒を真のムスリムとして育てるために読み 書きを教えることであった[Salijanova 1998: 33]。マクタブは男子のための教育施設であ り、女子はマクタブに通うことはなかった。もちろん女子のための学校も存在していた が、それについては第 3章の第 1節で触れる。ムスリムは児童を 6-8歳からマクタブに 送っていた。中にはもっと小さい時からマクタブに通う児童もいた。マクタブの教師は マクタブダール・ダムッラーmaktabdor-domla、ムッラーmulla、ムアッリム muallimなど と呼ばれていた。マクタブでの教育は5年から 8年まで続いていた。19世紀末にトルキ スタンにおけるこのようなマクタブの数は 5000 校以上であった。1898 年に 5755 校、
1908年には5734校のマクタブが存在していた[Salijanova 1998: 40]。都市のマクタブでは 生徒の数は 20‐30 人、農村部のマクタブでは 10‐15 人ほどであったという[Bendrikov 1960: 37]。
マクタブの休日は祭日と金曜日であり、授業は朝から午後の礼拝まで行われていた。
休み時間は昼に一回しかなかった。中には二回休憩をするマクタブもあった。最初の休 憩時間は「パンを食べる時間 nonxoʻrak」と呼ばれ、10~11 時頃に置かれていた。この時 間に生徒は家から持ってきたパンを食べていた。13~15 時頃に「ごはんを食べる時間
6モスクで毎回礼拝の前にアザーンを唱えて、信徒を礼拝に呼びかける人。Muazzinとも言う。
oshxoʻrak」という二回目の休憩をとっていた。この時に生徒は自分たちで交代で作った 温かいご飯を食べていた[Salijanova 1998: 41]。
サリジャノヴァ (2002) によると、マクタブでの長期休みは夏休みであり、生徒の両 親と相談した上で、2 ヶ月間の休みがあった。また、オストロウーモフは生徒が断食明 けの祭りイード・ラマザンと犠牲祭イード・クルバンというイスラーム教の祭りの一週 間前から一週間後まで、つまり 2回の宗教的な祭りの時に 2週間の休みをとっていたと 述べている。
当時本格的な教育制度、もしくは文部省などは存在していなかったため、マクタブの カリキュラム、施設の設備などは監督されていなかった。そのため、様々な問題が現れ ていた。まず、もっとも大きな問題は読み書きを教えるための教科書がなかったことで ある。マクタブではイスラームの基本的教理が教えられ、ペルシア語で書かれた詩の暗 誦も行われていた。また、コーランの一部も暗記させられていた。マクタブではどのよ うな教科書や詩集が使われていたのかをみてみよう。
マクタブでは読み書きが同時に教えられていなかった。G.サリジャノヴァによると、
生徒はアラビア文字を読めるようになってから、書く練習をさせられていた。生徒は最 初の日に板(taxta/lavh)を持ってくるようになっていた。教師はその板にアラビア文字 の 32 文字を書き、生徒は音読しながら、一回の授業で 4 文字ずつ覚えていたという
[Ostroumov 1913: 133]。文字を覚えてから、「アブジャッド abjad」という八つの単語の
繋がりを暗記していた。この八つの単語の中にアラビア文字のアルファベットにある全 32 文字が含まれていた。この単語の繋がりを暗記した後に生徒は、コーランを読む「ハ フティヤク xaftiyak」という次の段階に進んでいた。ハフティヤクに進んだ生徒は「キ
タブハン kitabxan」と呼ばれていた。キタブハンは、本、つまりコーランを読む生徒と
いう意味を表す。この段階ではコーランを 7 部に分けて読み、各部を暗記していた。も し生徒が優秀であれば1年間で、普通の生徒は2-3年間でハフティヤクを完全に暗記し ていた。アラビア語で意味のわからないコーランの言葉を暗記するのは非常に難しく、
途中でマクタブをやめる生徒もいた。ハフティヤクを暗記した生徒は、コーランの残り を暗記する段階に進んでいた。コーランの残りを暗記するために約 3 年間かかっていた。
コーランの暗記が完成するまで生徒の読み書きが良くなっても、暗記したコーランの言 葉の意味を理解してはいなかったという[Ostroumov 1913: 135]。
コーランの次の段階は、『四書chor kitab』という段階であった。これは4つの部分か ら成り立っていた[Salijanova 1998: 44]。その内容は、シャリーアの義務、断食の規則、
礼拝の規則などからなっていた。この本はペルシア語[タジク語]で書かれていた。『四 書』は最初から最後まで教師の説明で 1.5-2 年間かかっていた[Muxammadjanov 1978:
18]。『四書』を終えてから、書く練習が始まる。生徒はアルファベットを書けるように
なってから、17-18 世紀の詩人スーフィー・アッラーヤール(Sufi Allayar)の Sabot
al-ajizinを勉強していた。この道徳的な内容の書物は、テュルク語で書かれているため、ト
ルキスタンのムスリムには分かりやすかった。Sabot al-ajizin は民衆の間で『スーフィ ー・アッラーヤール』とも呼ばれていた。その内容は、一般的なしつけであった。アブ ドゥッラ・アウラーニーに(Abdulla Avloniy 1874-1934)よると、トルキスタンのマクタブ では、『四書』、Sabot al-ajizin、フズーリー Fuzuliy、ナヴァイーNavoiy、ホージャ・ハ ーフィーズXoʻja Hafiz、べーディルBedil、Maslakul mutaqqinなどのテキストが使われて いたのである[Salijanova 1998: 44]7。
マクタブの状況は近代的な学校の条件には対応していなかった。その場所は狭く、照 明もないためとても暗かった。オストロウーモフによると衛生的な状態も良くなかった。
学校と言える設備もなかったという。体操や運動のための場所が存在しないこと、また、
学校に医者がいないことも批判している[Ostroumov 1913: 136]。
また、ナリフキンはトルキスタンにおける教育の欠陥について次のように述べている。
中央アジアではかつての天文学と数学は忘れられている。我々が征服するまで、
現地民の中のもっとも優秀な知識人でも代数と幾何学は いうまでもなく、分数の 理論も知らなかったのである。彼らは加減乗除しかできなかった[Nalivkin 2011:
31]。
ここからもわかるように、19 世紀末のトルキスタンでは知識人も十分な教育を受けて いないということになる。ロシア人から見ると、トルキスタンのムスリムは無知であっ たこともわかる。
このように、マクタブはイスラーム教とともにトルキスタンに広がり、その目的はイ スラームの教理を教えることであった。ここでは、アラビア文字の読み書きと宗教的な 詩集の暗記が行われていた。19 世紀後半になるとロシアがトルキスタンを征服し、近代 化が進み始めたが、このような学校では社会の要請に対応できなくなるのである。これ について当時のムスリム知識人はどのように考えていたのかを見てみよう。
イスハクハン・トラ・イブラットは 1907年に『トルキスタン地方新聞』の第 22号に
「旧方式学校(マクタブ)について Eski maktablar xususida」という論説を寄稿した。彼 はこの論説で、旧方式学校を改革することについて次のように述べている。
7 Fuzuliy- ムハンマド・フズリー(1498-1556)トルコ古典詩において最も名声・影響力のあ
った詩人の一人である。
Navoiy-アリシェル・ナヴァイー(1441-1501)ティムール朝末期の詩人。
Bedil- アブドゥル・カディール・ベーディル(1644-1720)インドで活動したペルシア語の詩 人。