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各国の負担割合

これまで見てきたようにIWGCが世界中に散らばる戦場跡に膨大な数の戦 争墓と記念碑を含む共同墓地を建設し,それらを恒久的に維持管理してい くためには,莫大な資金が必要であった。それは基本的には帝国を構成す る各国政府の負担によった。1918年の帝国会議は,その負担割合を身元が 判明した兵士の戦争墓の数に比例するという原則を確認したことは前述の 通りである。ちなみに,この原則に基づき1930年段階でコミッションの記

録責任者より各国政府に示された墓の数と負担割合は次の通りであった(66)

政府 身元の判明した墓の数 負担割合

連合王国 454574 81.53%

カナダ 43391 7.87%

オーストラリア 35408 6.35%

ニュージーランド 10117 1.81%

南アフリカ 6340 1.14%

インド 5665 1.02%

西インド諸島 1262 0.23%

ニューファウンドランド 763 0.14%

         合計 557520 100.00%

これを見ても分かるように,大部分は連合王国の死者であり負担であった が,カナダ,オーストラリアもかなりの犠牲をはらっており,帝国を構成す る各国政府も死者の割合に従った応分の負担をしていた。このことは,第二 章でもふれたように,この課題が「協調のためのシステムやそれを実践する ためのチャンスを提供し,連合王国と自治領の全ての政府が同じ目的の政策 をとれるようにするための最初のそして最適な実践例であった」ことの証で あった。加えて,1937年段階で身元不明の墓が180861もあった。ウェアは直 接ふれていないが,これも上記の割合に従って負担されたとものと思われる。

経費の見積もりと財政委員会の成立

IWGCの帝国会議以前の見積もりでは,一つの墓の建設に10ポンド,身元 不明の墓の兵士それぞれの記念のために 5 ポンドかかるという予想であっ た。この数字がこの時点でコミッションによって恒久的に記録された墓の 総数738000と身元不明の死者の数518000に適用されると,結果的にはおよ その見積もりは1000万ポンドになった。これはコミッションにとっては予 想された数字であったが,実際に帝国会議が承認した建設にかかる支出総 額は,815万ポンドであり,当初の見積もりよりも185万ポンド少なかった。

この現実を前にして,1918年12月にコミッション内部に設立された財政委 員会が事業を厳格に統制することになった。財政委員会は最初からコミッ ションの組織の中で特別な地位を与えられていた。その統制の権限は強く,

広い権限が配分されていた。財政委員会はコミッションのスタッフへの財政的 アドバイザーであるだけでなく,その執行統制者でもあった。後者の役割にお いて,しだいに建設方面の性格の仕事の監督を果たすようになっていった(67)

この財政委員会も委員長は終始一貫ウェアが務めてきた。設立当初のメ ンバーはウェアを含めて五人で,何れも「本国と自治領において顕著な財政 的,行政的経験を積んだ人々(68)」によって構成されていた。任期は短い者 は 1 〜 2 年であるが,1937年時点でウェア(18年)と下院議員のハリー・ゴ スリング(13年)がきわだって長く,運営の中心であったことがうかがわれ る。IWGCは帝国を構成する各国政府が提供する資金に基づいて活動してお り,そのため連合王国だけでなく,各国政府に対しても直接責任を負ってい た。財政委員会の委員長であるウェアは会計責任者として連合王国はもとよ り,各国政府に対して毎年詳細な財政報告書を提出したが,それは特に連合 王国下院の決算委員会で精査された。このことは自治領各国を満足させた。

帝国戦争墓委員会基本財産国債の起債と基本財産の確立

IWGCの年間予算に占める連合王国の負担分について,大蔵省は補助金 の形で提供することに同意していたが,ウェアは財政委員会に大蔵省から の代表の参加を求めた。それはコミッションの財政執行に全般的な信用を 疑いもなく付け加えた(69)。 

IWGCの存在目的である戦争墓の建設とその恒久的維持管理のためには,

しっかりした財政基盤を確立する必要があった。1924年の恒久的維持管理 のための費用の総計は年に225000ポンドであった。この数字は議論の後,

年間216000ポンドに減額された。比較的短期間の中に基本財産が確立さ れたならば,この収入は500万ポンドの資本金によって提供できると計算

された。こうして1926年 6 月30日,帝国戦争墓基本財産国債法(Imperial War Graves Endowment Fund Bill)は制定された。起債された国債によ る基金を管理するために,三人の管財人が保管委員会によって指名された。

その一人がフェビアン・ウェアであったことはいうまでもない。基本財産 基金に対する自治領の負担割合は,1931年に完成した(70)

しかしながら,コミッションの運営の安定が直ちに得られたわけではな かった。というのは,コミッションの収入と支出の見積もりが次の三つの 主要な要素によって影響を受けたからである(71)

第一の要素は,1924年以来新たに戦場で発見され,委員会に報告さ れた約40000の墓が付け加わったことである。このことは少なくとも 10000ポンド以上は確実に追加的な年間経費が必要なことを表してい た。おそらくより一時的な性格の第二の要素は, 1931年に起こった外 国為替におけるスターリングの価値の変動である。…(中略)…しかし,

その大部分は,参加各国政府による付加的に議決された支出によって 穴埋めされた。第三の要素は,連合王国において,戦時国債の償還以 来,貨幣相場が変動したことである。その結果,コミッションの基金 管財理事会は最初に予期された有利な利率で基金中で連 合王国の占 める割合の利息の寄付と利殖を後に付与することが不可能になった。

結局,「財政委員会は,最終的に直面すべき不足額に見合うよう助けに なるすべての可能な節約を導入し」(72)てこのピンチをしのいだのである。

つまり主として人件費を抑制したのである。世界中に存在する沢山の共同 墓地の建設には多くの人員が必要とされたが,建設が終われば人員は徐々 に削減された。コミッションのスタッフの中には,庭師,事務職の他に聖 職者も100人以上含まれていた。特にフランスとベルギーには多くの共同 墓地があったのでスタッフの数も多かったのである。

ドキュメント内 フェビアン・ウェアと帝国戦争墓委員会 (ページ 35-39)

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