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2. 煩悩を助縁とする資料 2.1. 初期経典における事例
1.4. 註釈文献における事例
これまでに、〈煩悩→業→苦〉という惑業苦の関係をもとに〈煩悩滅→業滅〉の関係が散 文資料に至り導かれた点を指摘した。続いて註釈文献を検討し、煩悩と業滅の関係を探る。
榎本文雄[1989:p. 11 註 4, 註 9]は、Ud. 3, 1 の韻文部では業滅だけが説かれているが、そ の散文部では偈本来の文脈を離れて、煩悩に関わる説明が加えられていると指摘している。
実はこれと同種の傾向が、初期経典と上座部註釈文献の間においても見られる。上座部の註 22)中村元[14:pp. 573‒732](=[旧14:pp. 259‒398])を参照。なお初出は中村元[1956]である。
23)さらにこの〈貪瞋痴の了知→悪趣断〉の関係から、AN. vi, 39の〈無貪瞋痴→業→善趣〉や、AN.
iii, 108の〈無貪瞋痴→業滅作用のある善業→楽〉の関係を導くのも比較的想像しやすいように思 われる。
24)AN. iii, 33; AN. iii, 107‒108において説かれる業滅は、その対象が過去の業ではなく、浪花宣明
[1994:pp. 7.20‒8.33, p. 13.19‒26](=[2008:pp. 264.14‒265.25, p. 271.4‒11])が指摘するような
「現在これからなす行為が業ではなくなる」と読むことも可能であると考えられる。しかしながら、
AN. iii, 33の末尾に附された偈AN. iii, 33(Vol. I p. 136.14‒18)では、悪趣を断つことが問題となっ ている以上、これら経典における業滅が「過去につくった業を滅して、それが異熟しないように する」と理解することは妥当であると考えられる。Bodhi[2012:p. 1640 note 373]も、AN. iii, 33での業滅は、阿羅漢が過去に積み上げてきた業について言及していると理解している。
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無貪瞋痴の三善根によって作られた善業は、業滅作用があり、楽の異熟があるとされ、こ こでは〈無貪瞋痴→業滅作用のある善業→楽〉の関係が説かれている。最後にAN. vi, 39 に は次のように説かれる。
AN. vi, 39(Vol. III p. 339.17‒23):比丘らよ、無貪から生じた業によって、無瞋から 生じた業によって、無痴から生じた業によって地獄は了知されず、傍生は了知されず、
餓鬼境あるいは他の何らかの悪趣も了知されません。その一方で比丘らよ、無貪から生 じた業によって、無瞋から生じた業によって、無痴から生じた業によって諸天が了知さ れ、諸人が了知され、あるいは他の何らかの善趣も〔了知されます〕。
〈無貪瞋痴→業→善趣〉の関係が説かれ、業滅については何も述べられていない。善趣の 異熟について言及している点は、AN. iii, 108 が楽の異熟について言及している点と類似して いる。これら三経の後半部における業滅/異熟の有無をまとめると次のようになる。
AN. iii, 33 AN. iii, 108 AN. vi, 39
業滅に言及 ○ ○ ―
異熟に言及 ― ○ ○
従って、各経それぞれに内容が異なる。また、これら各経の前半部と後半部の内容を表に 示すと次のようになり、前半部の惑業苦の関係は三経ともほぼ同一内容を伝えているが、後 半部については三経とも内容の異なる点が確認される。
AN. iii, 33 AN. iii, 107-108 AN. vi, 39
前半部 貪瞋痴→業→異熟 貪瞋痴→業滅作用のない不善業→苦 貪瞋痴→業→悪趣 後半部 貪瞋痴滅→業滅 無貪瞋痴→業滅作用のある善業→楽 無貪瞋痴→業→善趣
1.3.1. AN. iii, 33 韻文部の検討
続いて、AN. iii, 33 の末尾に付されている偈を考察する。次のようにある。
AN. iii, 33(Vol. I p. 136.14‒18):愚かな者によって為された貪・瞋・痴から生じた業は、
多かれ少なかれ、ここでのみ感受される。ほかの基(vatthu)は存在しない20。それゆえ、
貪・瞋・痴を了知した21比丘は、明を起こし、あらゆる悪趣を断つだろう。
偈の前半部で〈貪瞋痴→業→異熟〉の関係が説かれているが、後半部では〈貪瞋痴の了知 20)「ここでのみ感受される。ほかの基(vatthu)は存在しない」は、ANA. iii, 33(Vol. II pp.
223.29‒224.5)によれば、「自業自得であり、自業他得はないこと」と説明される。
21)PTSに従えば「了知しない」となる。ここではcāpi viddasuに改めて読む。
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熟ある業であり、業を集める作用のある業であり、業を滅する作用のない業17です。(…
瞋…痴…。)
AN. vi, 39(Vol. III pp. 338.28‒339.6):比丘らよ、貪から生じた[339]業によって、
瞋から生じた業によって、痴から生じた業によって諸天は了知されず、諸人あるいは他 の何らかの善趣も了知されません。その一方で比丘らよ、貪から生じた業によって、瞋 から生じた業によって、痴から生じた業によって地獄が了知され、傍生が了知され、餓 鬼境が了知され、あるいは他の何らかの悪趣も〔了知されます〕。
AN. iii, 33 は〈貪瞋痴→業→異熟〉の関係を、AN. iii, 107‒108 は〈貪瞋痴→業滅作用のな い不善業→苦〉の関係を 、AN. vi, 39 は〈貪瞋痴→業→悪趣〉の関係を説いている。したがっ て、いずれの経も惑業苦の関係を説いており、内容的には同一趣旨である。
続いて後半部を検討する。後半部も、共通した定型句(前半部の貪・瞋・痴を、無貪・無 瞋・無痴に置き換えたもの)が置かれ18、それに続いて無貪瞋痴(三善根)と業の関係が解 説されている。まずAN. iii, 33 には、次のようにある。
AN. iii, 33(Vol. I p. 135.20‒23):比丘らよ、およそ無貪によって作られ、無貪より生じ、
無貪を原因とし、無貪を集因とするその業は、貪が消え去っていれば19、同様にその業 も断たれます。根本が断たれれば、ターラ樹の本を断つように、存在しないものにされ、
未来に生じない性質のものとなります。(…無瞋…無痴…。)
貪瞋痴が消え去っていれば、無貪瞋痴の三善根によって作られた業も断たれると説かれ、
〈貪瞋痴滅→業滅〉の構造が見られる。続いてAN. iii, 108 には次のようにある。
AN. iii, 108(Vol. I p. 263.28‒32):比丘らよ、およそ無貪によって作られ、無貪より 生じ、無貪を原因とし、無貪を集因とするその業は、善の業であり、罪過なき業であり、
楽の異熟ある業であり、業を滅する作用のある業であり、業を集める作用のない業です。
(…無瞋…無痴…。)
17) ANA. iii, 107(Vol. II p. 367.29‒30):「業を滅する〔作用の〕ない業」とは、「輪転に趣く業 の滅のために作用しない業」のことである。
18)AN. iii, 33(Vol. I p. 135.16‒19); AN. iii, 108(Vol. I p. 263.23‒27); AN. vi, 39(Vol. III p.
339.9‒13)
19) ANA. iii, 33(Vol. II p. 223.11):「貪が消え去っていれば」とは、「貪が捨て去られ、滅され ていれば」のことである。
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これらの資料において説かれる “煩悩が滅すれば業も滅する” という〈煩悩滅→業滅〉の関 係に基づいて、修道論における煩悩と業滅の関係を体系的に理解している。
そこでまず本項 1. 3.では、共通の定型句15を互いに含み、類似した内容を持っているAN.
iii, 33; AN. iii, 107‒10816; AN. vi, 39 の三資料を検討し、〈煩悩滅→業滅〉の関係の教理展開を 探る。これらの資料では、前半部において貪瞋痴(三不善根)がどのように業や異熟と結び 付くかを説き、後半部では無貪瞋痴(三善根)がどのように業・異熟に関わるかを述べてい る。それぞれの経の前半部では惑業苦の関係が次のように説かれる。
AN. iii, 33(Vol. I p. 134.19‒23):比丘らよ、およそ貪によって作られ、貪より生じ、
貪を原因とし、貪を集因とするその業は、その自体が生じるところにその業が異熟し、
その業が異熟する順現法あるいは順次生あるいは順後次において、その業の異熟を感受 します。(…瞋…痴…。)
AN. iii, 107(Vol. I p. 263.11‒15):比丘らよ、およそ貪によって作られ、貪より生じ、
貪を原因とし、貪を集因とするその業は、不善の業であり、罪過ある業であり、苦の異
大なる、無量の、害意なき念覚支を修習すれば、渇愛は断ぜられます。渇愛が断ぜられること により、業が断ぜられます。業が断ぜられることにより、苦が断ぜられます。
苦の起こる原因について、業よりも煩悩がより本源的な原因であるとしている。註釈も渇愛が根 本となって業が生起すると主張して、〈渇愛滅→業滅→苦滅〉の関係を強調している。
SNA. 46, 26(Vol. III p. 149.22‒27):「渇愛が断ぜられることにより、業が断ぜられます」とは、
「およそ業は渇愛を根本として生起し、渇愛が断ぜられることによって、それ(業)は断ぜら れる」である。「業が断ぜられることにより、苦が〔断ぜられます〕」とは、「同様に、およそ 輪転の苦は業を根本として生起し、業が断ぜられることによって、それ(輪転の苦)は断ぜら れる」である。渇愛の滅尽などは、実に渇愛などの滅尽のことである。また、意に従えば、こ れらによって、涅槃が言われているのだと知られるべきである。
SNT4. 46, 26(VRI:Vol. II p. 134.11‒13):「渇愛を根本として」とは、「渇愛を縁として」で ある。なぜなら、渇愛と倶起する〔業〕も、倶起しない〔業〕も、渇愛に依止して完成するので、
それらすべては渇愛を根本としているのである。「断ぜられる」とは、不起捨断ゆえに〔かく 言うのである〕。「実に渇愛などの滅尽のことである」とは、「それらの行(san4khārā)の滅尽 ではない」である。「これらによって」とは、「渇愛の滅尽などの句によって」である。
15) AN. iii, 33(Vol. I p. 134.15‒18); AN. iii, 107(Vol. I p. 263.7‒10); AN. vi, 39(Vol. III p.
338.20‒124):比丘らよ、業を集めるための三つの原因があります。三つとは何でしょうか。貪 は業を集めるための原因です。(瞋…痴…。)
16)AN. iii, 107とAN. iii, 108の両経を、ビルマ版や註釈では合わせて一つの経として扱っている。
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Dhp. 1:諸法は、意を先とし、意を主とし、意よりなるものである。もし汚れた意によっ て語ったり、為したりするならば、それゆえに、苦がその者に従いゆく。あたかも〔車 を〕ひく〔牛〕の足跡に車輪が〔従いゆくように〕。
Dhp. 164:悪しき見解9に依りて、法に生きる聖者・阿羅漢たちの教えを非難する愚か 者は、カッタカ草の果実のように、自らの破滅のために果報を得る。
このような〈煩悩→業→苦〉の関係は、ジャイナ教古層資料にも見られることから10、当 時の思想家たちの間に一般的に知られていた思想を、仏教も共有していたものと考えられ る11。しかし、この一方で、業滅と煩悩がどのような関係にあるのかについて韻文資料は明 示していない12。本稿では、韻文資料における業滅関連資料として 23 の事例13を検討してい るが、Sn. 235; Sn. 537; Dhp. 412; Itiv. 112(p. 123.1‒4)などでは業滅と煩悩滅の両方が偈のな かで説かれるものの、その二つがどのような関係にあるのか不明確である。この点で、仏教 における韻文資料の傾向は、ジャイナ教古層資料の傾向と一致している。このような傾向が、
散文資料でどのように展開してゆくかが注目される。