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会合記録
第1回会合(2012年8月9日 於:京都工芸繊維大学)
2012年8月9日14:00より17:30まで、第1回の会合を行なった。
研究報告1「錆びついたモダニズム――松本竣介の「無音の風景」と稲垣足穂の「最終の都 市」」 高木 彬
本発表では、松本竣介の1940年前後の一連の絵画、および稲垣足穂の小説「コリントン 卿の幻想」(1939)と『弥勒』(1946)を手がかりに、同時代の都市像について分析した。
1920年代から30年代にかけての、いわゆる「モダン都市」と呼ばれる動的な都市像は、
1940年以降、急速に影をひそめる。たとえば松本竣介の絵画は、1941年を転換点として作 風を変えている。1930年代の《都会》や《街》といった一連の都市表象は、青いマチエー ルに浮遊する透明な建築物やモダン・ガールをモチーフとしていた。それに対し、彼の1941 年以降の《ニコライ堂》などの作品が暗い色調で描き出しているのは、明瞭な地平線の上 に建つ、静的で重厚な建築物である。しかしそこには、モチーフ/制作の両審級において、
特徴的な反復性が見られる。一枚の作品内に複数の塔状のモチーフが林立し、またそうし た同一のモチーフが、複数の作品にわたって繰り返し描かれる。
同時代の稲垣足穂の作品である「コリントン卿の幻想」や『弥勒』における都市像は、
1941年以降の松本竣介のそれと、静的な構図、強調されたスカイライン、塔の林立などに おいて共通している。しかし注目すべきは、その静止した都市像が、映画のメカニズムの 暗喩で語られていることである。フィルムのコマの重なる運動が高速で恒常化することに よって、逆説的に都市像の静止が保たれる、とされる。静性と反復性が同居する松本竣介 の1941年以降の都市像は、しばしば「無音の風景」と評されるような単純な静止のイメー ジではなく、それ以前のモダン都市の運動が恒常化、、、
した、1940年代前期に特有の都市像と して捉えることができるのではないだろうか。
研究報告2「《主体性》概念を巡って」 伊藤 徹
本共同研究の始まりに当たって、代表者として、《主体性》概念の歴史的過程の概観とそ の基本構造に関する見通しを述べた。この概念は、戦後1940年代後半に限ってみても『近 代文学』を中心としたいわゆる《主体性》論争、丸山真男の超国家主義批判、あるいは岡 本太郎の対極主義など、きわめて多様なかたちで出現したのであり、これにマルキシズム との結合のなかに自らの《主体性》概念のあるべきかたちを求めた真下信一のケースを加 えるならば、一種のジャルゴンとして機能していたともいうことが出来る。こうした概念 が、「主観」に代わって現われはじめたのは、戦前1930年頃であり、報告では、三木清『歴 史哲学』を取り上げ、《主体性》という言葉に表現された人間の自己理解のあり方をそこに 探った。この言葉は、三木の場合、対象化以前の生の経験の現在を指し、認識だけでなく、
行為およびそれと結びつく身体的環境的自然要素を不可欠なものとして含みこんでいる。
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こうした生の直接的体験は、それ自身歴史の内部にこれと切断しがたく立っており、した がって己れの行為に意味を与える全体を、与えられた実体的なものとして受け取ることが 出来ず、これを自ら作っていかなければならない。ここに自らを自らにおいて作りつつ支 えるという《主体性》の基本構造が現われていると考えられる。もしもこの概念の由来を 問い尋ねようとするならば、こうした構造を成立せしめた状況の出現まで遡らなければな らない。報告では、そうした《主体性》概念の水源域を1890年頃に求めることを示唆する にとどめた。
第2回会合(2012年9月10日 於:京都工芸繊維大学)
2012年9月10日14:00より17:30まで、11日10:00より12:00まで、第二回の会合を 行なった。
研究報告1「「自分のない女(もの)」の主体性―田村俊子『生血』『女作者』等をめぐって―」 笹尾 佳代
本報告では、田村俊子『生血』(1911.9)、『女作者』(1913.1)を対象として、俊子が描い た「自分のない女(もの)」という、明確な自己を持たない主体のあり方が何を語っていた のかについて検討した。
〈あるがまま〉であることに価値が置かれる自然主義思潮が浸透していた当時、男女が 本質的に異なることは〈自然〉であり、自明であることと了解されていた。男性には届き 得ない〈女〉という領域の成立は、それを描きうる存在としての、多数の女性の書き手の 誕生とも深く関わっていた。とりわけ自我に目覚めた「新しい女」たちが集ったと文芸雑 誌『青鞜』(1911.9~1916.2)では、与謝野晶子が「一人称にてものかかばや/我は女ぞ」
(「そぞろごと」)とうたいあげるなど、フェミニズムの主体として、〈女〉は声を挙げたの である。
俊子もまた『青鞜』に参加していたのだが、そこで描かれる自己像のあり方は、他と大 きく異なっていた。俊子の描きだす「自分のない女」は、〈女〉という自己の自律性そのも のを懐疑していく。「初恋」の「若い男」に感化された内面の「影」の存在を重く感じるな ど〈ありのまま〉の〈自分〉の存在に疑問を覚えている姿から窺えるのは、〈女〉という主 体が立ち現れる時に、その対概念としての〈男〉が必要とされるという、構築主義的な〈主 体〉のあり方である。俊子の描いた、他者との関係の中においてしか自己認識ができない
「自分のない女」の姿は、男/女という主体が自明のものとして成立していた、当時の本 質主義的なジェンダー観そのものへの疑問を提示していたのである。
研究報告2「「憂き世」と「浮世」 ―山崎正和の1970年代論―」 荻野 雄 高度経済成長に終止符が打たれた1970年代、日本は根底的な転換の時代を迎えていた。
劇作家・評論家の山崎正和は同時代のこの精神的変動に強い関心を抱き、1974年から1984 年にかけて書かれた一連の著作でその探査に乗り出していった。
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1974年の『不機嫌の時代』は、明治40年代の文学から不機嫌という共通の気分を摘出 する研究であるが、そこでは同時に、日露戦争後の状況から「現在」を照射することも意 図されていた。当時と同様、明治維新以来追求してきた近代化が一応達成されたという意 識の広まった1970年代においても、人は己れが近代的自我の理想から絶えず脱落して不定 型化していくことを見出し、不快と苛立ちを覚えていたのである。山崎は、再び日本人を 侵食しつつあるこの気分の政治的危険性を強調する一方で、近代的な自我理解を掘り崩し ていく点でそれに積極的な可能性も認めた。1982年の『演技する精神』は、こうした着眼 を引き継ぎ、近代的な自我の行動様式を身体運動の意志による簒奪として批判したうえで、
演技という虚構的行為のなかに、近代で抑圧されていた身体的リズムの復権の可能性を探 っていった。山崎によれば、演技する人間は、様々な役のリズムを受動的かつ能動的に刻 みつつ、自我の分裂や曖昧さを進んで承認するのである。そして、脱産業化と共に重要性 を増した消費活動が演技の一種であることを示し、一貫性を核とする従来の硬い個人に代 わる柔らかい個人の生成を促すものとして消費社会化への流れを寿いだのが、反響を呼ん だ1984年の『柔らかい個人主義の誕生』であった。近代を批判しながらも、戦後を否定す ることやそれを単なる過度期と見なすことは拒否する山崎は、目的至上主義が退潮して近 代化の論理から離脱しつつあった戦後日本に対し、導きとなる別の主体性のかたちの造形 を試みたのである。
研究報告3「超現実主義は何を夢見るか?―瀧口修造の1930年代―」 平芳 幸浩
本報告は、詩人であり美術評論家であり、日本におけるシュルレアリスムの理論的支柱 とも言われる瀧口修造の、1930年代におけるテクストを辿りながら、瀧口によるシュルレ アリスム受容の様相を再確認し、それが「1930年代日本」という時空間の中でどのように 位置づけられることになるのか、あるいは位置づけられないことになるのか、について考 察した。
瀧口のシュルレアリスムとは、時代を画す芸術の一形式ではなく、普遍的永遠的絶対的 価値を持つ思想のシステムであり、人間精神の解放を実現するための壮大なる実験であっ た。それは絶対的なものである以上、いかなる地域であっても完全に適用可能なものであ り、適用できなければならないものであった。一方、日本の超現実主義における不完全な 適用、表面的なシュルレアリスム理解に直面した瀧口は、改めて「日本人としての自己」
を自覚し、芭蕉の俳諧や世阿弥の能に代表される日本の幻想性の伝統との接続によって、
シュルレアリスム受容における「日本の独自性」を担保すべく論理を展開していくことに なる。
先行研究において、前衛芸術擁護のための不本意な「後退戦」と見なされてきたこのよ うな論理は、実のところそのような時局の対応によるものである以上に、絶対的な思想の システムとしてのシュルレアリスムに内在する論理的要請として展開したものであったの であり、それはまた同時期の世界的なシュルレアリスム運動の広がりの中で形成される言 説とも呼応しているものであった。ナショナリズムへも接近しかねない危ない綱渡りは、
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