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第一章 自然法と正義

第一節 神認識と社会的生活――神的共同体への傾き

さて,「人間にとって固有である理性の本性にそくした善への傾きが人間に内在して」おり,

「神に関して真理を認識することや,社会のうちに生きることに関する自然本性的な傾きを人 間は有している」(1)

じっさい,「聖なる教えの根源的な意図は,神に関する認識を伝えること」であり(2),この ことが『神学大全』全体の目的にかかわっている。もちろん,この場合の「神」とは,キリス ト教の神にほかならない。そして,社会科学だけではなく,人文科学でさえも,「神」は考察の 対象外に押しやられ,神という言葉が出てきたとたんに,議論そのものが不可能になるような 印象すら持たれる。そのためか,この個所の引用において,「神認識」について触れようとしな い場合もある(3)

「神に関して真理を認識すること」は,たしかに,本来的にはキリスト教の神認識を意味す るとしても,たとえば,「宗教的な真理へと開かれていること」や,「目に見えないものに対す る畏敬の念を抱くこと」のように,より普遍的に解釈することは,けっして不可能ではないよ うに思われる。もし,このような解釈が可能であるならば,先の第三の傾きにおいて「神認識」

と「社会的生活」が同列に扱われていることは,我々にとって,近代という時代の転換にかか わるような,きわめて重要な意味を持つのではないだろうか(4)

すなわち,人間が「社会のうちに生きる」ということは,たんにペルソナとしての理性的成 熟によってもたらされるものではない。また,人間が自らの存在としての善を完成させること から必然的にもたらされるわけでもない。むしろ,このことは,何らかの宗教的な,超越的な,

目に見えない真理への態勢づけから可能になるのである。そもそも,「愛」にしても「絆」にし ても,目に見える側面は限定的である。共同体の連帯性における根拠と考えられる「紐帯」は 目に見えない何かであって,物質的なものはその「しるし」なり「象徴」にすぎない。

たしかに,「全体の善がそのいかなる部分にとっても目的であるように,共同善は,共同体の うちに存在している個別的な個々のペルソナにとっての目的である」(5)。そして,「全体が属す る共同善とは神自身であり,神のうちにすべての者の至福は成立して」おり,「ちょうど部分が 全体の善へと秩序づけられるように,直しき理性と自然本性の誘発にそくして,おのおのの者 は自ら自身を神へと秩序づける」(6)

共同善は,究極的には,そこにおいて,おのおのの人間の至福が認められる善であり,その ため,「法はすべて,共同善へと秩序づけられている」(7)。そして,共同善の超越性という観点 から,神認識と社会的生活が密接に結びついていることは明らかである。じっさい,「精神と身 体の関係」と「個と共同体の関係」という,我々にとって根本的な問題も,かかる観点から解

決の糸口を探らなければならないであろう。

もし,トマスの自然法論に何か現代的可能性が見いだされるならば,その可能性とは,人間 の自然本性にそくした「自然本性的傾き」という仕方で提示されるであろう。それは,まさに

「神的共同体への傾き」として解されうる。そして,この「傾き」そのものが人間の超越性の 根拠でなければならない。すなわち,「超越的な共同善への運動を可能にするところの超越性」

なのである。

この「超越性への傾き」をどのように論証していくかが,トマス研究において問われている。

たんなる古典研究で終わるか,それとも現実的探求に結びつくか否かは,超越性の解釈にかか っていると,筆者は考えている。

第二節 自然法と人間的行為――主権の完成

「人間であるところの,また人間が為しうる,さらに持つところの全体は,神へと秩序づけ られなければならない」ということから,「人間による善きないし悪しき行為すべては,行為の 性格そのものにもとづいて,神のまえにおいて,功徳や罪業という性格を有する」(8)。人間は 神的共同体の部分として,自らのはたらきの“dominus”であり,その主権は,あくまで神との 関係において成立している。

たしかに,「おのおのの理性的被造物には,永遠法に調和するところのものへと向かう自然本 性的傾きが内在して」おり,「我々は生まれつき徳を持つべくできている」(9)。そして,「善は 目的という性格を,これに対して悪はその反対の性格を持つがゆえに,それへと人間が自然本 性的な傾きを持つところのものをすべて,理性は,自然本性的な仕方で,善なるものとして,

そしてその結果,行動によって追求すべきものとして捉え,また,それらとは反対のものを,

悪であり避けるべきものとして捉える」のであり,「それゆえ,自然本性的な傾きの秩序にそく して,自然法の規定に関する秩序は存している」(10)

したがって,このような自然本性的な傾きにそくするという仕方で,人間は善を追求し悪を 避けることができるのであり,そのかぎりにおいて,自らのはたらきに関する主権は,自然法 の規定にしたがうことによって,完成へと導かれると言えよう。すなわち,自らのはたらきの

“dominus”としての主権は,かかる自然本性的な傾きにそくして完成され,人間的行為は自然 法を通じて共同善である神へと正しく向かうことが可能になる。かかる主権は,もちろん善に も悪にも向かいうる運動において成立しているとしても,自然法にもとづいて,より完全なも のになりうると考えられる。

じっさい,「理性的被造物自身においては,それによってしかるべきはたらきと目的への自然 本性的な傾きを有するところの,永遠なる理念が分有されて」おり,「それによって我々が,何 が善であり悪であるかを判別するところの,いわば自然本性的な理性の光が自然法に属してい るのであり,自然法とは我々における神的な光の刻印にほかならない」(11)。それゆえ,人間 的行為の倫理的性格は,そのはたらきと目的が,「しかるべきはたらきと目的」であるか否かに かかっているということになる。

このように,人間には,目的としての性格を有する善を追求し,目的とは反対の性格を持つ

悪を避けるように導くところの,「自然本性的な傾き」が存している。しかるに,「法とは,あ る完全な共同体を統宰する統治者における,実践理性の何らかの命令にほかならない」(12)。 そして,「おのおのの法がそれへと秩序づけられることは,従属する者たちが法に服従するとい うこと」であり,「従属する者たちをそれぞれに固有な徳へと導くことが法に固有であることは 明らか」であって,「法の固有な効果とは,法が与えられるところの人々が,端的な仕方で,あ るいは何らかの意味で,善い人々となさしめることであると帰結される」のである(13)

この個所から,本論文第二部第二章第五節で言及したところの,自然法における能動と受動 という構造が認められよう。しかしながら,この構造は,人間の主権そのものに深く関係して いる。じっさい,人間的行為は「人間が自分自身を動かす,そして,人間が自分自身によって 動かされる」という能動と受動にもとづいて成立する(14)

それゆえ,ちょうど「“dominus”の命令を通じて“servus”が何かを為すために動かされる ように,自らの意志によって動かされる」ような仕方で(15),人間は実践理性の命令によって 固有な徳へと動かされるが,この受動性は「考量された意志から発出するかぎりにおいて」と いう(16),意志の能動性を可能にしている。さらに,人間的行為における能動と受動の構造は,

徳の形成に直結しているのである。

第三節 徳と習慣――目的への傾き

では,そもそも「徳」とは何を意味しているのであろうか。トマスは「徳の本質(essentia)」

について論じている『神学大全』第二-一部第五五問題の第一項で,「人間的徳(virtus humana) は習慣であるか」を問題にしており,その主文で次のように言っている。

徳とは能力の何らかの完全性の呼び名である。しかるに,いかなるものの完全性も特にその 目的への秩序づけにおいて考察される。さらに能力の目的とは現実態である。それゆえ,能 力は自らの現実態へと確定されるかぎりにおいて,完全であると言われる。(中略)しかるに,

人間にとって固有である「理性的能力」は,一つのものへと確定されているのではなく,多 くのものへと不確定な仕方で関係している。先に述べられたことから明らかなように,「習慣」

によって現実態へと確定されるのである。それゆえ,人間的徳は習慣である(17)

徳とは,「能力の完全性」に他ならない。しかるに,「ある能力から発出する行為はすべて,

能力の対象が有する性格にそくして,その能力から原因されることは明らか」であり,「意志の 対象は,目的であり善である」ゆえに,「すべての人間的行為は目的のためにあるものでなけれ ばならない」(18)

さらに,「能力の目的とは現実態である」が,「おのおののものは,可能態ではなく,現実態 にそくして種を獲得」し,「運動は何らかの仕方で能動と受動に区別されるから」,「能動は,は たらきの根源である現実態から,これに対して,受動は,運動の終局である現実態から」種を 獲得する(19)。人間的行為において,現実態とは目的であり,したがって,人間的な徳は現実 態である目的への確定にかかわるところの完全性であると言えよう。

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