当今のわが国の読書界に なじ馴染みの深いハックスリが二人ある︒ジュリアン(Julian)とオルダス(Aldous)である︒前者は実験形態学者で︑近年はロンドン動物学会の主事をして お居り︑一般向きの学術書を続刊し︑エッセイ風のものも書いて お居り︑わが国で飜訳書も出ている︒オルダスは詩人︑小説家で︑ジュリアン以上に知名になっている︒トマス・ハックスリはこれ ら等の人達の祖父である︒即ち︑私は︑その孫達が遠くわが国で親しいものになっている今日に︑この ふる旧いハックスリの文を訳して︑ここに諸君に読んで もら貰おうというのである︒ しか而も私の意図は︑古典文獻の歴史的興味というのではなく︑この ふる旧いハックスリに︑今日なお吾人は学ぶべきであると考えるからである︒昨年の夏︑私は︑放送協会
︵
日本放送協会・NHK︶
から︑著作を中心にして思想と人物を語るという様式で︑連続講演をする依頼を受けた︒そして其を外国の学者から選ぶようにとのことであった︒私は考慮の末に︑ハックスリを選んで受諾して︑その講演数篇を主題として述べた︒本選集は大体その節にテキストともいうべきものとして用いた諸篇である︒私のこの意図は︑本解説で明かにされるであろう︒トマス・ハックスリは一八二五年︵文政八年︶︱︱︱ウォータールーの戦の十年後︱︱︱に生まれ︑一八九五年︱︱︱日清戦争の終った年に歿した︒イギリスではスペンサー(H.Spencer)︑フランスではパストゥール(LouisPsteur)︑それに遣伝学のメンデル(GregorMendel)などが同じ年頃の人物︑ダーウィ
169 解 説 ン(Ch.Darwin)︑フランスのクロード・ベルナール(ClaudeBernard)などが少し年上で︑ドイツのヘッケル(ErnstHaeckel)︑ワイスマン(AugustWeismann)などが少し年下である︒明治中葉の学界︑読書界には︑スペンサー︑ミル等と共に一般に親しい名であった︒ハックスリは自伝を書いて お居り︑本集にも其を加えたが︑内容の特殊なものであって︑彼の生涯の過程を伝えることに不十分であるから︑補足的に じゃっかん若干の物語を次に掲げる︒初等学校の教員の第七子として生まれて︑少年の頃から経済的には恵まれない生涯を始めた︒十歳の時に一家はカヴェントリーに移った︒機械技師を志したのであったが︑父親は医者にするつもりであった︒それで十六歳の時に義兄に当る医師の助手に住み込まされ︑そこで よび豫備修業をして︑ロンドンに出て少時シデナム・カレッジ(SidenhamCollege)で よび豫備教育を受け︑二年後にチェアリングクロス・ホスピタル(CharingCrossHospital)の学生になった︒少年トマスは︑早熟な︑実直な勉強ずきで︑ラテン語︑ギリシア語︑文法︑代数︑幾何学︑歴史︑生理学︑化学︑物理学などを熱心に勉強し︑フランス語の外にドイツ語を勉強し︑イタリア語も学んでいた︒ドイツ語を学ぶ者の少ないイギリスで︑この頃にこの少年が これ此を勉強していたというのは注目すべきことである︒ゲーテを愛読して︑特殊な尊崇の感情をもっていたようで︑ゲーテに対する感情は︑書いたものに諸所に現われている︒十五歳の時に“Thoughtsand Doings”という表題をつけた日記体の手帳を書いていた︒医学校では精励な学生であった︒ゲーテの句の“Wiedasestirn,ohneHast,ohneRast”というのをモットーとしていた︒級友が校庭で遊んでいる時にも顕微鏡にかじりついていて︑﹁頭と顕微鏡の看板﹂
という︑ジョークがいわれたりした︒このような勉強の結果︑人間の毛髪の組織に未知の一層を発見して︑学術論文として発表した︒卒業して ただ直ちに当面したのは︑何より ま先ず生きて行く途の問題であった︒そして機会が彼を海軍に入籍させて︑長航海に旅立たせることになった︒即ち軍艦﹁ラットルスネーク﹂のオーストラリア探検航海で︑博物学の素養を有する次席医官という資格であった︒この際の経緯に つい就ては自伝が語っている︒時に二十一歳である︒﹁ラットルスネーク﹂の遠航の任務は︑イギリスの海上発展︑遠国侵略の基礎行動であって︑当時わが国の近海などにも出没した探検測量船の本格的なものの一つなのである︒一八四六年十二月にプリマスを出帆して︑三年十箇月に及んだもので︑マディラ︑リオ・デ・ジャネイロ︑ケープタウン︑モーリシアスを へ経て︑七箇月かかってシドニーに着き︑そこを基地として四回の沿岸探測航海をしたのであった︒そのうちで主なるものは︑第三次のクイーンズランドとその海岸に なら列んで連続している障壁列島の間の水道の探測作業と︑第四次のクイーンズランドの北端から︑ルイシアード群島︱︱︱ニューギニアの東南の突端から東に連なっている群島︱︱︱に至る海域の測量であった︒同じ頃のイギリスの三大生物学者︑ダーウィン︑フーカー(J.D.Hooker)︑ハックスリが︑ いず何れも軍艦でその訓練を受け︑其がこれ ら等の学者の学界へのスタートとなったことは注目すべきことである︒そしてダーウィンにせよ︑ハックスリにせよ︑この任務が彼等に将来を約束したものであったわけではなく︑共に単純な事情でこの仕事に は嵌め込まれたのであって︑幸運児ということも出来る︒ しか併し当時 なら竝びにその前後にこの種の任務についた若者は少なくなかった はず筈であって︑それ ら等のうちで︑その運命の軌道を無類の強剛さ
171 解 説 と ぬき擢んでた頭脳を働かせて︑学界に おど躍り登ったチャンピオンが かれら彼等なのである︒﹁ラットルスネーク﹂航海中の生活に つい就ては︑自伝のなかに記述がある︒この航海中の日記が先年刊行されているが︑人間味の横溢した極めて珍貴なものである︒彼はこの四箇年の間に数多くの研究をした︒そして人間修業をした︒学術上の研究は もっぱ専ら かいせい海棲動物の形態︑生理に関するものであった︒また自伝にも書いているように︑原始種族と接触する機会を得︑その接触の多くが多くは最も早いものの一つであったので︑文明人との接触によって変化させられ ある或いは失われたそれ等の原態を本来の態で見ることを得た終りの人であったことである︒この事情と明敏な頭脳とが︑彼を土俗学︑人種学の方面に於ても一存在たらしめた︒なおまたこの航海で︑吾々には意外な収穫を彼はしている︒シドニー郊外に住んでいた かじん佳人
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美人︶
ヒーソルン(Heathorn)と婚約をしたのである︒学校生活を終ったばかりの青年医として﹁ラットルスネーク﹂に乗込んで旅出をしたハックスリは︑成熟せんとする学者として帰国した︒科学界は︑帰って来る以前に︑航海先から送られて発表された論文によって︑既に彼を認めていたのである︒帰国一年後にロイアル・ソサイティーの会員に選ばれ︑二年後には生理学のロイアル・メダルを授与された︒ か斯くして学界に多幸に踏み出したのではあったが︑物質的には至って哀れであった︒当時の事情 なら竝びにロンドンで位置を得たまでの事情は︑自伝にその一端が書かれている︒やがてロイアル・カレッジ・オヴ・サイエンス・アンド・テクノロジー︵ロンドン大学の理学部に当る︶の教授となり︑そしてサウスケンジントンのこの学園が彼の生涯の職場となった︒教授として以外の公的の仕事も多く つと勉めた︒多くの学術団体の首脳部に加わり︑ ある或いは首長として働き︑特にロイアル・ソサイティーの幹事として貢献した︒そして政府の教育や水産の方面の仕事にも参加した︒ハックスリはロンドンに留まって︑あまり遠く離れなかった︒保養のためにスイスに行き︑公職や学界の用務で国内の諸地方に出かけた位のものであった︒ただ一八七六年の合衆国訪問が一つの例外であった︒この旅行では︑真理の使徒として︑各方面の大歓待をうけた︒一八八三年にロイアル・ソサイティーの会頭に推され︑健康の故を以て任期満了以前に引退し︑一八八五年に︑三十一箇年の政府のもとでの公職から退いた︒そして間もなく南サレーに引込んで︑白堊地の丘に居を定めて︑園圃栽培に暮す生活を始めたのであったが︑生来の意気と闘志は︑彼を静かにばかりはして置かなかった︒その一つ事件がグラッドストーンとの創生記に於ける創造の物語の根拠に つい就ての論争であった︒一八九四年にロイアル・ソサイティーからダーウィン・メダルを授与され︑翌年の春早くインフルエンザに罹った︒五月になって庭を歩むほどに かいふく恢復したのであったが︑腎臓と心臓の しょうがい障碍が起きて来て︑六月二十九日に永眠した︒
ハックスリの学は形態学︑比較解剖学を中心として︑広く種々の部門に わた亘り︑化石脊推動物学に関しても業績が多く︑地質学会の会頭も務めた︒主要な業績が“ScientificMemoirs”として編集されている︒十九世の中葉︑ヨーロッパに於ける近代生物学の こんりゅう建立時代に於けるその育て親の一人である︒この方面
173 解 説 に関しては︑ここでは詳しくは書かない︒なおまた学術界に於けるいわば公人としての功績もまた大きいものがあった︒学会︑協会︑委員会等の幹部 ある或いは首長として独自の才幹を示した︒ しこう而してハックスリのなお他の大きい一面が︑いわば社会教育者としての永年の活動︑奪闘に存する︒自伝の一節がこの仕事に関する自身の心境をいい表わしている︒生涯を通じて決定的に見解に置いて来た対象として︑﹃自分の能力の最上に つと勉めて自然に関する知識を増進すること﹄﹃生命の すべ總ての問題に科学的な研究方法の適用を促進すること﹄であったといい︑そして﹃人類の苦悩には︑思考の誠実と行為の誠実︑⁝⁝︹虚節を は剥ぎ去って︺決然と世界の装貌をすること以外に︑それを軽減さする みち途はないという⁝⁝心証に於て な為すことである﹄と自伝でいっている︒即ち科学的世界観の人類救濟の途としての唱道である︒ここにハックスリの偉大な︑後世に生きる一面があり︑人類の教師といわれる ゆえん所以である︒続いて自伝のうちに︑この方面に奮闘した局面に つい就て書いている︒それは︑﹃科学の普及化﹄﹃科学教育の発達と普及化﹄﹃進化に関する闘争と小さい争いの切りのない連続﹄﹃牧師精神︑教権主義︹科学の大害たる︺に対する疲れざる反抗﹄としてある︒右の如き信念と右の如き行動は︑大衆の前に現われること︑言論界に乗出すことである︒口とペンとを武器として立たねばならぬ仕事である︒ハックスリは年少より書を読み︑文学を理解し︑其を愛し︑文筆︑修辞に秀でていた︒ しか併し辯舌に自信をもたなかった︒それで其に極めて臆病であった︒このことは自伝中にも書かれ︑その他の文章中にもしばしば書いている︒ しか併しその情熱と誠意が其を克服して︑彼を大なる講演者たらしめた︒そして数々の名講演を行なった︒それ ら等の主要なものは文に書き更めて発