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ドキュメント内 九州大学学術情報リポジトリ (ページ 43-46)

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的には本荘星川の案を継承したものと見ることができる。その内容を-覧するとそれぞれの等級において学ぶ審物とそれらについての試業の合格基準が厳密に定められ、諸生への教育が一定の知識の習熟というきわめて注入主義的な方法によっておこなわれていたことがわかる。但し、大学課程もしくは小学課程上等生あたりからは正

業以外の自発的な学習が要求されるようになっている。殊に大学

課程中

等生以上にあっては試業内容も第二次試

業では正業以外の教養を試すものになっていて、この段階では正業以外の教養を試すものになっている。また、

文武の合一も強く要求されるようになり、この慶応期の学科課程では別に鎗術・剣術・柔術の内より一芸、弓術

-馬術・砲術・居合のうちより一芸が藩士として修得すべき必須の武芸とされていた。そして何より「学聞は大

学初等生ニ入、武芸は二術免許或は一術印可相伝之輩ニ無之而は一切御奉公願出申間敷且御家中養子願之儀も人

品右同様心得可願出候」と文武において一定の修得基準に到達していなければ奉公は勿論、養子の口さえ僅なら

ぬことと決められていた。

以上をとりまとめて、明善堂を素材に藩校教育の性格を整理すると第一に明善堂はその再建すら危ぶまれる藩

財政の危機の中で設立された。そのことじたい明善堂が政治的存在であったことを意味している。これはいわゆ

る藩校の時務意識の問題であって他の多くの藩校の場合にもその強い存在理由となっている。この時務意識は指

導者の交替があっても基本的に変わることはなかった。樺島石梁は明善堂の果たすべき役割を藩行政に貢献しう

る人材の育成というところにおき、本荘星川や不破美作はイデオロギー教育を中心にした人材育成を構想した。

天保学連の一派も学問を政治的な社会変革のイデオロギーとして捉えていたことを含めて藩の

学校

の基本的任務

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