今回の調査で確認された遺構をトレンチごとにまとめ ると,次の通りである。これらの遺構の時期差につい て,検出レベル(第25図)や古写真(写真4)・文献等 から考えてみたい。
トレンチ 遺 構
1T 切石布基礎,坪地業 緑青のある三和土,石垣 2T 布基礎
3T 切石布基礎,坪地業
まず,1トレンチである。坪地業は,切石布基礎の切 石とほぼ同じレベルで検出されている。そして切石布基 礎は,緑青のある三和土を掘り込んでつくられている。
石垣は,布基礎と緑青色をした三和土(⑩層)および同 時期の旧地表面と考えられる黒色砂層(⑨層)に覆われ ている。このことから,Ⅰ期(石垣)→Ⅱ期(緑青のあ る三和土)→Ⅲ期(切石布基礎・坪地業)と変遷したと,
考古学的層位関係から考えられる。
また,2トレンチの布基礎は,1トレンチのものとほ ぼ同レベルで検出され,構造もほぼ同じなので,Ⅲ期の ものと判断した。
3トレンチの切石布基礎は,他の2つのトレンチの布 基礎とほぼ同レベルで検出され,構造もほぼ同じなので,
Ⅲ期のものと判断した。坪地業については,⑨層の明褐 色土層に覆われており,切石布基礎は⑨層を掘り込んで 造られている。よって,坪地業は切石布基礎よりも古い と判断し,Ⅰ期あるいはⅡ期の遺構と判断した。
次に,それぞれの時期の遺構が何に関連するものかと いう点である。Ⅲ期の遺構であるが,これだけの基礎を もつ石造建築物は,文献の面から考慮してみても,鹿児 島紡績所であるということは,まず間違いないだろう。
また,鹿児島紡績所の建設場所は,琉球通宝を鋳造して いた鋳銭所の跡地であった。また鋳銭所の建設場所は,
今和泉島津家の磯屋敷跡であった。このような土地の来 歴と,今回の発掘調査の結果から,次のように遺構を区 分した。
時 期 トレンチ 遺 構
Ⅰ期 木造建築の屋敷 (今和泉島津家の磯屋敷?)
1T 3T
石 垣
坪地業(Ⅱ期?)
Ⅱ期 鋳銭所? 1T 緑青の三和土
Ⅲ期 石造建築物
(鹿児島紡績所) 1T 2T 3T
切石布基礎 坪地業 布基礎 切石布基礎 このことを出土遺物から検討してみる。1トレンチで
は,⑦層の赤灰色砂質土層が切石布基礎を完全にパック している状態だったので,遺物を取り上げる際に⑦層か ら下は,特に注意を払い遺物取り上げを行った。その結 果,⑥層より上では,コバルト釉の施された磁器が見ら れたが,⑦層から下ではそれが見られなかった。鹿児島 大学の渡辺芳郎教授の遺物指導でも,それを確認してい ただくことができた。また,時期を特定できるような磁 器を見ていただいたが,「いずれも幕末~明治期よりも 古いものである」との指導をいただいた。このことから,
⑦層より下層は,明治時代よりも古い時期の層であると 考えることができる。
このように,遺構・文献史料・出土遺物から判断する と,今回の調査で検出した遺構は鹿児島紡績所のもので あると判断することできる。
2 遺物
出土遺物の特徴として2点挙げられる。
まず第一に,窯道具についてである。すべてのトレン チで窯道具が出土した。当初,この窯道具は大正時代の 仙巌焼に関連するものであろうと思っていた。しかし調 査を進めるなかで,かなり下層まで窯道具が出土した。
先に述べたように,⑦層あたりが幕末から明治の境界に なると考えられるので,それより下層から出土している ものは,仙巌焼のものとは考えにくい。
では,どの窯に由来するものなのであろうか。
渡辺教授によると,「磯窯」の可能性があるというこ とであった。磯窯は島津斉彬が集成館と磯御殿の中間地 点のあたりに造らせた窯で,陶磁器や反射炉用の耐火レ ンガが生産されていたと考えられている。「磯御庭焼」
ともいわれることから,窯道具も竪野系のものであるこ とが推測される。出土した窯道具も竪野系のものなので,
その点は矛盾しない。いずれにしても,磯窯本体の様子 がもう少し解明されることを待ちたい。
二番目としては,茶入についてである。幕末当時,茶 入を持つ人々はごくわずかしかいなかったはずである。
今回の調査で,茶入が数点出土している。茶入は火を受 けた様子もなく,火災等の被害によるものではなさそう である。文献にあるように,この地には今和泉島津家の 別邸があったようなので,そのような上級武士の屋敷に 関連する可能性がある。あるいは,さきほどの「磯窯」
で焼かれたものの破片という可能性もあるのではないだ ろうか。
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第26図 各トレンチの検出遺構のレベル比較(鹿児島紡績所跡)
C
C'
D
D'
E
E'
・・・緑青色土 ・・・漆喰
1トレンチ
①,明黄褐色砂層 海の砂という感じ サラサラ ②,赤灰色礫混層 小礫、中礫 ③,明褐色土層 造成土② ③
①
CC'H=3.000m H=2.000m ,黒褐色砂質土 ,褐色砂質土
a b
② ③③
①③ ab
EE'H=3.000m 1,As(アスファルト) 2,小砂利層 3,小豆色豆石層 4,旧側溝石組 5,黄褐色礫積層(鳥越トンネル掘削土礫) 6,硬化面1 7,混礫赤褐色砂質土 8,灰褐色砂質土 9,硬化面2 10,灰黄褐色砂質土 11,凝灰岩礫盛土層
2トレンチ
硬 化 面 1 硬 化 面 1
コンクリート基礎
C
C' DD'
レンガ
10
6677 8 99石敷
水道管掘削坑
H=4.000m H=3.000m H=2.000m
CC'
A A'
BB'
C C'
D
D'
E
E'F
F' コ ン ク リ ー ト 基 礎
黒色土 焼土?
緑青色土
3トレンチ 第 26 図 各トレンチ間の検出遺構レベル比較 ( 鹿児島紡績所跡 )
石敷石敷明褐色土
緑青色土
褐色土版築グリ石層掘り込み掘り込み
DD'H=3.000m H=2.000m
B地点 ( 市教委 ) C地点 ( 市教委 )
2.0m1.00海岸道路レベル(市教委)標高約3.8m 標高3.0m 基礎の敷石レベル 標高約2.3m
a b c
a b c
第27図 鹿児島紡績所跡遺構の軸線
8.00 5.00
5.00 5.00
4.00
4.00
4.00
10.00
15.00 5.58 4.61 4.61 4.72
5.53
5.71 5.51 5.43
5.495.50 4.73
3.83
電
磯工芸館 タクシー乗り場 開花亭跡 ローソン跡 ジョイフル電 電
1トレンチ
2トレンチ
国道10号線 磯旧街道
第27図 鹿児島紡績所跡 遺構の軸線 及び平成11年度鹿児島市教委トレンチ配置図(B,C地点)
日豊本線
3トレンチ 50m250
T-1 T-2
T-3
T-4 T-1-1T-1-2
T-3-1T-3-2 T-2-1
C地点 B地点
約20m- 43 - 第1節 遺跡の位置と環境
1 地理的環境
祇園之洲砲台跡は,鹿児島県鹿児島市清水町10番に所 在する。(遺跡位置図)
吉野台地から錦江湾に流れる稲荷川の河口に立地し,
川に沿って舌状に延びる多賀山の急峻な崖下にある。眼 前に桜島を眺め,錦江湾を臨む地に,幕末期に造られた 埋立地上に築かれた砲台である。
稲荷川を挟んで,対岸も江戸期の埋立地である。遺跡 の立地する河口より少し奥からは沖積地が広がり,その 奥に吉野台地,城山が控えている。
2 歴史的環境
⑴ 祇園之洲砲台跡略歴
砲台の所在する埋立地は,第十代藩主島津斉興の命に より稲荷川の浚渫土で造られ,埋立て後,兵士の屯集所 として使用された。
1853(嘉永3)年に第十一代藩主島津斉彬によって砲 台が築造され,1858(嘉永8)年に第十二代藩主島津忠 義によって改修が行われ,1863(文久3)年の薩英戦争(島 津忠義)では激戦地となり,壊滅的打撃を受け,戦争直 後に改修が行われた。
その後,1872(明治5)年の明治天皇行幸の際には御 召艦隊との砲撃演習が行われ,このときに撮影された古 写真が残っている(巻頭図版8)。
また,1877(明治10)年に起きた西南戦争では政府軍 によって使用不可能にされ,西南戦争終結後は官軍墓地 として使用された。墓地は,荒廃が進み,1951(昭和 26)年に来襲したルース台風により甚大な被害を受けた。
1952(昭和27)年には市営アポートが建設され,その 後1955(昭和30)年に官軍墓地の収骨を行い,合葬碑が 建てられ,公園として利用されるようになった。
1974(昭和49)年に鹿児島市は,史的評価を考慮し,
祇園之洲砲台跡を鹿児島市指定史跡とした。
平成9年度には,8.6水害により甲突川の河川改修が 必要となり,川に架かっていた高麗橋と玉江橋を祇園之 洲砲台跡に移設し,公園整備をするため,移設地の発掘 調査が行われた。
⑵ 祇園之洲砲台跡周辺の歴史
遺跡の背後にある多賀山には,島津氏が鹿児島に勢力 拡大する際に居城とした東福寺城(8),浜崎城(9)が あり,八坂神社(祇園神社)に隣接している。
また,稲荷川の奥には一時島津氏の内城であった大竜 遺跡(12),寺社,城下町等があり,このほかに武器・
武術関連の施設としては,1847(弘化4)年設置された 砲術館があり,稲荷川の対岸には,1847(弘化4)年に
設置され青銅砲等の武器を製造した鋳製方などがあった ことが知られている(第30図)。
第28図の天保年間頃の絵図を見るとまだ埋立等が行わ れておらず,安政年間作成の第29,30図を見ると埋立が 行われ砲台が築造されている。明治以降,海岸部は次々 と埋立てられ,港や水路が整備され現在に至っている。
第28図 鹿児島城下屏風絵図(鹿児島市立美術館蔵)
天保年間
第29図 旧薩藩御城下絵図(鹿児島県立図書館蔵)
安政年間
第30図 鋳製方「薩州見取絵図」(武雄市歴史資料館蔵)
安政4年