*나라우권(ナ・ラウクォン)。高麗大學校講師。
**身延山大学仏教学部准教授。
これを受けて佛敎と道敎の次第について論ずるために「佛道先後篇第三」・
「釋李師資篇第四」を著述したのである。二篇において佛敎と道敎を比較 する方式は、涅槃と長生不死、空と無などの敎理的側面、或いは夷夏問題 などとは距離が遠い」(Ⅲの 3 ))とまで言及するのである。佛陀と老子の うち、どちらがより偉人かという神話(myth)的接近以上に、空と無(或 いは道)のような理論的な側面からの比較が重要であり、それは「氣爲道 本篇第七」「出道僞謬篇第十」などから發見できると考えられる。道家・
道敎と佛敎との間の優劣を論じながら、この部分についての最小限の言及 もなしに內/外敎、先後の問題のみに言及することは、佛敎護敎論者以外 の讀者には物足りないと感じざるを得ないのである。しかも、南朝で活躍 した顧歡の『夷夏論』に記載される主要な主題の中の一つが老子化胡論爭 である。發表者は、「 3 )法琳の佛道次第に對する立場」で、この部分を 論義していながら、「夷夏問題などとは距離が遠い」と主張したことには、
議論の餘地があると考えられる。
b.該當著作物が著された時代的背景を具体的に考察すべきである。筆 者は道安と法琳の著作が「ともに佛敎に對する非難と廢佛、或いは抑佛と いう政治的背景下において、佛敎を擁護するための目的によって著述され た護敎文獻である」(I)、「前者は南北朝時期の最後の護敎文獻であって、
北周武帝の廢佛(574年)に反對して著述されたのであり、後者は唐太宗 の三敎次序の問題と道士李仲卿と劉進喜が唐太宗に上疏した『十異九迷論』
と『顯正論』に對する反論などのために著述されたのである」(I)、「武帝 は廢佛(574年)を斷行するに先立って三敎論衡の場を設けた。……唐に おいては、太史令であった傅奕が太宗に國家的、經濟的、敎理的側面にお いて佛敎を非難する「廢佛十一詔」を上疏したのであり、これにより佛道 論爭(佛道之爭)は再點火されたのである」(I)、「「歸宗顯本篇第一」に おいて「三敎がたとえ異なると雖も善を勸奬する理致は同じで、進んでゆ くみちがたとえ異なると雖も理致が和合することにおいては同じである」
という東都逸俊童子の質問から、當時、三敎を合一しようとする武帝の目 的と宗敎政策を確認することができる」(Ⅲの 2 ))と記述したのである。
ところが、北周武帝と初唐高祖(及び太宗)の時期に、なぜ佛道論爭が惹 き起こされたかについての說明がないから、兩皇帝に對して抑佛を强制し た頑迷な君主と誤解する傾向が發生することになる。
周知のように、これらの時期は揚子江中下流の華夏族と以北の異民族と の間の葛藤を縫合して新たな統合を準備していた時期であった。實際、北 魏/北周/隋/唐を率いる關隴集團の代表的人物たち(北周末期の武帝と 唐初期の高祖と太宗)は、南北朝間の政治經濟及び思想文化的統合を圖っ たのであり、さらに中國を超えた帝國の建設という目標に相當部分成功し たのである。中國內部の思想的統一と、經濟的軍事的備蓄量の擴大が絶對 的に必要であったが、彼らは當時の民心と、國富の巨大な部分を占めてい た佛敎側に對し、單純に暴力的に壓迫を加える方式を使用してはいなかっ たのである。暴力に點綴された抑壓は、北魏太武帝の失敗から明らかなよ うに、民心は統治者の意圖と異なり、離反され抵抗する傾向をみせるから である。發表者は、「『二敎論』は南朝護敎文獻と異なり、政治的背景下に 佛敎の存廢危機から著述されたのであり」(Ⅱの 2 )、「P.2587の「上表文」
を通して廢佛という危機から『二敎論』が著述されたということを知るこ とができる」(Ⅱの 2 )としたのである。しかしながら、『二敎論』の著作 時期である570-571年は、北周武帝の叔父である宇文護が親政をしていた 時期であった。宇文護は實權を握っては、557年に孝閔帝を、560年に明帝 を殺害し、その權勢は天を衝くほどであり、當時、武帝は、その威勢下に 靜かに命をつなぐことを心配する程度に過ぎなかったのである。そのよう な宇文護が誰よりも佛敎に友好的な人物であった。つまり、少なくとも 572年 3 月に宇文護を殺して、北周武帝の親政が始まった以降であればと もかく、少なくとも『二敎論』の著作時期までは佛敎の存廢危機を取り上 げて論じることは行き過ぎである。武帝が三敎の地位を儒敎―道敎―佛敎 の順に判別した573年12月まで、少なくとも 6 回以上の理論的論爭を進行
したのであり、そのすべてが親佛論者である宇文護の親政時期であった點 から推して、佛敎の存廢危機から著述されたというのは首肯し難いのであ る。まさしくこのような脈絡で、P.2587の「上表文」を廢佛論に對する批 判であると斷定する理解は行き過ぎであると考えられる。
むしろ、北周武帝と唐初期は、新しい時代に備えるため、思想界の合意 を引き出す合理的な論義過程が行なわれた時期であったと解釋することも できるであろう。過度に肥大化した佛敎と道敎勢力の規模を縮小して、同 時に僧侶と道士を農民に編入して、新しい帝國を準備したものと理解する こともできるであろう。その過程で、どうしても思想界の主流でありなが ら權力の核心により近かった佛敎に對して、多樣な調節の聲が出てきたの であろうし、佛敎側はこれに積極的に對應したものと理解した方が良いで あろう。この問題を理解するためには、護敎論に関するの著作を考察する ことを超えて、佛敎に批判的な著作に對する硏究が必要である。
c.佛敎に批判的な資料に對する檢討が必要である。道安と法琳によっ て批判を受ける反佛論者の資料とともに、護敎論者の著作の中でも、自ら を反省する部分がないかをより纖細に檢討することが必要である。最も先 に傅奕の廢佛十一詔を窮究することが必要である。さらに衛元嵩の文章、
李仲卿の『十異九迷論』、劉進喜の『顯正論』などは殘る資料が疏略であ るため、全貌を把握し難いが、護敎論者の批判する文章を逆に考察するこ とにより、反佛論者たちの問題意識を具体化する過程が必要である。その 過程で、護敎論者の自己省察及び客觀的な姿が現れるであろう。發表者が 言及した通り、法琳の弟子として知られる李師政が師匠と異なり、三敎合 一の立場から『內德論』を著述したこと(Ⅲの 2 )も、そのような脈絡で 理解することができるであろう。
以上において道佛論爭を硏究するために備えるべき部分について申し上 げた。筆者もまたこの問題を解決しているわけではなく、また、相當部分
はわたくしのような道敎硏究者たちの役目でもあるために、恥ずかしい氣 持ちが上回っている。しかし、ともに考えて一緖に探索しようという意圖 から、發表者に申し上げる言葉であるため、ご了承願いたい。
第二に、敦煌寫本と關連した部分である。詳細に資料を記述して、その 全貌が分かるようにしていただいた點についてはまず感謝申し上げたい。
ところが、問題は、この部分が『大藏經』の版本と比較して、どのような 差別性があるかが現れていないのである。發表者自ら敦煌寫本を中心とし て硏究しようとするとしたのであるから、旣存の硏究のどのような難點が 解消されたかについて明確に示していただきたい1。
第三に、神不滅論の論義と關連して朴海鐺(1998)と伊藤隆壽(1986, 218)の見解にしたがって如來藏系文獻に引き繼がれたであろうとしたの であるが、斷滅と常住をすべて批判する吉藏などの不常不斷論に總合され たとみる觀點もまた存在する。これに對する發表者の意見を求める。
その他、細々とした翻譯、或いは表現上の問題は、いくつかの異見があ ると考えられるため2、よくご檢討いただいて、より良い論文として完成 されますことを期待する。
【注】
1 Ⅱの 1 )において發表者は、「( 1 )現存テキスト」、「( 2 )敦煌寫本」とし て見出しをつけたのである。敦煌寫本もまた現存資料であることを否定で きないため、「大藏經資料」と「敦煌寫本」のように見出しを修正すること もご檢討いただきたい。
見出しと關連してもう一つ檢討すべき部分がある。
Ⅲ章が「『二敎論』と『辯正論』の共通點」であるのに對して、その小見 出しは不適切な部分がある。「 1 )『二敎論』と『辯正論』の敍述形式」は 無難であるが、「 2 )法琳の三敎に對する立場」と「 3 )法琳の佛道次第に