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計’

ドキュメント内 著者 村串 仁三郎 (ページ 86-98)

46343 31 83

51.05 1.50 11152 58842 16.25 1.08

16.05 1.00 19.65 1.09

12.00 4.00 14.10 0.70

12.30 0.14 10.90 0.20

17.90 0.54 10.20 0.46

11.85

1.50

27 2.80 1.40 1.50 17

3.55 1.44 3.05 0.43

3.15 8.20

31 21.90 0.70 52 35.55 0.68

412.401

101120.501

121690’

’’82351

0.60

0.20 102 21.05 0.20

0.501 17 50.55 1.20

161.00

松島静雄『友子の社会学的考察』74-5頁より。

○年の取立面状から推計すると全体の組織人員は二(3) 三○人位であった。病傷救済の被給率は、明治四四年は五○件で約一三%、四五年は一一一一一一件で、一四%

ということになる。また一件当りの支給額は、明治四四年には、病気で一円五○銭、負傷で一円、四五年には病気で一円八銭、負傷で一円九銭である。この支払額を神岡鉱山の「栃洞山中規則」の支給額と較べてみよう。神岡鉱山の場合は、一円は一五’二九日の病気の扶助額で、一日三・四銭I六・六銭に相当し、一円五○銭は一一一○’四四日の病気の扶助額で、一日三・四銭(4) ’五銭の扶助額に相当する。このようにゑてくると、小坂鉱山の病傷扶助は、かなり実質的なもので

あったように思われる。

次に奉願帳についてふると、ここでは小坂鉱山における奉願帳の発行費用と奉願帳持浪人が登山してきた場合に支払われる附合料とが区別されていな

い。後者だけとみても、奉願帳持の登山は、明治四

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四年に三一人で一回の支給額が七○銭、明治四五年には五一一人で一回の支給額は六八銭である。因に「神岡鉱山同盟坑夫契約書」では、奉願帳持坑夫の登山者には一度目一円、二度目は五○銭の支給である。小坂鉱山では、二年の一年間平均登山者は四一一人、一月平均三・五人である。従って、奉願帳制度も、かなり実質的なものであったことがわかる。寄附帳制度は、資料的にみてあまり大きな意味はなかったように思われる。

浪人登山坑夫への附合料は、各年とも一○○件以上あり、月平均八・四人の登山者があり、約二○銭の附合料が支払われている。また賎別は、明治四四年には八四人で月平均七人が下山し、一四銭程の支払をうけていることになる。明治四五年には五四人で月平均四人が下山し、二○銭程の饅別を受けている。仏参については件数が不明であり、又死亡者に対する扶助も計上されていないので実態は不明である。いずれにしろ、小坂鉱山の交際金支出表は、明治後期の友子の共済活動がきわめて実態的に存在し、内容的にも実効をもったものとして行なわれていたことを示しているといえよう。次に友子規約にはない親分子分、兄弟分関係による私的な扶助制度について、その事実関係を確認しておきたい。友子規約による組織的な扶助制度を補完するこの私的扶助制度を無視すると、松島静雄氏の指摘するように友(5) 子の共済制度の過小評価になってしまう。例えば、神岡鉱山の病傷扶助が二一’四四日の病傷の場合、一日に一一一・四銭’五銭にしかすぎず、日賃金が、四○’五銭の明治後期に、これほどの扶助では食べることさえ容易ではない、ということになる。しかしこれに親分子分や兄弟分の私的な扶助や助けが加われば、病傷者の扶助はかなり充実するとゑて差し支えないであろう。親分子分、兄弟分による私的扶助について松原岩五郎は、明治二九年に、足尾銅山の友子を論じて、次の如く指摘している。「万一不幸にして其者病気に罹ることあらんか直ちに飯場を休養所として阿兄の手にて療治せしめ、

87明治期における友子制度の組織と機能(下)

このような私的扶助を考慮に入れつつ、友子の共済活動の水準を明治後期に散見される企業の「救伽規則」と共済組合の扶助水準とを比較してふることにしよう。日本の鉱山においては、明治一一三年に『鉱業条例』が制定され、それに基づいて施行された「鉱夫使役規則」(8) は、第七二条をもって鉱夫の救仙規定の作成を各鉱山に義務付けた。もっとも具体的規定を規定したわけではなく、鉱山監督署が「鉱夫救仙支給額標準」を定めて、行政指導によって各鉱山に「救仙規則」をつくらせるにとどまった。この規定の要点は次の通りである。第一条無過失で就業中の負傷は「総テ其診察料ヲ給ス」第二条右の場合就業不能の時は「総テ薬価ノー分ノー以上ヲ給乙第三条同じくその場合は「総テ日給賃銭三分ノー以上療養日当ヲ給乙第四条第一、「死亡シタルトキハ埋葬料参円以上ヲ給ス」、家族あれば「手当トシテ一時金五円以上ヲ給ス」第二、就業不能者には「退山ノ節五円以上ヲ給ス」この標準規定によって、明治二五、二六年にかけてほ堂全鉱山に「救仙規則」が作られたが、その運用について 病気重大にして棄置き難き時は兄貴の家へ引取りて介抱し、薬用其他の出費嵩ゑて阿兄の分別に能はぬ時は、仲間(6) 内より醸金して支弁し」一云灸と。ここでははっきりと「仲間内よりの醸金」つまり箱一兀による扶助に先立って、兄弟分による病人の救済の事実が指摘されている。蓮沼叢雲も「若し身内に病者あれば懇ろに之を介抱し万一死亡せし場合には仮令遠国に在るも馳せ来る等緩急相(7) 救ふこと肉親と雛企て及ばざる程にして実に感ずるに余りある」と、友子内の親分子分関係の私的相互扶助について指摘している。

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みると、実際にどの程度実施されたか疑わしい。特に無過失規定である以上、死傷の無過失か過失かの判定が難しいし、「救仙規則」の存在さえ一般の鉱夫に知られていたかどうかも疑問である。しかしこの規定は「負傷」救仙であって疾病救仙ではなく、ヨロヶやその他の職業上の病気には適用外だったのではないかと思われる。

そうした問題点を捨象して、「救仙規約」と常磐炭砿の友子規約(明治三○年)の扶助規定とを比較してゑると、友子制度の規則上の規定の方がすぐれていることがわかる。すなわち本人死亡の場合、「救仙規則」は、三円(家族ある場合の糸五円)であるのに対して、友子の場合は一○円の見舞金である。また休業手当について承ると、「救仙規則」では日賃金の三分の一支給(日賃金を四○銭とすれば、約一一一一銭)であるのに対して、友子の場合は、一一一週間から四週間の場合で一日二・四銭’一・八銭である。神岡鉱山の友子の場合は若干高くなるが、いずれも「救仙規則」よりは低い。しかし一方では友子の場合は、親分子分、兄弟分の私的扶助がこれに加わり、他方「救伽規則」の場合は、無過失の負傷の休業の承という厳しい制約が伴う。友子の場合は、病傷の原因を問わない点で「救仙規則」よりすぐれているし、また大衆受けする制度であったことがわかる。

「救仙規則」は、就業不能の退職者に五円を支給するが、友子の奉願帳制度は、発行時に一○円が支給され、浪人となって他山を巡回する場合には、一円前後の附合料が支給される。

以上のような共済制度を全体としてふると友子制度の共済制度のほうがすぐれていることがわかるし、また実際の鉱夫に実効あるものとなっていることがわかる。従って、明治後期の友子制度は、「救仙規則」による鉱夫扶助制度の出現によっても共済活動を侵蝕されなかったし、友子制度の普及を阻害することにもならなかったのであ

る。友子制度の共済活動の基盤を侵蝕することになるのは大正期に入っての企業の共済組合活動と大正五年の『鉱夫労役規則』の制定による鉱夫扶助の普及と大正一五年の健康保険組合制度の制定である。

89明治期における友子制度の組織と機能(下)

すでに糸たように渡友子の規約では、死者の仏参について規定がある。明治末期の夕張第一砿の規約では第七項

「組合ダル死亡者二遺族アリト雌トモ位牌〈必ス兄子分二於テ之ヲ捧持スベキコト兄子分不在ナルトキハ弟子分、弟子分不在ノトキ〈近縁ノモノ之ヲ捧持己とある。阿仁鉱山の小沢坑の渡友子の規約では、「第拾条、交際坑夫ノ死亡シタルトキハ其子分アル者〈子分子分ナキモノハ得母舎弟、得母舎弟ナキモノハ取立兄弟ヲ以テ死後一ヶ年間内二死地一一石牌ヲ建立寺院召待供養スル事トス」として、明確に子分弟子分による墓石建立の義務を唱って、これを仏参制度と呼んでいる。 次に指摘しておきたいことは友子の共済制度としては、全国的な統一性を維持しているが、その具体的な実施内容は、各友子ごとに相違があった、ということである。例えば死亡の際の香典の額や病傷者に対する扶助規定なども、鉱山ごとにかなりの差異があったようである。阿仁鉱山の小沢坑渡友子の規約では、二週間以内の病傷者へは見舞金五○銭であるが、磐城炭砿、神岡鉱山の場合は二○日以内は見舞金なしである。このなしというのは、箱元としては見舞金を出さないが、そのかわり親分子分、兄弟関係で扶助するシステムがあったことを意味する。また、山中での扶助の限界は(これは奉願帳を発行する条件でもあるが)、神岡鉱山と阿仁鉱山小沢坑で約三ヶ月であるのに、磐城炭砿では一○ヶ月と三倍も時間を要する。

このように共済規定の細目は、鉱山ごと大きくは地域ごとに種々異なっていることがわかる。友子制度は厳密に統一性をもっている制度なので、そのような差異はむしろ当然であった。

最後に友子の仏参制度について指摘しておきたい。友子組織内で仲間が死亡すれば、友子組織として、死者を丁重に弔らうことはきわめて当然のことである。しかし、渡友子と自友子では、死者の弔いの方法が著しく異なって

いる。

ドキュメント内 著者 村串 仁三郎 (ページ 86-98)

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