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7.1 まとめ

本稿では、「子ども」であり「ケアラー」でも あるという「ヤングケアラー」が、いかなる生き づらさをかかえ、社会においていかに見えない存 在となっているかということを問いとしてきた。

ここでは、これまでみてきた精神障害の親をケア する子どもたちの語りをもとに、そうした問いに 答えたい。

まず、彼らのもつ生きづらさはいかなるもので あるか。それは、「子ども」であり「ケアラー」

でもあるという生きづらさだった。

具体的には、「子ども」であるという未熟さを 抱えながらも「ケアラー」として家事や金銭の管 理などの重いケア責任を担うことがあった。ま た、親への直接的なケアについていえば、精神障 害の親の場合には特に感情面でのケア負担が大き く、「感情的な」親のもとで子どもたち自身がメ ンタルヘルスの問題を抱える様子がみられた。こ のように「ケアラー」としての役割を果たす彼ら は、自らのケアのなかで生じたトラブルや親の症 状の悪化に対して、自らの責任を感じて罪悪感を 覚えているケースもあった。

だが、そんな彼らはケアを担うだけでなく、

「親」に対する「子ども」としてのニーズももっ ていた。そのニーズとは、「母親」に対しては日 常的な家事や世話といった家庭においての「ケ ア」を欲することであり、また「父親」に対して は労働や人間関係などを含めた「社会」について の「教育」を欲することであった。

だが、病気・障害をもつ親はそうしたニーズに 応えることができず、子どももまた、そうした親 の状態をみて、自らのイメージのなかの「親」と のあいだにギャップを感じ悩むこととなる。しか し、そうでありながらも彼らは、「子ども」とし てのニーズが満たされることのないままに「ケア ラー」としての役割を担い続け、しだいに経済的 にも心理的にも「自立」に駆り立てられていく。

ただし、この「自立」の過程は複雑であった。

たとえばそれは親子関係の「逆転」に始まり、

「子ども」としての反抗を経た後、しだいに彼ら が自らで「子ども」としての本音や欲望を抑え込 んでいくようなものであった。また、経済的な自 立にかんしては、自負を覚えている者もいれば、

そもそも「働く」ことに対してイメージがもてな い者もいた。

ここまでのことは、親元を離れた後にも続くよ うな形で彼ら自身にもさまざまな影響を及ぼして いる。たとえばそれは、「我慢強さ」や「たくま しさ」、「甘えの願!!」という特性のようなかたち でみられたり、「社会性のなさ」などの自己の否 定的なアイデンティティとしてみられたりしてい た。

また、その一方で親をケアする「ケアラー」と しての役割を果たしてきた影響もみられ、たとえ ばそれは「親のために」という「依存関係」や

「親の『波』にあわせる」かたちで自らのあり方 を決めるなどということがある。そうした影響か ら、彼らのなかには親とのあいだの距離に悩み、

自らで距離をとることで「ケアラー」としての役 割から解放させていく様子もみられていた。

では、こうした生きづらさを抱える彼らの存在 は、いかに社会においてみえなくなっているのだ ろうか。その答えは、彼ら自身が「ケアラー」と しても「子ども」としても「当事者」になれてお らず、声をあげられないことにある。

まず「ケアラー」の側面をみるならば、彼らは

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「ケア」をしているという認識がなく、「ケア」を するなかで生じる自らの生きづらさについて、周 囲との「ズレ」に悩みながらもそうした生きづら さを「当たり前」のものなどと思っていた。つま り、生きづらさを感じながらもそれを社会的責任 に還元できる「ニーズ」だとは思っておらず、

「助けを求める発想」がなかったのだ。

そのような認識の背景には、社会におけるさま ざまな要因によって、彼らの生きづらさが非常に 個人的で家庭的な問題として扱われていることが ある。たとえばそれは、「『普通ではない』家庭や 親」を含めたスティグマの内面化、精神障害を含 めた病気や障害に対する無理解、家族ケアにおい て「自然」なものとされる性別役割分業観の内面 化などにみることができる。

こうした社会において、彼らは「ケアラー」と しての「当事者性」を獲得できないでいるのであ り、自らの抱える生きづらさを「精神障害」や

「ケア」などの社会に共通する「名」で捉えるこ とができないのである。そのため、彼らはその

「名」を獲得するまで、自らの生きづらさを個人 的なものとして捉えており、うまく社会に対して 語ることができないのである。

また、「子ども」としての側面をみるならば、

彼らは「子ども」としてのニーズをもちながら も、「自立」と地続きのようなかたちで無意識的 に自ら声を抑えていることがある。そして、しば しば声をあげようとしても、「大人」の権力のも とでそうした声は社会に届かない。たとえばそれ は、パターナリズムのもとで「大人」によってニ ーズを「代行」されることにみられる。ほかに も、医療・福祉・学校などのシステムについての 知識がなかったり、手続きの主体になれなかった りということがある。これらのことは、彼らがま さに、社会において「責任主体」たれない「子ど も」とされていることからきているといえる。

以上のことから彼らは、「子ども」であり「ケ アラー」でもあるという生きづらさを抱えながら も、そのどちらにおいても「当事者」とはなれて おらず、社会に対して「ニーズ」を表明できない でいるといえる。

そして同時に、現行の医療・福祉・学校などの システムの側も、彼らの「ニーズ」をくみ取るも

のとはなっていない。具体的には、彼らが生きづ らさを感じている「家庭」という領域に対して、

システムの側が積極的にアプローチできていない ということがある。たとえばそれは、医療におけ る「患者第一」の姿勢、また福祉における「第三 者」の不在などにみることができる。ここからい える大きな問題としては、システムの側がクライ アントの「ニーズ」に基づいて対応するという

「ニーズ主義」であるということだ。「子ども」と しても「ケアラー」としても「ニーズ」を表明で きない彼らは、こうしたシステムから排除されて いるといえる。

以上のことを改めて「社会的排除」という概念 でとらえてみると、彼らは「子ども」としても

「ケアラー」としても社会に「参加」することが できておらず、その意味で社会的に排除されてい るといえる。いいかえると、彼らはその二面性に おいて「当事者」として声をあげることのできる ような社会関係をもつことができていないのだ。

そしてそれは、社会によってできなくさせられて いるといっても過言ではない。岩田によれば、社 会的排除は、「『誰かが誰かを排除する』といった

『動詞』としてとらえられ、また、排除の原因と 結果の連鎖のようなプロセスとして理解されてい る」(岩田2008 : 26)とある。「ヤングケアラー」

の場合には、「子ども」としての側面をみるなら ば、病気・障害をもつ親との閉じられた二者関係 や周囲の権力をもつ「大人」との関係においてニ ーズを表明できなくさせられていく。また、「ケ アラー」としての側面をみても、社会的なスティ グマや病気・障害への無理解、「自然」なものと しての家族ケアの規範によってニーズを表明でき なくさせられていく。そしてそれだけでなく彼ら は、医療・福祉・学校というシステムとのあいだ にも、ニーズを表明できるような関係をもつこと ができていないのである。

7.2 課題と展望

それでは、彼らの存在を社会のなかで見えるよ うにし、社会に包摂していくにはどのようにすれ ばよいだろうか。私の答えは、彼らの「ニーズ」

をひきだすような社会関係をつくることにある。

ただし、それにはまず、彼らを「ケアラー」とし

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てみるだけでなく、「子ども」としてもみること が必要ではないだろうか。なぜなら、「ケア」を しているという認識がない彼らに対して、「ケア ラー」としてのニーズをひきだすのは難しいよう に思うからである。

とはいえ、もし「ケアラー」という方面からの アプローチをするならば、彼らの「ケアラー」と しての意識を育てる必要があるかもしれない。た だし、彼らのなかには「ケア」や「障害」などの 枠組みで語ることに対して違和感をもつ者もいる ことから、こうしたアプローチをするためには、

体験を理解するための「枠組み」をさらに増やし ていく必要があるともいえる。

だが、私は彼らの「子ども」としてのニーズを ひきだすアプローチにより一層期待している。な ぜなら、彼らは「ケアラー」としての自覚をもっ ていなくとも、「子ども」としてのニーズをもっ ているからである。ただし、そうしたニーズをひ きだすにあたっては、いくつか気を付けなければ ならないことがある。それはまず、①彼らがニー ズを自らで抑え込んでしまう前の早い段階で、彼 らの声をきく必要があるということだ。なぜな ら、彼らはしだいにそうしたニーズを、「自立」

や「我慢強さ」などの特性のような生きづらさと して抱えていくことになり、ニーズをひきだすの がより困難になるからである。また、つぎにいえ ることは、②「大人」が自身のもつ権力性に自覚 的になることである。なぜなら「大人」が「子ど も」のニーズをひき出す時には、パターナリズム が生じやすく、彼らの本当のニーズをうまくひき だしにくいからである。よって、「大人」が「子 ども」のニーズを決めるときには、そのニーズが 一体誰のものなのかということをたえず問い続け る必要があるといえる。

また、今回の研究にはつぎのような課題がいく つか挙げられる。

第一に、インフォーマルなサポートや身近なセ ーフティネットについてである。彼らのなかには 友人親子や祖母など身近な人々からのサポートを 得ることができていたり、母方の実家をセーフテ ィネットとして利用できたりしている人がいた。

だが、逆にそうしたサポートやセーフティネット を利用できない人もいた。この両者の違いを決定

づける条件については、本人のもつさまざまな資 源の違いなどがあると考えられるが、この点につ いては今後も検討する余地があるといえる。

そして第二に、「当事者性」の獲得についてで ある。彼らのなかには自らが支援者や養護教諭と なる者がおり、そうした人々はキャリアを積むな かでの「知」を通して、自らの当事者性に「気づ き」を得ていた。だが、みながそうしたルートを 辿れるわけではなく、そうした「気づき」を得ら れないままに生きづらさを抱え続けている人もい るだろう。今後は、このような人々にもアプロー チをしていく必要があり、そのためには彼らがど のように「当事者」になれるのか、あるいはなれ ないのかということについて検討する必要がある といえる。

そして第三に、対象についてである。今回アプ ローチできなかった対象として、精神障害以外の 病気・障害をもつ家族をケアする子どもたち、親 以外のきょうだいなどをケアする子どもたち、ケ ア役割を担っている最中の子どもたちが挙げられ る。また、今回は男性1名しか対象にできなかっ たことから、今後はさらに男性のケアラーの経験 も明らかにしていく必要があるといえる。

そして第四に、長期的な支援の検討についてで ある。この点は、今回の研究を通して筆者が大き な課題として感じていることである。今回の研究 では、彼らの子ども時代の経験を明らかにした が、そこからわかったこととして、彼らは子ども 時代を過ぎてケア役割から離脱した後もまだ生き づらさを抱えているということだった。たとえば それは、「我慢」することにより「パンク」する というような語りにみられたことである。ただ し、こうしたこと以外にも子ども時代をすぎた彼 らの生きづらさはさまざまにあると考えられる。

今後は、そうした彼らの生きづらさを長期にわた るものとして捉え、長期的な支援を検討していく 必要があるといえる。

8.参考文献

阿部彩,2008,『子どもの貧困──日本の不公平を考え る』岩波新書.

朝日新聞デジタル,2018,「統合失調症や障害ある子を 親が監禁、その背景は?」(https : //www.asahi.com/

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