《法語》
【聖人伝】
た り き
他力の信心うるひとを
し ん ぬ
すなわちわが親友ぞと
うやまいおおきによろこべば
越後に流されて5年、1211(建暦元)年11月、39歳の時、親鸞聖人は法 然上人とともに罪を許された。しかし、それもつかの間、翌年1月25日に法然上 人が世を去ったという悲報がもたらされた。そのためもあってか、聖人は京都には 戻らず、1214(建保2)年42歳の時に、妻子とともに の地へと旅立
こ う ず け さ ぬ き
つ。途中、上野 国 佐貫 で土地の人々のために を千部読誦すること をはじめたが、4、5日の後に思いかえしてそれをやめたと伝えられている。
せ そ ん
教主世尊はほめたまう
(『正像末和讃』、『真宗聖典』505 頁)
む さ し ひ た ち
上野国から 武蔵国を経て 常陸国に入り、 の地に草庵を設けた。以後約
し も う さ し も つ け
20年の間、常陸国を中心に 下総 国・下野 国まで歩みを進め、多くの人々と出あ
も ん り ょ きょうみょう ちょう
い、交わりをもっていった。教えを受けた人々は、『親鸞聖人 門侶 交 名 帳 』な どに伝えられる70数名を中心に、数千人にも達したであろうと考えられている。
こうして、関東においての歩みの中から念仏者の僧伽が形成されていったのであ
る。
視点 御同朋
お ん ど う ぼ う
・御同行
おんどうぎょう
私たちは他人と出あうとき、自分の“ものさし”で他人をはかる。自分と趣味が 合うかどうか、自分より知識があるかどうか、自分と利害が共通するかどうか。私 にとっての都合の良し悪しで他人を判断している。そこには、基準である私自身が 問い返されてくることはない。「気に入らないと思っていたが、よくよく話してみ るといい人だった」などという場合、変わったのは相手ではなく、自分の“ものさ し”が変わったに過ぎないのではなかろうか。
“ものさし”で他人を問うのではない、“ものさし”そのものが問われるのであ る。
親鸞聖人が関東で出あわれた「いなかのひとびと」の中には、文字も知らない人 が多数いた。教えを受けとる側としか成り得ないこの人々に対し、聖人は「御同朋
・御同行」と大切に出あっていかれた。その人々と共に和する中に、“ものさし”
を問われ、「念仏もうす」しかない自分の有り様を深くいただかれながら、“親友
”との出あいをはたされたのである。
友・共・朋。あなたの周りに、本当に“とも”と呼べる人はいるだろうか。
★ノート★
§資料1
『唯信鈔ゆいしんしょう
文意
も ん い
』
★ノート★
ぐ ば く ぼ ん ぐ と こ げ る い む げ こ う ぶ つ
、屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本
ぼ ん の う だ い ね は ん
(『真宗聖典』552 頁)
の凡愚
変
」は、こがねという。かわら・つぶてをこがねに
われらなり。
ひとすじに、具縛
ち え みょうごう し ん ぎょう
すれば、煩悩を具足しながら、無上大涅槃
は、あき人なり。これらを下類というなり。「能令瓦礫 成金」とい
」は、せしむという。「瓦」は、か
」は、「変成」は、か えなすという。「金
かえなさしめんがごとしと、たとえたまえるなり。りょうし・あき 人、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなる
ぼ ん の う ぼ ん
願、広大智慧の名号を信楽
」は、よくという。「令
」は、つぶてという。「変成金
の う りょう が
うは、「能
りゃく へ ん じょうこん へんじょう
わらという。「礫
こ ん ぐ ば く
は、よろずの煩悩にしばられたるわれらなり。煩 にいたるなり。愚縛
は、みをわずらわす。悩
の うは、こころをなやますという。屠は、よろ
とずのいきたるものを、ころし、ほふるものなり。これは、りょうし というものなり。沽は、よろずのものを、うりかうものなり。これ
こび と げ る い のうりょう が り ゃ く へ ん じょうこん
ゆかりの地をたずねて・・・
⑫稲田草庵跡(西念さいねん寺) ⑬鹿島神宮
常陸に入られた親鸞聖人は、しばらく
して笠間か さ まの稲田に草庵を構え、教えを広
めるとともに、『教行信証』の執筆に取 りかかられた。草庵跡と伝わる稲田禅房 西念寺(稲田御坊)は、「浄土真宗別格 本山」と号する単立の寺院で、境内右手 を上ったところに、聖人の頂骨(頭部の 遺骨)を納めたとされる「聖人ご頂骨堂」
がある。また付近には、聖人がこの地を 離れられる際に、草庵を振り返られたと いう「見返り橋」のモニュメントがある。
所在地/茨城県笠間市稲田
交通案内/JR 水戸線「稲田」駅から徒歩 15 分
有史以前からの伝承を持ち、古くから 常陸国一の宮として尊崇を受けてきた。
親鸞聖人在世の頃には、他の神社と同 様、神仏混淆こんこうで境内にはいわゆる「神宮 寺」があり、仏教の聖典も豊富に納めら れていたと考えられる。聖人は稲田の地 から、聖教類を求めてしばしば通われた と伝えられ、その道すがら念仏の教えを 説き、多くの人々が帰依したという。無 量寿寺を開いた順信などはその代表格 である。
所在地/茨城県鹿嶋市宮中
交通案内/JR 鹿島線「鹿島神宮」駅から 徒歩 10 分
い な だ
【聖人伝の空欄】関東、浄土三部経、稲田