説 担 当
、‑‑‑'口J
本 で あ ろ フと 思 わ れ る
﹃ 一
巻本﹄と﹃三巻本﹂とは︑もと一つのテキストであった︒おそら く
﹃ 三 巻本
﹂から抄出改訂されて﹃
一巻
本
﹄ができたのであろう︒
︹ハリソン説︺
川一七九年に支婁迦識によって現在高麗版に収められている﹃三巻本﹄
の基になったものが訳された︒それは響喰品第四の途中までで︑経の初
めにある因縁を語る部分が簡略で︑偏頒であるべき部分は長行であっ
︐
‑ ︒
ナ九
ω
次いで二O
八年に支婁迦識の門下生︑おそらく支亮によって右の改訂が行われ︑高麗版の残りの最後までが訳された︒そして因縁の部分が詳
しくなり︑
偏頒であるべきところは偶頒に書き改められた︒これが現
在︑宋・元・明三版に収められている
﹁ 三 巻本
﹄である︒ここに二
O
八年というのは﹃般舟三昧経記﹄の建安十三年に校定したという記事にも
とづくものであり︑それが支亮によって改訂されたとするのは支敏度の
﹃合首傍巌経記﹂に﹁支亮は学を識に資け:::﹂とあるのによる︒
ω
四│五世紀の頃に宋・元・明三版に収録する﹃三巻本﹄の抄本が作られた︒これが現在高麗版にのみ存する﹃
一巻
本
﹂
︹末木文美士説︺
であ
る︒
ハリソン説を大筋において認め︑
﹃ 一
巻本
﹂は必ずしも党本を見てい
ない中国での改変と見る︒
﹃三
巻本
﹂と﹁
一巻
本
﹄との関係についての長い議論の歴史も最近に
なってようやく﹃三巻本﹂の方が古くて︑支婁迦識の訳した経であると
の説が有力となりハリソン氏の研究によって決定打が放たれた感があ
以上の説をまとめてみると次の論点に絞られるであろう︒ る
﹃ 一
巻本﹂を古いと見る説の根拠
1.
経典というものは漸次︑増広されていくのが
一般
的な傾向である︒
2.空の思想が﹃三巻本﹄において顕著であり︑
﹁ 一
巻本﹂はそれ程で
もない︒たとえば
﹁ 三
巻本﹂に﹁得空三昧﹂(大正蔵十三︑九
O
五b)とあるところを
﹃ 一
巻本﹄
では
﹁得 是三 昧﹂ (同
︑
八九九b)として未
だ般舟三昧が空の境地を得た三昧であると言っていないこと︒とくに空
思想を強調する
﹃ 一
ニ巻 本
﹂の﹁無著品﹂は﹁
一巻
本
﹂には全く欠けてい
3 る
.
﹁ 三
巻本﹂に
其人用ν念ν空放︒便逮
‑ 一 即逮得無所従生法楽↓
一 一 得阿惟越致↓
(同
︑九
O
五b)
と空や無生法忍を説くところが
﹁ 一
巻本
﹂で は欠 けて いる
︒
4.
﹃三
巻本
﹂に
行二菩薩道↓来
一 ニ ニ曽離摩詞街↓逮
一 一 得摩詞僧那僧浬極畷大道↓
(問
︑九
O
四a )
当レ索
‑ 一 摩詞術↓
(向
︑九
O
八C)比丘尼求
一 一 一ニ二レ摩詞街三抜致是三昧学守者︒当謙敬↓不当
一 嫉
妬
↓
不レ得
‑ 一 瞬
悉
↓
(問
︑九
一
O a )
など﹁摩詞街﹂の語は
﹃ 三
巻本﹄にはしばしば出ているが
﹃ 一
巻本
﹂で
現代における法然浄土教思想信仰の解明 は全く見当たらない︒このことは
﹃ 一 巻本
﹄が未だ大乗の意識に乏しか
った
ため
であ
る︒
以上が﹃
一巻
本﹄
の方を古いとする学者たちの論拠とするところであ
るが︑反対に
﹃ 三
巻本﹄を古いとする学者の論拠は次の通りである︒
1.
﹃一
巻本
﹄には空の思想が稀薄であるというが︑﹁行品﹂の初めの三
字備は︑有想︑無想をもって代表せられるあらゆる対立概念を超克する
ことを目的として説かれたもので︑空の思想が根底に流れていると見る
べきである︒また﹁行品﹂の終わりに鏡と影像の嘗喰が説かれている
が︑その影像は中より出ずるものでもなく︑外より入り来ったものでも
ない︒その様に仏は﹁無所従来﹂であり﹁亦無所至﹂(大正蔵十三︑
/¥
九九b)であるというのは︿般若経﹀に説く空の思想と全く異なるとこ
ろが
ない
︒
2.
﹁ 三
巻本﹂には﹁泥沼﹂﹁恒辺沙﹂
﹁釈 迦文
﹂ ﹁
閲文﹂﹁阿惟三仏﹂﹁但
薩阿掲阿羅詞三耶三仏
﹂ ﹁
阿須
倫﹂
﹁ 真 陀羅
﹂ ﹁
摩喉羅﹂などの語を用い
ているが︑これらの語は支婁迦識訳﹃道行般若経﹄の訳語と一
致す
る︒
しかるに
﹃ 一
巻本
﹄
では
﹁浬 繋﹂ (問
︑
八九九c・九
O
二a )
﹁夜
叉﹂
(問
︑九
O
一C)なる新訳語を使ってい
る︒
﹁ 浬
繋
﹂の
語は東晋時代以後
に用いられるようになった語である︒
以上の論拠によると︑もはや
﹃ 一
巻本﹄を古いと見る説は成り立たな
くなる︒加うるにハリソン氏の詳しい研究によって︿
般舟
三昧経﹀諸漢
訳の成立がスムーズに解明できよう︒
第二章
初期阿弥陀仏経由(の成立
浄土宗総合研究所研究成果報告書ーー
四︑︿般舟三昧経﹀諸本の成立次第
現存する︿般舟三昧経﹀
諸本
の中
︑
﹃大集経賢護分﹄と﹃チベット訳﹂
とは︑訳経史の上から言っても︑内容から言っても最も後期の展開を示
すテキストであることは明らかであるが︑どちらかと言えば﹁チベット
訳﹂の方が章区分が細かく︑新たな要素が加わっているところから﹁チ
ペット訳﹂を最も新しいものと見るのが妥当であろう︒
問題は﹃抜阪菩薩経﹂である︒この経は前四品のみの翻訳で完訳でな
いところから︑この形を原初形態と見て望月信亨氏は
抜阪経←一巻本←三巻本←賢護分
と発展していったとの説を出された︒また静谷正雄氏も﹃抜肢菩薩経﹄
を最古の経とする説を述べられた︒しかしその根拠は明らかにされてい
戸ih︑ao+匂し
右の説に対して色井秀譲氏は
一巻本←三巻本←抜披経←賢護分
の成立順序を提示された︒その理由は︑﹃抜阪経﹄は前四品のみの訳で
ある
が︑
その部分を他の諸本と比較すると﹃三巻本﹄よりもむしろ﹁賢
護分﹂
の方
に近
く︑
﹁一
巻本
﹂とは最も離れていると判定された結果で
ホり ヲ令
︒
経録を見るに﹃抜肢経﹂はすでに道安も知っていて﹁出三蔵記集﹂巻
一一に収められている﹁新集安公古異経録﹂に
披陀菩薩経一巻
諒一
時 (大 正蔵 五五
︑ 一 五 b)
とあるから﹃道安録﹂編纂の晋の康寧二年︑すなわち三七四年以前にす
でにあったことは確実である︒
ハリソン氏によれば経の終わり方が唐突であることから︑原テキスト
の途中まで訳して未完に終わっているのではないかと思われること︒そ
の語法は古い︒(たとえば泥沼︑須摩提などの語を用いている︒)このこ
とから支婁迦識訳本(ハリソン氏のいうA
版)
と後世の改訂版
(B
版)
との中間の形をもった原典に基づいたと思われるとして三世紀までに訳
出されたと言う︒
梶山雄一氏はこの経の成立について新しい見解を発表された︒それは
﹃抜阪経﹄
に﹁
法身
﹂(
大正
蔵十
三︑
九一
一
一a
H)
なる語がある︒この語
に対応するのは﹃三巻本﹂では﹁問事口問﹂第一に﹁経蔵身﹂(問︑九
O
四
am )
とあ
り︑
﹃賢護分﹂
では
﹁一
切法
﹂(
問︑
八七四
aM
m)
とあ
る︒
この語のサンスクリット語は
ay R5
白l
wM
Eであって︑その用例は党文
の﹃八千頒般若経﹄やその漢訳に見られる︒すなわち﹃道行般若経﹄巻
九では﹁仏経身﹂(大正蔵八︑四六八C)﹃
大明度経
﹂巻五では﹁仏経
等﹂
﹁問
︑五
O
二C)︑﹃小品般若経﹄巻九では﹁諸仏法蔵﹂(同︑五七七C)と訳されている︒この場合︑未だ法身・色身という仏陀の二身説は
成立していなかったので︑二身説の法身ではなくて︑仏陀の﹁教えの集
ム巴という意味に用いられているのである︒この語が色身に対する法身
として漢訳された最初は︑鳩摩羅什訳の﹃
小品般若経
﹂においてであ
り
諸仏如来不
ν応下以ニ
色 身 一見M諸仏知来皆是法身故︒(問︑五八四 b
とある︒焚文の﹃八千頒般若経﹂では右の文は第三十一章﹁ダルモ1ド
ガタ菩薩品﹂にあり︑﹃八千頒般若経﹂
としては原初形態に属する部分
ではなくて後に増補されたと思われる部分であるが︑しかし支婁迦識訳
の﹃道行般若経﹂には﹁無掲笠口薩品﹂として存在するから︑かなり古
い成立であることには間違いない︒龍樹は﹁ラトナl
ヴアリ
l﹄
克己
ー
ロ雪 山口 )第 三章
︑第十て第十三備においても法身と色身とについて説
いている︒このことから梶山氏は﹃八千頒般若経﹄における色身・法身
の用語は二
OO
年前後に成立していたと考えなくてはならない︑と結んでおられる︒このことから﹃
抜肢経
﹄に
a g
ggE
苫 の
語を﹁法身﹂
と訳している事実は﹃抜破経﹂の成立が﹃三巻本﹄よりも遅れることは
明らかであると論じられた︒
以上のことからすると︑﹃
抜肢経
﹄が最古であるとの説は崩壊せざる
を得 ない
︒
最後に党文原典についてハリソン氏はへルンレ蒐集の断簡を諸本と比
較し
て︑
﹁賢護分﹄の方に増広が認められるとして﹁サンスクリット本﹄
を
﹃賢 護
分﹂の前に位置づけた︒
結論として諸学者の研究成果を総合すると
︿般 舟三
昧経﹀諸本の成立
順序は次のごとくとなるであろう︒
三巻本(支婁
迦識訳で高麗版)←三巻本の改訂本(宋
・元・明三 版)←抜肢菩薩経←一巻本←サンスクリット本←賢護分←チベット
訳
五︑︿般舟三味経﹀と︿八千頒般若経﹀
大乗経典では最初期の成立の一つと考えられている︿八千頒般若経﹀
の中に︿般舟三昧経﹀を予想すると思われる語句や思想がある︒たとえ
ば最古の漢訳である﹃道行般若経﹂によって示すと﹁薩陀波倫菩薩品﹂
第二十八に﹁薩陀波倫菩薩は般若波羅蜜の教えを聞いて見十方諸仏三昧
四七二a・四七三C)
とか︑薩陀波倫菩薩は仏の
中の深事の法を聞いて六万の三昧を得たという中に︑﹁悉見諸仏三
昧 ﹂
(問
︑四
七四
a )
なる名があり︑﹁曇無掲菩薩品﹂第二十九にも﹁悉念仏
三昧﹂(問︑四七六
a )
なる三昧が出ている
︒その他︑﹁薩陀波倫菩薩
い ず こ よ い ず こ
品﹂に薩陀波倫菩薩が﹁仏は何所従り来り︑去りて何所へ去るのか﹂の を得た﹂(大正蔵八︑
問いに対して︑曇無掲菩薩は﹁仏は従来する所無く︑去りても亦至る所
無し﹂
( 問 ︑
と答えているところは﹃
般舟三昧経
﹂ ﹁ 行品﹂に四七三C)
浄水や磨鏡に映し出された自分の影を警えて︑﹁その影は内より出て来
るものでもなく︑外より入り来るものでもない︒その様に仏は何所より
従来する所無く︑亦何所へ至る所も無い﹂(大正蔵十三︑九
O
五C)と 説いているのと軌を
一にする︒これと同様な説は﹃
般舟三昧経
﹄
﹁問
事
品﹂第一にも︑諸仏が悉く前に在って立つことを幻師が自在に化作する
のに響えて﹁仏は従来する所無く︑また従去する所も無し﹂(問︑九
O
現代における法然浄土教思想信仰の解明
第 章
初期阿弥陀仏経由(の成立