平成15年に茨城県神栖市で,有機ヒ素化合物であるジフェニルアルシン酸(DPAA)による 環境汚染に起因すると考えられる健康被害が確認された.このため,DPAA 等の安全性に関 する基礎データを集積することを目的として,動物実験を含む基礎研究を実施してきたとこ ろである.この度,毒性試験の結果等について取りまとめたので報告する.
【DPAAの体内動態】
DPAAの体内動態は14C標識DPAAを被験物質として放射能を指標に検討した.
吸収
DPAAをラットに経口投与した結果,投与したDPAAの約8割が消化管から吸収され,経口 吸収性は比較的高く,性差はないことが示唆された(D-1,D-3).
経皮的な吸収に関しては,1000 mg/kg/dayという高用量での投与ながら(A-4),DPAAに特徴 的な毒性作用(黄色尿および肝臓の腫大など)が認められたことから,DPAA は経皮吸収さ れることが示唆された.
分布
ラットにおいて,吸収されたDPAAは全身諸器官に分布し,特に腎臓に高い割合で分布し,
次いで血液,骨格筋,小腸,肝臓および皮膚に分布した(D-2,D-8).また,分布速度は緩や かながら,中枢・末梢神経へも分布していた.なお,中枢神経では,大脳,小脳,延髄,視 神経にほぼ均等に分布(D-9)していたことから,中枢神経内での部位特異性はないものと考 えられる.分布したDPAAはこれらの器官から次第に消失していくが,比較的,中枢・末梢 神経および皮膚からの消失は緩やか(D-2,D-8)で,詳細は不明ながらDPAAは中枢・末梢 神経および皮膚に長く留まる傾向が認められた.妊娠ラットを用い,DPAA の胎児への移行 性について検討(D-5)した結果,DPAAの胎児への分布の割合は低く,DPAAの胎児への移 行は胎盤により制限されていることが示唆された.
ラット新生児(4日齢)を用いてDPAAの体内分布を検討した結果,成獣ラット(8週齢)で は腎臓に最も高い割合で分布(D-2)したのに対し,新生児ラットでは血液および肝臓に高い 割合で分布(D-7)した.ラットでは腎糸球体の形成は生後8〜14日と考えられている.従っ て,4 日齢の新生児ラットでは腎臓からの排泄機能が未熟のため,腎臓ではなく血液や肝臓 に分布したものと推察される.
血液中ではその多くが血球および血漿蛋白と結合していると思われる(D-2,D-10,D-11).
ヒトおよびラット血液を用いたin vitro試験(D-10)では,添加したDPAAの約2割が血球成 分と結合し,種差は認められなかった.さらに,ヒトおよびラット血漿を用いたin vitro試験
(D-11)では,添加したDPAAの約6割が血漿蛋白と結合しており,種差は認められなかっ た.ヒト血漿蛋白においては約6割がアルブミン(HSA)に,約1割がα1-酸性糖蛋白(α1-AGP)
に結合していた.
代謝
ヒトおよびラットの肝ミクロソーム・肝細胞を用いた in vitro 代謝試験(D-4)では,DPAA はいずれにおいても代謝を受けず,種差は認められなかった.また,91日間反復投与したラ ットの肝薬物代謝酵素を測定(A-2,D-12)した結果,DPAAはいずれの薬物代謝酵素も誘導 しないことが明らかとなった.
排泄
DPAAの排泄経路は,ラットでは主に尿中排泄と胆汁排泄(D-3)であった.また,経口投与 後24時間までに,投与したDPAAの約8割が尿中,糞中に排泄されており,その排泄は比較 的速やかであると考えられる.経口および静脈内投与後168時間までに,投与したDPAAは ほぼ完全に尿中,糞中に排泄されたが,前述(D-2,D-8)したように微量のDPAAは中枢・
末梢神経および皮膚に長く留まる傾向が認められている.妊娠動物の乳汁も 1つの排泄経路 と考えられるが,ラットを用いた乳汁移行性試験(D-6)の結果によると,DPAAは特に乳汁 中に排泄されやすい物質ではなかった.
【DPAAの一般毒性】
DPAAの毒性プロファイルを明らかにするため,ラットを用いて28日間および91日間反復 投与毒性試験(A-1,A-2)を実施した.投与経路として,ヒトが曝露される可能性の高い経 口投与を採用した.各試験における投与用量を以下に示す.
(単位:mg/kg/day)
群 28日間
反復投与毒性試験
91日間 反復投与毒性試験
対照 0 0
低用量 0.3 0.1
中間用量-1 1.2 0.3
中間用量-2 - 0.8
高用量 5.0 2.0
その結果,DPAA 投与に起因した神経毒性,血液毒性,肝毒性,その他が認められたので,
毒性ごとに他の試験結果と併せて総括する.
神経毒性
ラット28日間反復投与毒性試験(A-1)では5.0 mg/kg/dayの用量,ラット91日間反復投与 毒性試験(A-2)では2.0 mg/kg/dayの用量で振戦,痙攣,易刺激性,流涎などが発現した.
これらの変化は神経系への作用により発現すると考えられていることから,DPAA は中枢・
末梢神経系に影響を及ぼすものと推察される.また,これらの変化はある程度DPAAによる
投与処置が進んだ後に発現しており,中枢・末梢神経にDPAAが蓄積することで発現した可 能性が高い.前述の体内動態試験(D-2,D-8)においてもDPAAは中枢・末梢神経に残留傾 向にあることが指摘されており,上述した説を裏付けるものと考えられる.
血液毒性
ラット28日間反復投与毒性試験(A-1)では1.2 mg/kg/day以上の用量,ラット91日間反復 投与毒性試験(A-2)では2.0 mg/kg/dayの用量で赤血球数,ヘモグロビン濃度およびヘマト クリット値の低下などの貧血傾向が認められた.
通常,鉄欠乏性貧血または溶血性貧血では,血液の酸素運搬能低下に対する代償として網赤 血球数が上昇するが,28日間反復投与毒性試験(A-1)では上昇せず,むしろ低下していた.
赤血球の生産場所である骨髄では造血細胞が減少していたことから,赤血球の骨髄における 分化・成熟段階にDPAAが影響を及ぼしている可能性がある.前述のin vitro血球移行性試験
(D-10)において,DPAA は血球成分に移行することが明らかとなっており,DPAA は血球
(赤血球)に影響を及ぼす可能性がある.なお,91 日間反復投与毒性試験(A-2)では,2.0
mg/kg/dayの用量で同じく貧血傾向が認められたものの,網赤血球数は上昇し,骨髄には異常
所見は認められなかった.
肝毒性
ラット28日間反復投与毒性試験(A-1)では5.0 mg/kg/dayの用量,ラット91日間反復投与 毒性試験(A-2)では2.0 mg/kg/dayの用量で肝臓の重量が増加し,病理組織学的に胆管増生 やグリソン鞘における炎症性細胞浸潤,グリソン鞘内の肉芽腫が認められた.
肝臓の胆管増生は正常の加齢ラットでも認められるが,DPAA 投与によって発現した炎症性 細胞浸潤を伴う胆管増生は対照群には認められなかったこと,用いたラットが若齢であった ことから,DPAA投与に起因した変化である可能性がある.また,28日間反復投与毒性試験
(A-1)における5.0 mg/kg/dayの用量でグリソン鞘内にみられた肉芽腫は,間断連続標本に より小葉間胆管との移行像が確認され,胆管由来と考えられた.
血液生化学的検査では,28日間反復投与毒性試験では 5.0 mg/kg/dayの用量,91日間反復投 与毒性試験では2.0 mg/kg/dayの用量でASAT(GOT),ALAT(GPT),γGTおよびALPなど の胆道系酵素の高値が認められた.さらに,胆道系障害を示唆する血漿総ビリルビンおよび 尿素窒素の高値や尿ビリルビンおよびウロビリノーゲンの高値が認められたことから,DPAA は肝臓の胆道系に影響を及ぼすことが示唆された.
前述の体内動態試験(D-2,D-8)では,DPAA は肝臓に高い割合で分布することが確認され ている.消化管から吸収されたDPAAは先ず肝臓を通過することから,肝臓が主要な標的臓 器となっているものと考えられる.
その他
ラット28日間反復投与毒性試験(A-1)では5.0 mg/kg/dayの用量,ラット91日間反復投与 毒性試験(A-2)では2.0 mg/kg/dayの用量で胸腺の重量低下(小型化)がみられ,組織学的
には萎縮性変化が認められた.
免疫系への影響を精査するため,リンパ球サブセット解析(A-2)を実施した結果,リンパ球 のプロポーションには変化は認められなかった.
無影響量
DPAAラット28日反復経口毒性試験において,被験物質投与に起因すると考えられる変化が
雌雄とも1.2 mg/kg以上の群に認められたことから,28日反復経口毒性試験条件下における
DPAAの無影響量(NOEL)は雌雄とも0.3 mg/kg/dayとなる.
DPAAラット91日反復経口毒性試験において,被験物質投与に起因すると考えられる変化が
雌雄とも2.0 mg/kg以上の群に認められたことから,91日反復経口毒性試験条件下における
DPAAの無影響量(NOEL)は雌雄ともに0.8 mg/kg/dayとなる.
【DPAAの次世代への影響】
ラットを用いた催奇形性試験(B-1)の結果,最高用量である 3.0 mg/kg/dayの用量でも陰性 であったことから,DPAA はラットに対して奇形を誘発するような作用はないものと考えら れる.
ラット生殖能試験(B-2)では,3.0 mg/kg/dayの用量で動物状態の悪化に伴う二次的な交尾率 の低下がみられたが,受胎率にはDPAA投与による影響は認められなかった.また,初期胚 発生への影響として黄体数,着床数および生存胚数の低下,早期死亡胚数,着床前後ならび に総胚死亡率の増加が認められた.原因としては雌雄の状態悪化に伴う変化ならびに雌雄生 殖器への直接的・間接的な影響により生じた変化の可能性が推察される.
ラット出生児(B-3)に対しては,オープンフィールド試験において,最低用量の0.1 mg/kg/day から潜時の延長,区画移動数,立ち上がり数および身繕い数の減少がみられ,無影響量(NOEL)
を観察することができなかった.ただし,実験動物におけるオープンフィールド試験の結果 の解釈については,各測定指標の意味づけや評価方法も確定的なものとはいえず,ヒトへの 外挿は極めて難しいものと考えられる.したがって,本試験結果の解釈には十分な留意が必 要であると判断される.その他の胚の発生および出生児の成長,生後の形態的発育および分 化,各種の反射および反応,ローターロッド試験,Beil 型水迷路学習試験,交尾および受胎 能ならびに剖検の各検査ではDPAA投与の影響は認められなかった.
ラット新生児を用いた毒性試験(A-3)において,生後4日(ヒトでは出生前後に相当すると 考えられる)から0.1,0.3および1.0 mg/kg/dayの用量で28日間反復投与した結果,雄では 0.3および1.0 mg/kg/day,雌では1.0 mg/kg/dayの用量で,程度差はあるものの投与開始時の 週齢が5週齢のラット(A-1)とほぼ同様の毒性変化が認められた.また,両試験の無影響量
(NOEL)はほぼ同等(0.1〜0.3 mg/kg/day)であり,DPAAは若齢動物に対して特別に強い毒 性作用を有するとは考えられなかった.なお,前述のように新生児ラットでは腎臓からの排 泄機能が未熟(D-7)と考えられることから,体内への残留傾向が高まり,毒性作用も強く発 現することが予想された.しかし,結果はほぼ同等の毒性作用であった.詳細は不明ながら,
新生児ラットを用いた毒性試験では,生後32日に解剖検査が実施されたことから,腎糸球体