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責任を「単なる上限」とした量刑基準論の理論的問題点

ドキュメント内 量刑における消極的責任主義の再構成 (ページ 102-105)

─おそらく今後とも長きにわたり─行為者が将来刑罰を受けないことを保

第4節  責任を「単なる上限」とした量刑基準論の理論的問題点

さて、以上のように、前述した量刑における消極的責任主義の第2の理解を 正当とし、責任は違法性に従属し、これを制約するものにすぎないと考える場 合、そこから、量刑における消極的責任主義の第3の理解、すなわち、量刑に おける責任は「単なる上限」を画するにすぎず、それを下回るかぎりで、もっ ぱら予防的観点に応じて刑を量定するべきである(したがって、具体的な量刑が 責任相当刑を大きく下回ることは、予防上不適切でないかぎり、とくに問題はない)

ということが導かれるだろうか。言い換えれば、消極的責任主義の第2および 第3の理解には、一方を認めれば他方も認めることになるという相互的な連関 があるだろうか。両理解において問題とされている「責任」が異なったもので あることに鑑みれば、そのようなことは全くありえないというべきである。す なわち「責任は違法性に応じた犯罪の重大性の程度を制約するにすぎない」と いう場合の責任は、違法性に続く第3の犯罪成立要件としての責任(=狭義の 責任)である。それは「割引率」を示すものにすぎず、刑量に変換可能な「実 体」をもつものではない。それに対し、量刑において「基礎」か「単なる上限」

かが議論される責任とは、「有責な不法」ないし「責任によって制約された違 法性」という意味での責任(=広義の責任)であって、「実体」を備えたもので ある。このように、消極的責任主義の第2と第3の理解において問題とされて いる「責任」が異なる概念であるとすれば、一方についての理解が他方のそれ

法定刑が定められている刑罰法規の適用を可能にすることを目指」すものである としているのは、犯罪論と量刑論が連続的なものとして、同じ政策目的を担って いることを前提としている。

367)そのことが、多くの学説が、責任関連事情の「評価方向」に無関心であったこ との実際上の理由であると思われる。

を必然的に拘束するということはありえない。狭義の責任が、違法性に応じた 刑量を消極的に制約する機能しかもたないということと、その責任によって制 約された違法性の大きさ(=広義の責任)が刑罰構成機能をもつことは、両立 するのである。このように考えれば、消極的責任主義の本来の(適切な)理解 と、責任を「基礎」とした量刑基準論の採用は、何ら矛盾するものではない。

むしろ、狭義の責任と広義の責任の概念的差異に十分に配慮せず、前者に妥当 すべき「消極的な制約原理にすぎない」という命題を、むぞうさに後者にも適 用してしまったことが、責任を「単なる上限」とした量刑基準論の基本的な誤 謬であったといえるのである。

それどころか、責任を「単なる上限」とした量刑基準論は、刑罰論と犯罪論 の関係をいかにとらえるかという観点において、無視しがたい理論的欠陥を含 んでいる。すなわち、繰り返し述べているように、量刑責任に実体としての

「量」を与えるのは、違法性の大きさである。したがって、量刑責任に刑罰根 拠づけ機能が認められるかという問いは、違法性に刑罰根拠づけ機能が認めら れるかという問いと同義である。そして、本稿の立場からすれば、それは当然 に肯定されなければならない。ある所為が刑法によって違法だと評価されると き、そこには刑罰目的という観点からみた禁圧の必要性が反映されているので あるから、原則として─責任による「割引」を経ることを予定しつつも─

その重さに応じて処罰することが「要求」される。その意味で、違法性は、刑 罰を根拠づける機能(刑罰構成機能)を有しているのであって、単なる科刑の 前提にとどまるものではない。それゆえ、責任によって制約された違法性の大 きさ(=量刑責任)は、まさしく量刑の「基礎」でなければならないのである368)

368)このことは、法定刑(又は処断刑)と量刑の関係、最広義の量刑過程における 立法者と裁判官の役割分担についての伝統的理解にすでに示されているといえよ う。ブルンスは、次のように述べている。「刑法各則は、可罰的不法の法律上の類 型化の中に、刑法上の保護法益の格付けと序列を含んで」おり、「その基礎にある 評価の図式は……先取りされた量刑事由のカタログとなる」が、広く把握された法 定刑ゆえに、裁判官による詳細な補充が必要である。「しかしこの立法者と裁判官

これに対して、「単なる上限」論における、犯罪論と量刑論の関係について のイメージは、次のようなものであろう。すなわち、処罰は一定の目的(たと えば、犯罪予防)を目指して行なわれるものであるが、その目的の無制限の追 求は、国民の自由保障の見地から危険であるので、犯罪の成立およびその違法 性・責任の程度という「柵」を設ける。一定の重さの犯罪の成立が認められた ことは、ただその「柵」の高さが設定されたにすぎず、実際にどの程度の処罰 をおこなうかは、柵を乗り越えないかぎりで、そもそもの目的に立ち戻って考 えなければならない。それゆえ、重大な犯罪の成立が認められても、それだけ では処罰は「要求」されず、刑罰目的を直接考慮した量刑が求められる。この ようなイメージは、まさしく「犯罪を機縁として犯罪予防の政策を行なおうと するもの」369)にほかならない。そして、このような、違法論を含めた犯罪論全 体を、刑罰論と切り離された単なる「柵」として捉える理解こそが、責任を

「単なる上限」とした量刑基準論の内包する最大の理論的欠陥である。かかる 理解によれば、何が「重大な犯罪」であるかの評価基準は、アプリオリに与え

の分業は、両者が協力して働く場合にのみ機能することができ、いずれにせよ同 一の基本原理によって指導されうるものである。もし裁判官が、与えられた指針 を安易に排除……してよいというならば、立法者の準備作業は著しく妨害され」て しまうだろう(Bruns,  a.a.O.  Anm.(94),  S.43)。つまり、「刑罰枠の中心的意義は…

…最高刑と最低刑の確定に〔のみ〕あるのではなくて……生じうるすべての事例の ためのいわば見えない重さの尺度(Schwereskala)」を設定することにある。それ は、「一定の所為の不法・責任内容の場合に、立法者が(!)、その意思によって

(!)、いかなる刑罰を裁判官に指示するのかを認識せしめる。裁判官はこの評価 にも拘束され」る(Bruns,  a.a.O.  Anm.(94),  S.60)。この論述に示されているのは、

法定刑は、当該犯罪の当罰性に関する立法者の価値判断を体現する尺度であり、

その価値判断に裁判官は(形式的にのみならず、実質的にも)拘束されるのであ って、裁判官は、法定刑や処断刑を「単なる枠」と考えてそれを逸脱しない限り

「自由な」政策的考慮から刑を量定してよいわけではない、という理解である。そ して、その実質的根拠は、本文にみたように、(立法者によってなされる)違法評 価には、刑罰目的の観点からみた処罰の必要性が反映されているから、(裁判官に よってなされる)刑の量定も、それを「基礎」として行なわれなければならない

られている、ないし無目的に決せられるべきものであるということになりかね ない。ある所為に「犯罪」としての評価を付し、禁圧の対象とすることが人為 的な営みである以上、そのようなことを承認することはできない。ある所為に 対して付与される「犯罪」としての評価それ自体に、刑罰目的の観点からの処 罰の必要性が反映されていると考える現代的な犯罪論(とりわけ違法論)370)か らすれば、かかる理解を採りえないということは、理論的にみて、至極当然の ことなのである。

ドキュメント内 量刑における消極的責任主義の再構成 (ページ 102-105)