1.水について
水素と酸素の化合物である水は、生命を維持するために動物にとっても植物にとっても 不可欠なものである。水は「源泉にして起源であり、あらゆる存在の可能性の母胎」156であ るとも考えられている。また水は「形のさだかでないもの、潜在しているものの原理として、
あらゆる宇宙的顕現の原基として、あらゆる芽生えの容器として、一切の形が発生してくる 原初の物質を象徴」157しており、「生命を発生させ、生命の根源」158といえる。またギリシ アの哲学者タレスは「生命ある一切のものは水から生じた」159と説いていた。このように水 について古代から考えられていた。
旧約聖書においては創世記1 :2「神の霊が水の面を動いていた」とあるように、水は大地 が創造される前からあった。そして創世記1 :6-7において「『水の中に大空あれ。水と水を 分けよ。』神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた」のである。このこ とから水は始まりのものであり、すべてを造るものであったと考えられていたといえるで あろう。またエレミア書2 :13では、神は「生ける水の源」として表現されている160。また
イザヤ書12 :3は「救いの泉」として神を表現している。これらの表現は、水を神聖化して
はいない。また水と清めとの関係は、レビ記11 :16の清浄規定と民数記19章の清めの水の 箇所で示されている他に、エゼキエル書36 :25では「わたしが清い水をお前たちの上に振り かけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像か ら清める」161と神はいわれる。
しかし、「水は破壊的な力を振るうものである」ということも旧約聖書では知られている。
例をあげると、創世記6 :17で神はノアに「見よ、私は地上に洪水をもたらし、命の霊をも
156 ミルチャ・エリアーデ『豊穣と再生』久米博訳、堀一郎監修、せりか書房、1991年、
58頁。
157 前掲書、58-59頁。
158 前掲書、61頁。
159 マンフレート・ルルカー『聖書象徴事典』池田紘一訳、人文書院、1988年、「水」の項 参照。
160 エレミア書2:13「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける源である私を捨てて 無 用の水溜めを掘った。」
161『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』
つ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える」162と語りかけ た。そして神はこの言葉通り四十日間の洪水を起こし、その言葉通り、箱舟にいるもの以外 の肉なるものはすべて息絶えさせたのである。
新約聖書では、水はヨハネ文書で多く使われている。そしてヨハネ文書では「洗礼の水は キリストから流れ出る救いをもたらす聖霊の働きを現わしている」163といわれている。水は 洗礼の水として人間の罪の清めと再生の象徴であった(ヨハネ福音書 3 :22-30)。そしてヨ ハネ福音書4 :13-14「イエスは答えて言われた。「この水を飲むものは誰でもまた渇く。しか し、わたしが与える水を飲む者は決して乾かない。わたしが与える水はその人の内で泉とな り、永遠の命に至る水がわき出る」」164と書かれており、イエスは「永遠の命に至る水」で あった。
この罪の清めと再生のシンボリズムは、キリスト教だけではなく古代からの産物であり、
その意味で「超宗教的」165であったといわれなければならない。なぜなら世界各地には、旧 約聖書のノアの箱舟の物語のような伝説が様々な民族の神話として残っているからである
166。この洪水伝説は、エリアーデが「人類が水に再び吸収されてしまうという観念、そして 新しい人類とともに新しい時代が開始されるということに結びついている」167と述べてい るように、死と復活の象徴であるといえるであろう。
このような古代からの歴史をふまえ、シメオンの水に対する表現はどのようなものであ るか、次に見てみよう。
2.シメオンにとっての「水」
ここではシメオンの水に対する考えをみていきたい。なぜならシメオンの著作には水に
162 前掲書。
163 高柳俊一「「生きた水」の意味と役割(ヨハネ四1-42)」(『洗礼と水のシンボリズム―
神の国のイニシエーション』上智大学キリスト教文化研究所編、リトン、2008年所 収)。
164『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』
165 ミルチァ・エリアーデ『豊穣と再生』64-72頁参照。
166『新カトリック大事典 Ⅳ』新カトリック大事典編纂委員会、平凡社、2009年、「水」
の項885頁参照。
167 ミルチァ・エリアーデ『豊穣と再生』72頁。
関連する言葉、泉であるとか涙という単語が多く記されており、シメオンの思想には重要な 概念であると思われるからである。例えば、シメオンの説教集である『教理講話』第三十六 講話(神に対する感謝の章)には、次の表現がある。
以前、道で出会った時、あなた(神)は私を泥から引き抜いてくださいました。〈…〉
あなたはまず私の頭をつかみ、水の中に私の頭を沈めました。〈…〉あなたは時期 を見て、来られ、そして去る(を繰り返し)、少しずつより一層明らかになられま した。そしてあなたは私に水を浴びせかけ、よりはっきり見えるようにし、さらに 一層私に光を恵み与えられました168。
あなた(神)はやってきて、そして私を水によって汚れを落とし、そして注ぎ、水 の中にたびたび沈めるようにされました。私は周囲を照らす輝きと水が混ざり合 ったあなたの顔の輝きを見ました。私は、光を放つ水で洗われるのを見て、驚きを 与えられました169。
先に挙げた部分では、水は神が罪を清めるための水として用いられていると考えること ができる。そしてその水は「神の泉の水」170であるということになるであろう。なぜなら「浴 びせかける」であるとか「沈める」という行為は、多くの水が必要である。そしてこの「沈 める」という行為が意味するものは死と復活の象徴である洗礼を意味しているといえる。ま た、この「浴びせかける」「沈める」「注ぐ」は、神からの一方的な行為である。しかしなが ら、その行為を受け場合には、人間の魂の状態に相応して与えられるのであり、そのために は人間が常に神に向かって歩んでいるという努力が必要とされる。
シメオンは、神によって浴びせかけられ、沈めるために使われた水を「神の恩寵」または
「神の愛」であると考えていたのではないであろうか。「神の恩寵」もしくは「神の愛」は 無限であり、その人間が与えられるのにふさわしいだけ、神から与えられ、そして清められ、
それが繰り返されることによって、人間は「神の光」を徐々にはっきりと見ることができる のだということを、シメオンは説いていたように考えられる。
168 Cat., 36. 126-146.
169 Cat., 36. 148-154.
170 cf., ibid., 36. 77-98.
また「光を放つ水で洗われる」ともシメオンは語る。光を放つ水とは神から与えられた水 であるということを強調していると思われる。それはその光を放つ水で洗われるのを見る 前にシメオンは「周囲を照らす輝きと水が混ざり合ったあなたの顔の輝きを見ました」と述 べ、神の顔の輝きを見ており、その輝きを帯びた水、すなわち神自ら発した水。それは水で あるというよりも聖霊であったと考えることができる。さらにシメオンは『教理講話』第六 講話で「永遠の水」171という表現を提示している。その水は「生きた水」172としてその水を 飲み、その水で体を洗い、そして魂をも洗うという173。シメオンは、ヨハネ福音書4 :14「わ たしが与える水は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る 水がわき出る」を引用していることから、「永遠の水」として表現したように考えられる。
またこの思想は師父シメオンから受け継いだものであるとシメオンは述べている174。この ようにシメオンにとっての水は、浄化の意味だけではなく、生命の維持を保つためのもので あり、永遠の命を得るために必要なものであったと思われる。この点でシメオンは聖書の教 えに忠実であったともいえよう。
2.師父たちにおける涙
ここでは東方キリスト教の師父たちの涙の概念について見ていきたい。ニュッサのグレ ゴリオスは『モーセの生涯』で「まことに、経験はわれわれに次のことを教えてくれる。す なわち、人生の不安定な、振幅ある動きは、人間的な事柄の欺瞞的な在り方に浸っていない 者を、彼自身から遠くへ押しやろうとする。それは丁度、妬みのゆえにある人の徳を煩わし いと思う者が、その徳をある人のことを無益な重荷であるかのように看做すのと同様であ る。だが、こうしたことから脱出しようとする人はモーセを模倣すべきである。モーセの運 命に涙を禁じてはならない。たとい自分自身はたまたま箱舟の中に譲られて安全を享受し ているとしても。涙こそは、アレテー(徳)を通して救われる人の確かな譲り手である」175 と述べる。ニュッサのグレゴリオスは涙がなければ本当の救いに与ることができないこと
171 Cat., 6. 208.
172 ヨハネ福音書4:11。
173 cf., Cat., 6. 195-209.
174 ibid.
175 ニュッサのグレゴリオス『モーセの生涯』、邦訳70頁。