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第 3 節 結 言 吾

第五次の調査はこれまでのなかで最も対象面積が広〈、それ在けに多くのいろんな遣摘を甚 掘し、それに伴う多量の遺物を得ることができた。

遺構の在り:方としては、住居祉が何軒も集中する鴻所と土拡が群在する場所とそれ以外の空 地とがあって、との傾向は各時期を超えた癖のようにみえる。そのなかで67号と66号祉との重 複は、幅年的に朱確定だった絡沢式と新進式の前後間揮を明らかにするものであった。

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曽利H式朋の50号祉には、{色町家からも運びこまれたと考えられる大量の土器群か遣存し、

~にか本情あり主えだった。これに間違して、等間隔の位置にある同聞の59号と 58号泣が、折れ

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た石斧の半々を有し、 5C号祉にもl司峠なタは見をもっ角状製品があったことは、偶黙疋ろうか。

また別に、同期の旧い方に属する55号祉は、無一物にちかいうえ廃家となってから火民に遭っ ている模様であるが、そのすぐ南に同期の石組土拡が立主んでいる。これは二次韓基と考えられ る特殊な施設であって、やはり曽手JI

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式期には向かがあったことを思わずにはいられない。輯 ヒでこの時期には種々の新しい文化要素や世情が揖及しできで.山置の生活が大きな断り角に さしかかった時期であるから、そうしと事情が反眠されているのであろう。

また、時期は障って後期初頭弁戸式期の浅く不確定~生活祉は、曽利 V 式期が去った後の不

安定で過放的な状況を示すもの疋ろう。さらに時代は軒しく、平安後期の位 臼号祉は龍三次 剖査で尭』屈した

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号祉と住居の向きや竃の位置を向じくし、この間にあと伺軒かの家跡が埋も れていることが予想される。

出土遺物のうち石器は、耕作 収槽 製粉に至る農工具類が圧倒的な数量を占めでいる。そ れらのすべてを図示する過程でこれまで気付か辛かった石器群の存在や、基本的な組合わせ、

用途 用法の一部を把躍することができた。土器は、日常的な需央大き聞の探鉢や燕器を主伎と しで、これに控ね鉢や晴れの宜lJ<を煮故きするもの、あるいは酒造器などが伴っている。煮位 き用の土器に残っている牒とお焦げの宮跡を担察すると、そこには 定の原則性がみられ、ど のようなものを宜べていたかが妨御される。それら生活文化の内容については出来るだけ考察

眉で明らかにしたいと思う。 (小林公明)

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第五次発掘誠査参加者名簿

調査会浜茂敏(教育委員長)小林勲 国枝龍治 小林保久 小平辰夫 平出美保一 五 味 敬 造 小 林 幸 穂 小 林 正‑ : l j

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刀 丈 夫 五 味 逸 郎 平出今朝美 小林泰(以上保存会) 小林誠人(教育委員) 陶山光雄(文化財審議員)

調 査 団 小 林 繁 治 ( 教 育 長 ) 宮 坂 光 昭 小林公明 長崎元広 平出一 治

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. n 飼 幸 雄 細 川 光 貞 小 沢 敏 美 古 田 寛 小 池 久 義 窪 田 不二子 三井 音 秋 窪 田一雄小林敬子:lj

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刀 Lげ る 福 島 邦 男 有 馬 佐 紀 内山直三 全 国 進 折 井 敦

高 校 生 野 沢 正 美 小 平 学 慈 小 林 田 l 彦 進 藤 哲 五 味 直 喜 武 藤 波 樹 小河原実幸 : l j

Jl喜郎 山田きみ子 小林干洋 高見沢美恵子 小 林 博 子 小 口 雅 史 坂 本 勉 三上 徹 也 高 見 俊 樹 五 昧 弘 倉 本 至 五 味 一 郎 伊 藤 隆 吉 縄 問 政 幸 小 池 敏 郎 上 原 増 也 浜 清 和 五昧義雄岡田篤子 E 事森幸子武藤み申き功刀文香功刀富久美 浜千奈美小林ひかる織田敏江水野みどり小林栄子平出れい 二 子 平出孝

般 矢 沢 和 夫 小 池 広 平 出 i 胃 広 平 出 紫 朗 功 刀 百 代 功 刀 そ め 功刀友子 武藤さと江 : l j

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刀志げり 平出よねじ 功刀きく子 平出さよ織田千代子進藤郁雄五味てる干名取幸子五昧きのゑ 小林けさ子 平出女子 五味みさを 平出けさよ 小池よしの 平 出 と し 子 武 藤 里 治 桜 本 堂 平 出 き く み

事 務 局 功 刀 久 木 小 池 巻 彦 発 掘 担 当 武 蔵 雄 六

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