第二章 小林宗作のリトミック
第二節 日本の音楽教育
2.1 唱歌教育―音楽教育の近代化をめざして
小林は「幼い時から音楽・ ・(傍点筆者)が好きで榛名山の見える家の前の川のほとりでよく家 の前の川辺で指揮棒を振っていた」といい,「教師―特に音楽教師となることが理想」で,
「音楽・ ・(傍点筆者)を学びたい一心で上京した」という(小林「草創期」, 1978, p.78). 音楽教
師を理想とし「音楽を学びたい」という小林の心底に洞観されるのは当時の小林をとりま いた現実の生活である. 筆者は「川辺で指揮棒を振る姿」に, 近代化を背景とした世の趨勢 の中で音楽・ ・ を学び, 教師に人生を賭けようとする人間像を彷彿させるのである. 産業の発 展, 生活の向上, 教育の普及といった近代化政策によって移入された新しい文化と深く根 付いた既存の伝統文化が交錯する時代であった. そのような時代において郷里から離され た一個の人間が, 利益, 地位職分を獲得し家督を築くための手段, それが小林にとっての 音楽・ ・ ではなかっただろうか. 小林が指揮をしていたのは日本の伝統音楽でないことは明白 である. なぜならそこに指揮者は存在しないからである.
小学生当時の小林が学んだ音楽・ ・は唱歌であり, 農家の三男に生まれた小林が唱歌以外の 音楽・ ・ を学ぶことは困難であったと言わざるをえない. 小林の子ども時代を当時の社会の様 相のなかに見出そうとするとき, 小林が学んできた唱歌を明治の近代化政策の一環として 作成された日本の新しい文化様態として考えるとき, 小林のみならず, 当時の日本の人々 の中に音楽観を育むには, 音楽という概念があまりにも未発達な状況であった. そして唱 歌の歌詞は子どもにとって難解な文語体で書かれていた. 小林の育った場所は自然にあふ れ幼い頃はのびのびと走り回って遊んだことは十分に推察できたとしても, 佐野(1985)の
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いうところの「故郷・榛名山の自然の美しさの中で育ち, その中から芽生えた先生77の音楽 観」(p.245)の存在がどうにも映し出されてこないのである.
ところで唱歌は英語では singing または song にあたる. 歌うこと, 歌の両方の意味で使 われていた唱歌は, 古くから日本でも使われてきた言葉であるが, 明治以前には『しょう が』, 古くは『そうが』といい, 尺八など管楽器の旋律を唱えることを意味した. しかし, 明 治の文明開化以降, それは固有名詞として意味を持つようになる. すなわち, 明治維新後の
「学制」によって, 学校教育の教科として置かれた唱歌科, そしてその教材としての歌曲で ある. 小林が学び, 現代にも引き継がれる「唱歌」は「文部省唱歌」を意味する.
1872(明治 5)年公布された「学制」で, 小学校に「唱歌」が設けられた. しかし, 教材や
教師の不足から,「当分之を缺く」とされ, 1878 (明治11)年に東京女子師範学校が既存の和 歌や歌人による新作の今様78を用いた歌詞に雅楽家が作曲した曲集『保育唱歌』を教材とし て作るまでは, どの県でも唱歌教育は行われていなかった.
1879(明治12)年に, 文部省所轄の「音楽取調掛」(現在の東京芸術大学音楽学部)が設置さ
れ, 東京師範学校長であった伊澤修二(1851-1917 以下伊澤)が御用掛を兼任した79 (東京音 楽学校編, 1926, p.2). 翌年にアメリカの音楽教育家L.W.メーソン(Luther Whiting Mason,
1828-1896 以下メーソン)が招聘され来日し, 日本の音楽教育は動き出した.
伊澤は1875(明治8)年, 師範学科取調のためアメリカ留学と命ぜられ渡米し, 翌年秋にメ
ーソンと出会っている(奥中, 2008, p.136). マサチューセッツ州のブリッジウォーター師範 学校で二年間の教員養成プログラムを履修した際「伊澤は一つの科目だけができなかった」
(奥中, 2008, p.138)という. それは「唱歌」=Vocal Musicであった. 伊澤はメーソンの家に
通い教えをうけて, それを習得する. しかし, 奥中(2008)によれば, 当時の校長 A.G.ボイデ ン(1827-1915)は「伊澤が習得したのは『音楽』ではなく,『私たちの音階』つまり『西洋音 階』だと述べ」たという(p.144). 伊澤はメーソンと「一緒に日本人むけの音楽教材の開発」
(奥中, 2008, p.149)を行い, 帰国後, すぐにメーソンを招聘しそれを継続することになる.
1881(明治 14)年, 小学校の教則改訂により唱歌が教科課程とされたが, 唱歌教育はなか
なか実施に至らなかった. しかし同年, 文部省編纂, 高等師範学校付属音楽学校発行の『小 学唱歌集初編』がようやく刊行され, 小学校, 師範学校, 中学校, どの学校においても用意 されなければならないものとして, 一気に全国に広まったのである(後藤・山田, 1965, p.12).
その後1884(明治17)年までに『小学校唱歌集第二編』『小学校唱歌集第三編80』のほか『音
77 小林宗作を指す.
78 現代風という意味.七五調四句の韻文.
79 1881(明治14)年に伊澤は掛長に任命された.
80 第三編は程度が高く「小学校教員検定試験や音楽学校の入学試験などにも指定された」
という(後藤・山田, 1965).
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楽問答と楽典』,『音楽指南』が文部省から刊行されるなど教材も整っていき, 中央から始 まった唱歌教育は徐々に地方でも動きだした.
小林が生まれ育った群馬県では, 1887(明 治 20)年前橋市出 身であった内田粂太郎
(1861-1941)が, 音楽取調掛を卒業と同時に群馬尋常師範学校に同校初の音楽教師として赴
任している. 内田は, 休日返上して講習会で指導し, 平日も放課後に, また夜は家でも指導 を行い, 一日も早い唱歌の普及をめざした. 同年中に前橋の小学校では唱歌教育が始まっ ている. 塚田(2000)によれば, 内田は「『旱魃の慈雨』のような存在」(p.6)であり, 1902(明
治 35)年に東京に戻るまでの 15 年間で群馬県の音楽教育は基礎が作られ, 著しい進展を遂
げたと述べる(塚田, 2000, pp.6-7).
一方内田が赴任した当時の師範学校は音楽室もオルガンも無く, 内田は生徒の耳元でバ イオリンを弾きながら歌い指導したという(塚田, 2000, p.19).
何回歌って聴かせても覚えてくれないので困ってしまった. 日本の旋法・旋律が血と なり肉となって体全体にしみわたってきた者に, 急に西洋音楽を歌わせようとする のだから, 油に水を混ぜるようなもので覚えられないのも無理はなかろう. 生徒が まちがって歌っているのか教師だけがまちがって歌っているのか錯覚をおこしてし まう. そこで一斉指導はやめて, 個人指導をすることにした(後藤・山田, 1965, p.40).
内田は, 1888(明治 21)年創設されたミッションスクールであった前橋英和女学校におい て「いち早く音楽教育を取り入れ」たという(後藤・山田, 1965, p.42). 1891(明治24)年には, 師範学校の卒業生が県下に配属され音楽教育も行われた. しかし師範学校を卒業して赴任 する教師は一, ニ年で校長になってしまう. 実際に唱歌教育を行うのは, 師範学校を卒業し た教師による講習会で学んだ程度の教師であったために, 進歩は遅々たるものであった.
唱歌教育は講習会で学んだ唱歌教師が即戦力となり進められたが, 音楽教育までは手が回 らず棚上げ状態であった. オルガンは県下に数台しかなく, バイオリンもない教師は手拍 子や箒の柄をたたきながら唱歌を教えていた. また地域的な差もあった. 明治 30 年頃, 山 間部では「オルガンを見たことがない有様」であったのに対して, 都市部ではバイオリンの 音色が家庭にも出回り始め「奥座敷からバイオリンの音が聴えると, この家には文化の進ん だ青年がいる, ということになっていた」という(後藤・山田, 1965, p.51).
唱歌教材は『保育唱歌』『小学唱歌集』に加え,『幼稚園唱歌集』や『明治唱歌』などが東 京音楽学校より刊行され授業で使われていた. 勢多郡東村花輪(現在の群馬県みどり市東町 花輪)出身の石原和三郎(1865-1922)は,「いづれも歌詞が難解で児童には何のことか意味が わからないまま歌っている. 自分からうたうのでなく歌わせるからしかたなしに歌ってい る. という傾向があった〔ママ〕」(後藤・山田, 1965, p.52)という唱歌教育を批判し, 言文
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一致唱歌81を提唱した東京高等師範学校教授田村虎蔵(1873-1943)とともに, 1900 年(明治 33 年)「兎と亀」「金太郎」「浦島太郎」などの「幼年唱歌」を出版した. 同年, 群馬県の地 理, 歴史を題材とした「上野唱歌」を, 1908年(明治41年)には「上毛の歌」を発表し, それ らは県下の津々浦々まで歌われたという(後藤・山田, 1965, p.79).
明治初期には「子供たちは『わらべ唄』, 若い人や大人は月琴明笛, 胡弓82を奏でて明清 楽を楽しみ, 詩吟や剣舞を習い, 労働者や女人は俚謡83や民謡, 和讃84など, 武家・士族は筝 曲や長唄, 琵琶歌など, 花柳界では三味線や尺八など, 今でも行われている邦楽分野が主な 音楽」(塚本, 2000, p.6)であった群馬県において, 音楽教育の近代化は学校教育を軸として 進行した.
唱歌が進歩的な文化のひとつとして受け入れられていく一方で「学校で耶蘇85を教えるの ならうちの子供は学校をやめさせる. わしの家は祖先代々ナムアミダブツなのだから耶蘇 のまねはさしてもらいたくない」(後藤・山田, 1965, p.41)と父兄が学校に押しかけたり, 家 で唱歌を歌うと「歌はキリスト教が歌うものです. これからは唱歌の時間になったら外へで ていなさい」(後藤・山田, 1965, p.34)と母親に叱られたりすることもあったという.『小学 唱歌集初篇』の唱歌には, 賛美歌の旋律が多く使われていたのである.
明治6年にキリスト教が解禁された後, 明治13年2,700名であった信者は, 明治22年に
は3万1,800人と10倍以上に増えた(堀内, 1977, p.79). 群馬県下でも「明治十年代に始ま
るキリスト教特にプロテスタントの賛美歌が, 西洋音楽への足掛かり」(群馬県史, 1990,
p.60)となっていた. 一方で, 教会から流れてくる歌やオルガンの音色に「なにかちがった人
の集まりのように感じ, 歌をうたうことを嫌い, 極端な人は回り道をして教会をさけて通 った」(後藤・山田, 1965, p.36)と, 違和感を持つ人々もいたようである. しかし, ヘルバル ト派教育思想が流布されるなか, 教師中心に授業が行われる学校教育において唱歌を習う 子どもたちに, 異文化として唱歌を捉えそこに違和感をもった様子は見られない. 結果と して唱歌は老若男女を問わず, 普及をみるようになった.「町の子どもたちは学校唱歌を町 の往来や家庭で盛んに歌い, 女教師や娘たちも学校唱歌を流行歌のように歌い合い, 唱歌 を知っている者は進歩的で文化人だと思われていた」(後藤・山田, 1965, p.46)のである.
人々にとってバイオリンや唱歌は文明の象徴であった.
81 1891(明治24)年に群馬県尋常師範学校を卒業した石原は, 花輪小学校訓導兼校長となっ
た後, 1896(明治29)年東京高等師範学校附属小学校訓導となり, 言文一致唱歌を提唱した 田村虎蔵と出会っている. 言文一致唱歌は日本の唱歌を大きく軌道修正することとなった (群馬県史, 1990).
82 月琴は円形の共鳴胴に短い首を持つ弦楽器.明笛(清笛)竹製の横笛. いずれも中国伝来の 伝統楽器. 胡弓は江戸初期に生まれた和楽器.三味線を小型にした3~4本の弦を持つ.
83 在郷歌,民間で歌い伝えた歌,里謡.
84 仏・菩薩, 祖師・先人の徳,経典・教義などを日本語によってほめたたえる讃歌.
85 キリスト教のこと.