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この章では、バングラデシュ農村開発の原型である「コミラモデル」を取り上げ、クミッラ県農村 居住者や農地・環境に及ぼしている影響を踏まえながら、その意義と課題を検証している。これまで の研究成果では「コミラモデルはアクタル・ハミッド・カーンによって実施された農村開発である」

という一国内的なとらえ方が主流であった。だが、コミラモデルは、東西冷戦体制下におけるアメリ カの世界戦略と深く結びついている。そこには、「緑の革命」を通して食料自給を達成させ、バング ラデシュの共産主義化を押さえようとするアメリカの思惑が色濃く反映されている。

そのフレームワークは、西パキスタン政府とハーバード・アドバイザー・グループ、ミシガン州立 大学によって決定された。東パキスタン側の参加機会は計画作成当初から剥奪されており、その実施 過程においても、農村居住者は、アメリカ政府によって用意されたシナリオの枠内におかれていた。

この当時、東パキスタンは西パキスタンから国内植民地的な扱いを受けており、東西パキスタンの政 治・経済的緊張は高まりを見せていた。また、これまでとは全く異なる農業方法を導入することに対 して、東パキスタンの人々が抵抗を示すであろうことが予想されていた。そのため、実験場としての クミッラ県において、巧みな戦略が講じられた。

先ず、研修施設である BARD 開設に先だって、初代所長アクタル・ハミッド・カーンとスタッフたち はアメリカへの出向を命じられ(1958年)、農業開発=農業の近代化にとどまらず、市場経済や家族計画 といった農村の社会構造の変革にまで及ぶ内容の研修を受けている。これらは、BARD 開設後(1959年

~)、政府役人を中心とした農村の既得権益集団に繰り返し伝えられていった。1960年からは、小農が所 有している農地、資金、労働力を集約させることを目的としてKSSの組織化にも力が注がれ、翌1961年 にはKTCCAが設立された。KSSはBARDとKTCCAの監視下におかれ、多収穫新品種の使用、貯蓄や 研修等を含む10原則を強要され、それらを遵守することがKTCCAからの補助金を受けられる条件とさ れていた。これらの協同組合は農民によって内発的に形成されたものではなく、近代農法を導入・拡大さ せるためのアメリカによる主要戦略であった。

さらに、IRRIで生み出されたIR-8が、これら2段階協同組合を通して1966-67年に導入され「緑の革 命は米の生産量を劇的に増加させる!」というスローガンと共に作付面積が拡大していった。近代的投入 物に要する費用は巨額であったが、KTCCAには外国援助による補助金が集中した。KTCCAはこうした 補助金と自らの資産を元手に米増産をはかり、収益金を増加させていった。一方、KSSでは近代農法実施 に要する費用が換金作物の売上額を上回り、年々累積赤字が増していった。そのためKTCCAとKSS間 の収益格差が拡大し、土地なし農民はさまざまなプログラムへの参加機会さえ剥奪されているという構造 が生み出されてしまった。また、これ以降農村内には市場経済が浸透し、伝統的なコミュニティは徐々に 崩壊していくこととなった。このようなクミッラ県での実験内容は、「コミラモデル」としてそれ以降の農 村開発のあり方を規定するものとなった。

そして 1971 年のバングラデシュ独立以降、「コミラモデル」は農村の近代化・組織化のモデルとして IRDPを通して全国に普及・拡大していった。それに伴い多収穫新品種の作付面積並びに米生産量は増大 したが、そこでの収益金はTCCAに集中した。そのため、農村内では経済格差を始めとする新たな社会的 矛盾が拡大した。こうした矛盾を抱えたまま、バングラデシュ農村では今なお外国主導による農村開発が 繰り返し行われているが、農村には失業者や不安定就労者が滞留し、絶対的貧困層が抱える問題は未解決 のままである。そのうえ、早くから灌漑設備が導入された地域では、砒素の問題が深刻化している。

また、化学肥料や殺虫剤の大量投入によって農地が著しく消耗しており、農作物の収穫量にも影響を 及ぼしている。

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