問 9-1 禅師、無我と空は、内容的に異なる部分があるのでしょうか?
答9-1 法句経(Dhammapada)において、仏陀は「一切法は無我である(sabbe
dhamma anatta)」と開示しています。ここで言う法とは、有為法と無為法の事です。
有為法は、すべての名色法を含み、無為法とは、涅槃の事です。修行者が観禅(vipassanā) の修行をする時、名色または五蘊を無常・苦・無我であると体験する時、彼は初めて、
無我とは何かを、理解し始めます。彼が道智と果智を証悟する時、彼はさらに一歩進ん で、涅槃もまた無我である事を理解するでしょう。
空についてですが、その意味は比較的広いです。たとえば《中部・小空経
Cūḷasuññata Sutta, Majjhima Nikāya》の中で、仏陀は「比丘が森に住んでいる 時、彼の森林に対する想いは、大象、牛、驢馬、金、銀、男女の集まりなどを除いたも のです。比丘が地遍を修行する時、彼の地に対する想いは、森林を除いたものです。比 丘が空無辺処を修行する時、彼の無辺空虚の想いは、地想を除いたものです。その他の、
更に高尚な無色界定も、同様の方式でそれらの空を理解する事ができます。比丘が観禅
(vipassanā)の修行をする時、彼の想は、常、楽と我を除いたものです。比丘が涅槃
を証悟する時、彼は本当の空を見ます。というのも、涅槃は、名と色を除いたもの、常 と我を除き、貪、瞋恚、痴を除いたものだからです」と言っています。
問 9-2 著書《如実知見》の中で、禅師は:「シャーリプトラ尊者とモッガラー
ナ尊者の阿羅漢道は上級弟子の覚智に相応する。婆醯の阿羅漢道は大弟子の覚 智とのみ相応する。上級弟子の覚智は、大弟子の覚智より、さらに優れている」
と説明しました。波羅蜜を積む時間の長短以外に、何か他の要因によって、こ の差異が生まれるのでしょうか?同じ阿羅漢なのに、なぜこのような差が生じ るのですか?
答9-2 阿羅漢を証悟するという事柄について言えば、彼らの間には相違はありま せん。しかしながら、仏陀が《中部・個別経 Anupada Sutta、Majjhima Nikãya》 の中で、「シャーリプトラ尊者は、超高尚な智慧、広大な智慧、喜ばしい智慧、早い智 慧、鋭敏な智慧と通達[訳者注=物事に通じている事]の智慧を有している。彼は、仏
陀が開示した簡単で短い偈を、何千種類の方式を用いて理解し、説明する事ができる。
彼は各種類毎の名法及び各種類毎の色法を詳しく理解する事ができる。彼は、インド全 国に同時に降った雨の水滴の数を数える事さえできる。智慧で言えば、仏陀の弟子の中 で、シャーリプトラ尊者に敵う人はいません」と言っています。
モッガラーナ尊者については、仏陀の弟子の中では、彼は神通第一でした。婆醯は、
最も早く阿羅漢果を証悟した人です。仏陀も阿羅漢ですが、しかし、彼は彼の一切知智
(sabbaññutañāṇa)でもって、彼が知りたいと思うすべての事柄を知ることが出来ま した。一切知智は、仏陀だけが備えている智慧です。
問 9-3 通常、人々は、人が死んでも霊魂があって、永遠に不滅であると思って います。これは常見です。仏陀は我々に常見と断見を捨てて、中道であるよう に、と言っています。中道というのはどのようなものですか?そして、我々は もし解脱しないのであれば、引き続き 6 道の中で輪廻しなければなりません。
この見方は、霊魂という名の自我があるという事を示しており、これは常見で はないでしょうか?
漢訳の《雑阿含経》では、八聖道は、世間的及び出世間的に説明が出来ると書 かれています。禅師はどのようにお考えですか?凡と聖の利益とは何でしょう か?
答9-3 中道とは、すなわち、八聖道です。世間的な八聖道は、聖道を証悟する前
の戒・定・慧の三学に含まれます。出世間的な八聖道は、四種類の聖道(ariya-magga)
です。
世間的な八聖道の中の、正語、正業と正命は、戒学に属します。正精進、正念と正 定は定学に属します。故に、あなたが止禅を修行する時、この三項の聖道分を養成して いる事になります。正見と正思惟は、慧学に属します。
八聖道の第一項は、正見です。正見とは何ですか?正見とは、苦諦、集諦、滅諦と 道諦を正確に理解する事です。
苦諦とは何ですか?五取蘊が苦諦です。あなたが色業処と名業処を修行する時、観 智でもって、あなたとその他の一切の衆生が、ただ名色又は五蘊によってのみ構成され ていて、初めから「我」などというものはないのだ、という事を知るでしょう。この段 階において、あなたは苦諦とは何か、を理解する事が出来、かつ、この正見によって、
暫定的に身見(sakkãyadiṭṭhi)を取り除く事ができます。
名色を照見した後、あなたは更に進んで縁起の修行に取り組む事ができます。縁起 とはすなわち、集諦です。あなたは、一組の過去の因が、一組の現在の果を作る事を見 る事ができます。過去の因は名色に過ぎないし、現在の果もまた名色に過ぎません。故 に、名色が名色を作っているに過ぎません。過去の因が生滅している時、それらは「我々 が生起する事によって、何々の果報を生起させよう」などと考える事はありませんし、
現在の果が「何々の因が生起したならば、我々も生起しよう」なととは考えません。因 果は、ただ固定的な自然法則に従って生滅しており、因は如何なる努力をする必要もな く果を生起させており、因が発生したならば、その果もまた、何らの努力なしに生起す る事ができます。因縁条件が熟した時、因の発生により、果の生起が起こります。因は 無常・苦・無我であり、果も無常・苦・無我です。過去に我はなく、現在に我はない。
このように、無我の法則と、生死輪廻の両者の間には、矛盾はありません。
あなたが縁起の修行をしている時、過去から未来に到る名色の相続流を照見して下 さい。もし、あなたがこのように正確に修行する事ができたならば、暫定的に断見
(uccheda-diṭṭhi)を取り除く事ができます。あなたは、すべての名色法は、それら自 身の因縁によって生起している事を照見する事ができるでしょう。もし、あなたが、こ のように正確に修行する事が出来たならば、暫定的に無因見(ahetuka-diṭṭhi)を取り 除く事ができます。あなたは、それぞれの因縁が、それぞれ各々の果報を生じさせてい る事を照見する必要があります。もし、あなたがこのように正確に修行する事ができた ならば、暫定的に、無作用見(akiriya-diṭṭhi)を取り除く事ができます。このように、
この種の縁起に関する正見は、我々の過去、現在、未来三世に関する疑惑を取り除ける だけでなく、種々の邪見も取り除く事ができます。
この段階になれば、あなたは、更に進んで、真正の観禅(vipassanā)を修行して、
名色と、その無常・苦・無我を照見する事ができるようになります。この様に修行する と、あなたは暫定的に煩悩を取り除く事ができますが、これは世間的な滅諦です。観禅 心と同時に生起する心所の中で、智慧心所が、まさに正見です。尋心所は、正思惟です。
精進心所は正精進です。念心所は正念です。一境性心所は、正定です。また、修行中に おいて、あなたは戒清浄を保持しますから、あなたは正語、正業と正命を具備している 事になります。これらは世間的な道諦です。
あなたが生滅随観智まで修行した時、あなたが未来において阿羅漢果と般涅槃を証 悟する状況を見る事ができます。たとえば、あなたは次の世であなたが20歳で阿羅漢 果を証悟し、60歳で般涅槃を証悟するのを見るかもしれません。もしこの通りであれ ば、あなたは、あなたが20歳の時に阿羅漢果を証悟する事によって、すべての煩悩が
滅尽し、かつ、60歳で般涅槃する時、すべての名色が滅尽するのを見る事ができるで しょう。この種の滅尽は、世俗的な滅諦です。
あなたが、涅槃を対象とする道智を証悟する時、八聖道のすべてが、道心の中に存 在します(し、その事が分かります):涅槃を知り、悟るのは正見です;心を涅槃に投 入するのは正思惟です;涅槃を憶念するのは正念です;涅槃を知り、悟ろうと努力する のは正精進です。涅槃に一心に専注するのは、正定です;正語、正業、正命というこの 三項の聖道は、持戒の作用を有しており、聖者はたとえ夢の中でも、五戒の中のいかな る一戒をも、犯す事はありません。これらは、出世間の八聖道です。須陀洹道を証悟し た後、最も多くて7回生死を繰り返えせば、最後の解脱を証悟する事ができます。これ が出世間八聖道の利益です;世間的八聖道の利益は、出世間的八聖道の証悟へ向けて導 く事ができる事です。
問 9-4 通常、遺族は亡者に銀紙を焼く習慣がありますが、これは迷信ですか?
(訳者注:台湾、中国等の中華文化圏では、死者が天界で豊かに暮らせる事を 願って、紙幣に見立てた銀紙を焼く習慣がある)。
答9-4 南伝仏教ではこのような習俗はありません。しかし、我々は、亡者の名前、
名目を利用して、よい事をする事はできます。たとえば布施等をして、その功徳を亡者 に回向するのです。もし亡者が、他人が行った功徳を受け取る事の出来る、そういう餓 鬼であったならば、誰かが彼に功徳を回向した事を知って、かつ、彼が、功徳に対して 随喜の気持ちを起こす事ができるならば、彼はその功徳の利益を得る事ができ、かつ、
善道に転生する事ができます。しかし、もし、亡者が転生して、その他の類の餓鬼、又 は地獄道、畜生道、人道、アシュラ道などに生まれているならば、彼は、彼に対して回 向された功徳を、受け取る事は出来ません。
問 9-5 一人でいる事が好きな人は、人付き合いが悪いと言われます。一人でい る事と、人付き合いは、どのように兼ね合えば良いですか?
答9-5 群れて生活する事は、瞑想の修行にとって良くないだけでなく、禅定と観
智の修行にとって、大きな障礙になります。どのような道果を証悟しようとしていても、
証悟する前は、独居し、修行に努め、決して群れて生活してはいけません。ある種の人々 は、あなたの良い面を見て、あなたが本当に仏陀の教えに従って生活し、仏法の修行に 精進している比丘又は比丘尼であると認識するでしょう;しかし、別のある種の人々は、
あなたの事を人付き合いの悪い人だと誤解するかもしれません。他人があなたの事をど