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第三章 ヤスパース暗号の藝術形而h学

ドキュメント内 学位の分野 文学 (ページ 102-148)

はじめに

 本章では、ヤスパースが独自の「形而上学1」で展開した「暗号文字の解読」にっいて、

藝術哲学の観点から考察する。

 ヤスパースは超越者の客体性を「暗号文字」という比喩であらわしている。その「暗号 論」の体系は古今に類を見ない壮大なものである。そもそもこの「暗号」(Chiffre)’2という 術語を彼がいかにして着想したかは本格的な研究を侯たねばなるまいが、後述するように、

ヤスパースがカントの暗号をめぐる文献をはっきりと引用していることは事実として記憶 すべきである。したがってこの考察もカント『判断力批判』から発し、同様にこの言葉に 喚起されたシェリングを経ることとなるが、今回は主としてヤスパースの「哲学のオルガ ノン」(Organon)としての「藝術の形而上学」に照準を合わせ、その思想的背景であるカン

トとシェリングに関しては補足的に検証するにとどめる。

 先述したように、ヤスパースに対するカントとシェリングの影響関係は多元的である。

ヤスパースはカントから「暗号」という言葉を借りた(あるいは、そう思われる)のみな らず、それを自身の哲学における根本概念とした。そしてまた、シェリングのあの人口に 檜矢した章句「藝術は哲学のオルガノン」(『超越論的観念論の体系』)を自著に再三にわた

り引用し、「暗号文字の解読」としての独自の形而上学をそこから展開している。もちろん、

ヤスパース以前にカントからシェリングへの影響関係そのものもある。したがって「暗号 文字」をめぐるこうした藝術形而上学の系譜は、すくなくとも四本の流れから辿ることが できる。すなわち年代順に、第一、カントとシェリングにおける「暗号」概念の比較考察。

第二、同じくカントとヤスパースにおけるそれ。第三、やはり同じくシェリングとヤスパ ースにおけるそれ。そして綜合的に、第四、カントとシェリングの両者を視野に入れたヤ スパースの見解。以上の四つである。

 はたして、カント以降の藝術哲学と、二〇世紀においてふたたび本質的な藝術哲学を展 開したヤスパース独自の「暗号論」との関わりはいかなるものであろうか。藝術哲学の領 域で、近代ドイツ哲学とヤスパース哲学とが関連づけられた研究は、これまであまり存在 しなかったと思われる。遙かな時を隔てた二つの藝術哲学について、自然の、もしくは存 在の「暗号」という観点から、そこに何らかの共通性を確認することはできるのだろうか。

第一一項 近代ドイッ哲学における「暗号文字の解読」の問題

周知のように、近代ドイツ哲学では藝術に関しても本質的な議論が展開されてきた。こ

の時代の支配的な方法論はやはりなんといってもカントの批判哲学であり、とくに第三の r判断力批判』は、第一の『純粋理性批判』よりもいっそう甚大な影響を、哲学者のみな らず多くの藝術家に及ぼした(文豪ゲーテもまさにその一人であったし、その有名な述懐 は、当時の思想界の様子を彷彿とさせる’3>。

 こθ)書が問題提起したことがらは数多いが、美しい自然の「暗号文字」(Chiffreschrift)(第 四二節)という章句もそのひとつである。このカントらしい、いくぶん詩的ともいえる表 現が、先述した同時代および後代の思想家たちにいかなる影響を与えたかを検証すること は、当時の哲学の根本問題である自然と精神、自由と道徳、外界と内面といった様々な構 造を考察するうえできわめて重要な作業となろう。

 以下「第一一項」は、論の進行の都合上、前述の第二部第二章「2 カント『判断力批判』

とシェリング『超越路的観念論の体系』 一一近代ドイツ藝術哲学における「暗号論」の 系譜」で論じた要点の再掲となる。ご了承願いたい。

第一項A カント

 すでに先の第二部第二章で指摘したように、カントは『判断力批判』第四二節で、美に ついての関心と道徳的関心について論じている。レンシュートリルがこうしたカントの試み を、巧みに「美と善との古いプラトン的結合が近代的言説において形を成した」ものとし ている(Ransch-Trill.1986)のも、既述のとおりである。ドイッ・「イデアリズム」という名 称は、まさにこうしたプラトン的含意において理解すべきであろう。カントはあくまで倫 理学から美学へ、自然から藝術へと、類比的に考察していると言ってよい。美感的

(asthetisch)判断と道徳的判断に関する考察において、ヤスパースはいよいよ自然の暗号文 字について言及する。ここであらためて、先に本論文第二部第三章、九一頁で引用したカ

ントからの長文(Kritik der Urteilskraft, S.170f.)を再度確認されたい。それは一読すればわか

るように、美と善、美感的なものと道徳的なものとの対照性を浮き彫りにしている。さら にそれは、主観的なものと客観的なもの、偶然と意図、内面と外界等々、幾層もの対比的 構造に及んでいる。

 カントの議論はこうであった。まず美への直接的関心も、実際には善への思惟様式が具 わっていることが前提であるとして、善を美にいわば優先させる。この「美感的判断の道 徳的感情との類縁性」は、この関心が類縁性からいえば道徳的であること、自然美につい てそうした関心を抱くのは、あらかじめ道徳や善についての関心が十分に基礎づけられて いることによって初めて可能であること、そうカントとは考え、こうして「我々の内なる 道徳」が何度も強調されることで、ここでの議論と、後半の目的論的判断力批判とが橋渡

しされていたのであった。

 すでに指摘したように、カントが自然美を藝術美より上に置く理由は、両者における適

意の有無によるものである。適意と関心とは対象の表象と結びつくか否かにおいて異なっ ていて、いかなる関心からも解放された適意と同様、意図的な適意を伴わぬ直接的関心も ありうるわけである。だからカントは「美しい技術」を、美しい自然を模倣したものであ るか、あるいは故意に我々の適意を目指しているのが明らかな技術であるか、いずれかで あるとしていた(Vgl. KU, S.171)のであり、後者の場合を、「作品の根抵にある原因について の間接的な関心」、「ただその目的によってだけ関心を覚えさせうる技術についての関心」

しかない、とみなした(Vgl. KU, S.171)。このような藝術美が、喚起するという目的ゆえに 関心を惹起するのにすぎぬのと異なり、自然は美によって我々の適意を惹起しようという 意図を訣き、結果として適意が惹き起こされたとしても、先に引用したようにそれはあく まで「偶然」である(Vgl. KU, S.170)。こうした偶然性によって美が我々の意に適うことで、

かえって自然の産物が、一切の関心から独立した適意と、合法則的に一致する根拠が含ま れているのに、自然が形跡を示し、暗示を与えている(Vgl. KU, S.169)ことに、理性が関心 を抱いている。「自然がこうした美を産出した」、こういう考えが直観および反省に伴わね ばならず、我々が美に対して直接的関心を抱くのも、ただこの考えにのみ基づくからであ

った(VgL KU, S.167)。

 このようにして、自然の産物から自然の産出へ、そして所産的自然から能産的自然への 転換を促された。これこそカントの「暗号」論の核心なのである。この転換は、理念が「客 観的実在も有すること」(KU, S.169)であり、個々の美しい自然対象から、自然の産物、さ らにはもはや産出的と映るはずの自然そのものへと眼を向けることで、はじめて可能とな る。自然の産物の一切の関心から独立した我々の適意との合法則的な一致を想定させるよ うな何らかの根拠は、自然の示す「形跡」によって、自然が与える「暗示」によって、我々 の理性を関心づける。したがって理性は、自然のそうした一致のあらゆる表出について関 心を抱かずにはいられない(Vgl. KU, S.169)。だからこうした心情が産出的な自然に関心づ けられること無くして、しかもそれと同時に、自然の美に関して反省することはできない

(Vgl. KU, S.169)。こうした関心「道徳的には類縁性にある、すなわち、理性は道徳的感情 のうちに理念に対する直接的関心を生じさせるのであり、あらかじめ道徳的な善について の関心が十分に基礎づけられたかぎりでのみ、自然の美についてもそうした関心をもちう

る(Vgl. KU, S.169)、ということになる。

 こうした「美と道徳性」をめぐるカントの思想について、ヤスパースは『偉大な哲学者 たち』(一九五七年)で以下のように概括している(本論文第二部第一章に既述)。

 「一しかし別な連関からいえば、「趣味を基礎づける真の予備学」は、「倫理的理念の 発達と道徳的感情の教化」なのである(なぜなら超感性的基体において、美感的理念と道 徳性の根源は一体だからである)。/美の道徳的意義は、カントの洞察の絶頂である。/す なわち、自然美は現実である。カントによれば、(中略)自然美への直接の関心は、「いつ でも善良な魂のしるし」なのである。しかもこのことは、超感性的根源の暗号のひとつと

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