本研究では明治期に行われた教育改革に対して、地方の視点からその実態を考察した。
明治政府が目指した国民統合が地方においてどのように進められたのかという点に加えて、
その過程にある地域の教育に対する思想や働きかけに関してもその実態を明らかにしてき た。本章ではこれらの課題について、現時点での研究の成果を整理、再構成して論文のま とめとする。
(ア)青森県における地域の教育欲求
主に第2章第4 節でも確認したが、この地域の旧士族層や教師以外の人々が教育に対す る熱意を有していたのかという部分には疑問が残る。和徳小学校の事例をみても、学校新 築に対する反対運動が行われる等、自分たちからの働きかけによって教育を発展させよう という動きがみえてこない。唯一特徴的だったのが、学制期の寄付金の多くを商人層が占 めていたという点である。この地域の教育欲求を探る上で、商人層の教育に対する思想を 探ることが新たな視点として有効だと思われる。しかし、商人層が思想を記している資料 が見つかっていないため、商人層が明治初期において教育に対してどのような思想をもっ ていたのかは分からない。士族層以外に、商人層と教育の関わり方を明らかにすることが 今後の大きな課題だと考えている。
加えて、明治 20 年代以降の学校行事には積極的に参加しているという特徴が見られた。
この時期には学校を主体として多くの啓蒙活動や学事奨励活動が行われている。地域の民 衆がこれらの行事に積極的に参加している様子が資料からは読み取れる。確かに明治20年 代後半には就学率の向上も見られるが、これは学校主体の啓蒙活動と政府による働きかけ によるものである。地域住民が教育に求めた思想が見えてこない限りは、就学率が上昇し たからといっても教育熱があったと評価することはできない。また、本研究では、青森県 の人々が国民統合政策に組み込まれていく過程を明らかにしようと試みた。この地域の 人々は積極的に地域の学校教育と結び付き、結果として無意識のうちに国民統合政策に組 み込まれていったと評価できる。このことからも、この地域の人々は学校運営資金などの 面で学校運営自体には関わっているものの、学校の在り方を学区民が主導となって模索す るような特色は見えてこなかった。
その一方で地域の名望家をはじめとした知識層や学校教員に関しては、公教育に対して 地域の発展を期待する思いを有していたことが、1874(明治7)年から1875(明治8)年 にかけて作成された献策や、1889(明治22)年に作成された『自他楽会結成資料』などか
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ら読み取れた。そして、彼らを突き動かす原動力となった意識が「後進性の打破」だった といえるだろう。それは青森県をはじめとした東北地方の知識層が共通して抱いていた認 識だと思われる。東北は戊辰戦争で敗れ、明治時代が始まるにあたって、ある意味マイナ スからのスタートを強いられている。後進感を抱いた人々の中には政界にその打破の可能 性を見出し、自由民権運動に関わっていく者もいたのだろう。しかし本研究では、公教育 による後進性や旧習の打破を模索した人々が存在したことを明らかにすることが出来た。
後進性の打破や地域の開明を行うためには、学校を設立して広く一般に行う教育が有効だ と彼らは考えたのだろう。それが学制期に献策が盛んに出されている理由だと思われる。
このことからも、明治初期のこの地域の教育をめぐる動きの中には、後進性の打破という 共通する意識があったと思われる。確かに学制は地域の実情に即していないという弱点が あったが、だからこそ各地域において教育の模索が行われ得たとも考えられる。そして、
その模索があったからこそ、働きかけの背景にある知識層の思いを明らかにすることが出 来た。このような後進性と公教育の関係性こそ、この地域と明治初期の学校教育の結び付 きを明らかにする手掛かりになると考えている。
そして、後進性の打破は時代が進み、学校教育がある程度定着した後も青森県の教師の 中に生き続けたのではないだろうか。明治20年代には、学校が主体となって直接民衆の啓 蒙活動に乗り出している。時には学校を舞台として啓蒙活動を行い、父兄会なども行うよ うになった。教師たちは、子どもたちに限らずに父兄にも働きかけている。もちろん就学 率を向上させるという目先の目標はあったと思われる。しかし、単純に就学率を挙げるこ とのみを目的とするのではなく、地域の開明、発展も彼らの目的だったと私は考えている。
例えば、和徳小学校の教師が主体となって結成された自他楽会は図書館を設置することに よって民衆の知力の発達を目指していたことが『自他楽会規約』から読み取れる。また、
学校設置に関する反対運動が行われたことに関しては、学校が新築できずに地域の開明が 遅れることは学区の不幸だと考えていたことが資料から明らかになっている。当時の地域 における知識層がその多くを占めていた教師達は、地域の開明のために学校教育の推進や 就学率の向上に向けて働きかけていたといえる。その結果就学率も向上し、多くの民衆が 学校教育を受けることになった。また父兄や学区民も学校と直接結び付くこととなった。
それは後に政府の国民統合の過程に組み込まれていく。しかし、国民統合とは別の意図の 下、この地の後進意識と結び付きながら、その打開策として教育に可能性を見出した人々 が青森県には確かに存在していたと考えられる。
(イ)教育制度からみた国民統合の実態
この地域における学校教育の普及という側面から見た際の、政府による中央集権化の実 態についても考察する。教育の面から国民統合政策をみると、地域からの働きかけがなけ
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れば決して順調に進むことはなかったと考えられる。政府は日本全国の教育行政を一手に 掌握することで、人々を教化し、国民統合を成し遂げようとしていた。しかし、その実態 は全くといっていいほど地域の実情とは遊離していた。それは学制期における青森県の実 態を考察したことでも明らかになった。だからこそ、学校の普及には、青森県でも地域独 自の働きかけが重要な役割を果たしていたと考えられる。学制の記述をもとにして地域に 適応した学校教育を実現させていく過程を見ていくと、決して画期的な施策がだされてい たとは言い切れない。しかし、地域の実情に合わせるために、時には政府に上申書を出す などの働きかけを行っており、地方の側から地域の実情に適応した学校を設置し、就学率 を向上させることに努めている。それは学田による学校経費の捻出や、積雪や広大な土地 という青森の風土に適応した教則の作製の許可を求めていることからも明らかである。そ れに加えて、明治20年代には学校を主体として学区民に就学率向上のための働きかけを行 っている。その結果として学校という存在と地域の民衆という存在が接近していくことに なる。それは当時の新聞記事の内容からも読み取ることが出来た。教育勅語が出されて以 降、政府は学校現場の儀式などを通して天皇制イデオロギーを民衆に注入し、国民統合を 成し遂げようとしている。しかし、その際には学校という場が国民と密接に結び付いてい る必要がある。その時になると、学校によって地域住民と学校現場の間につくられた結び つきは、政府にとっては格好の利用対象となっているのである。これまでのような「政府 が学校現場を利用して国民統合、天皇制イデオロギーの注入を行った」という政府の視点 からみた評価に止まってはならないと感じた。その下には地域の学校による下地作りが存 在していたのだということがこの研究を通して明らかになった。
(ウ)地域と明治期教育の関係性
この地域における明治期教育政策は主に二つのベクトルの下で進められたと考えること が出来る。一つは政府による、国民統合を推し進めようというベクトルである。そしても う一つがこの地域に見られる後進性の打破や、地域の開明を目指すベクトルである。この 二つのベクトルは決して同じ目的を達成しようとしていたわけではない。しかし、その目 的の達成のための手段が学校教育の普及だという点は共通していた。その結果として、地 域の知識層や教師は、後進性の打破や地域の開明のために、政府が推し進めた学校普及の 政策を利用した。そして自分たちからも学校普及のために地域の実情に応じた働きかけを 行っている。一方で政府は、地域の学校の主体的な働きかけによって生みだされた、学校 と地域の結びつきを国民統合のために利用している。それはこの地域における明治20年代 以降の学校儀式の様子にも見ることができる。地域と学校が結びついていたからこそ、政 府の政策も十分な効果を発揮できたと考えられる。この二つのベクトルは大本の目的は異 なっており、決して同じ方向を向いていたとはいえない。しかし、それぞれの目的を達成 するための過程で互いを利用しあっていたと評価することができる。結果として国民統合