アブストラクト
知識は人類に普遍的に所有されているわけではない。富と同様に、知識にも持つもの と持たざるものとが存在する。「知と無知の落差」によって、持つものは力を獲得し、
持たざるものはその力を奪われる。しかし、この力の差異は単なる知識の有無による 差異ではない。知識の有無が社会的に固定化されることで、知識は社会的な力を帯び ることになる。この力の生成過程には二つのタイプがある。ひとつは、生み出された 力を社会化するものであり、もう一つは存在する知識を社会的に隠蔽するものである。
3-1 はじめに
前章では、主体の多様性に応じた多様な知識が成立する可能性を確認した。そこでは、
(1)アフォーダンスをめぐる研究者による法則的知識と被験者による個別的な判断、(2)放射
性物質の分解に関する研究者の判断と羊の特性に関する農民の知識をとりあげた。それら の多様な知識の中でどれが知識として認められるかは、知識の持ち主(主体ないし主観)
の社会的関係や、知識が用いられる文脈などに依存している可能性が明らかになった。
本章では、主体と主体との関係の中で「知識」を捉えなおし、知識の社会性の検討を試 みる。まず、知識の「社会的力」の概念を確認する(3-2節)。次に、この力の生成のプロ セスを検討する(3-3節)。最後に、この概念を用いて、知識の暴走や隠蔽といった現代的状 況を、知識にとって付随的・外面的な出来事としてではなく、その特性の一つとして捉え ることを試みる(3-4節)。
3-2 知識の権力化 3-2-1 主体の分割
主体と対象との二項関係的図式の中では、対象をありのままに再現することが知識の条 件であり、対象との一致や対応が真理と虚偽を選り分ける規準とされてきた。しかし、周 知のようにこの規準は固有の困難を抱えている。対象との一致を確認するために対象と表 象とを比較しようにも、わたしたちは表象という回路とは別に対象そのものに到達する手 段を持っていない。対象と表象との一致といっても、それはもうひとつの表象との一致や 整合性にしか過ぎないのである。
この困難をどう克服するかという問いは、認識論や科学哲学の中心的テーマのひとつだ ったといえるだろう。しかし、その議論にさまざまなヴァリエーションがあるとはいえ、
原則的にはあくまでも知識を対象(object)とのかかわりの中で捉え、客観的(objective)であ ることを指標にして、知識の可能性や不可能性が論じられてきたといえる。
こうした観点では、知識の持ち主(subject)が積極的に議論に呼び込まれることはない。
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主体の作用は認識過程を外部から撹乱するノイズとして扱われ、主体なき認識こそ知識の あるべき姿とされることになる。ノイズの除去が不可能であれば、「真理」は到達不可能な 幻想であり、知識は成立せず、すべてが主観的(subjective)な思い込みにすぎないという結 論さえ引き出されることになる14。
知識が対象との二項関係でとらえられれば、対象は認識の進み具合に応じて二つの領域 に分割されることになる。すでに知られた既知の世界と、まだ知られていない未知の世界 である。「知」と「無知」の分割線が対象世界の中に引かれるのである。知識の進歩とは未 知の領域を既知のフィールドへ囲い込むことであり、知識の拡大とは無知の領域の減少に ほかならない。研究者はいわば未踏の領域に分け入る探検家であり、広大な未知の闇を一 歩一歩理性の光で照らし出し、知識の「フロンティア」を先へ先へと推し進めているとい うイメージがここに重ねられる。
その際、研究の主体はひとしく「われわれ」として、あたかも単一のまとまりのように 扱われ、その多様性や差異性が議論の表に現われることはない。むしろ主体の側の差異は、
ノイズを拡大する因子として認識活動から排除されるべきものとみなされている。知識は あくまで「人類」全体の共有物であり、主体の分割は議論のテーマとはならない。
しかし、ここに大きな過誤が潜んでいないだろうか。「新大陸」の発見は、あくまで西欧 という特定領域の人びとにとっての発見にすぎなかった。同様に、科学の「進歩」にして も、だれもが等しくそのプロセスに参与しているわけではない。知識の所有にはあきらか なバラつきがある。一括して「われわれ」と呼ばれてきたものは、じつは無数の主体から 構成される複合体にほかならないのである。一人ひとりが持つ知識は、その人の立場や環 境や能力の違いに応じて異なるだろうし、同じ対象、同じ事柄についても、視点のちがい に応じてさまざまな知識のあり方が考えられるだろう。実は主体の側にも、「知」と「無知」
の複雑な分割線が引かれているのである15。
知識はまた、有用性を手がかりにしても論じられてきた。持ち主にとって役に立つ「力」
として理解されてきたのである。知識が「われわれ」すべての共有するものであれば、そ れは人類全体にとって有用であり、知識の拡大はすべての人びとの幸福の増大を意味する かのように思われる。その限りで、それはだれからも肯定されるべき善ということになる だろう。
しかし、主体の側に分割線が走り、それに応じて知識の不均衡やバラつきが存在するの
14 主観が認識の形成に積極的な役割を果たしているとされる場合であっても、たとえばカ ントに典型的にみられるように、そうした作用はすべての主観に普遍的に成り立つ形式に もとづくものとされ、個々の差異や多様性は認識の成立過程から暗黙の内に排除されてい る。
15 「多様な知」という観念は、これまで形容矛盾に等しいものと考えられてきた。しかし、
複数の主体による単一の対象の認識は、主体の多様性に応じて多様になると考えられる。
「真理はひとつ」という理念は、この多様性の消去によってもたらされる(本稿第3章)。
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であれば、人びとが手にする力もまた不均衡にバラついていることになる。知識の拡大は 人類一般にひとしく力をもたらすのではなく、強者と弱者の分割を生み、幸福と同時に不 幸をもたらすことになるのである。
3-2-2 落差としての無知
「無知」は一般的には「知識の欠如」として理解されている。しかし、「欠如」とは「な い」ということであり、ないものは見ることも、考察の対象とすることもできない。欠如 としての「無知」は知識をめぐる議論の射程圏内に像を結ばない。
無知がたんなる欠如であれば、欠如は補えばよいという発想が生まれる。知識の所有に まつわる人びとのバラつきは、知識を補充することで、あるいは知識ある者の発言に耳を 傾けることで補われるだろう。つまり、無知な人びとには教育を施せばよい、もしもそれ が不可能ならば、すべて知識ある者に任せればよい、という発想である。科学研究や技術 開発によって新しい知識が生み出され、社会的に普及するたびごとにリテラシーが問題と なるのは、こうした発想からといえるだろう。ここからは専門家によるパターナリズム的 状況が生じることも見てとれる。知識は主体の間に主従関係を生み出すのである。
しかし、はたして無知は欠如を補うことで、つまり知識を補充することで解消されるだ ろうか。むしろ現実には、知識の補充や拡大がいっそうの無知を生みだしていないだろう か。私たちの日常的経験は、むしろこうした状況を肯定する出来事にあふれているように 思われる。
たとえば、社会生活に新しい技術が導入されれば、多くの人びとにとって扱い方のわか らない機械や意味不明な言葉があふれることになる。コンピューターが社会に導入され、
日常的な業務がそれなしになりたたなくなれば、人びとはキーボードの扱い方を学び、難 解な用語の意味や複雑なシステムの構造に悩まなければならない。
しかも、ひとつの機器の使用法をマスターするころには、「次世代」機器が出回るように なる。新型は知らぬ間に時代遅れになり、かつての「フロンティア」はいつしか後方に取 り残される。人びとが最新の知識を追いかけても、これを逃れるかのように、「知」は先へ 先へと去っていくのである。
変化に対応し続けなければ、人は「無知」の烙印を押され、「遅れた」者として、さまざ まな不利益を受けるかもしれない。多くの人々にとって、いっこうに「無知」は解消され ず、むしろ科学技術の「進歩」が歩調を速めるにつれますます拡大しているかにさえ感じ られる。いずれにせよ、たとえどれほど知識の習得に努めても、だれもが専門家になれる わけではない。特定分野で「最先端」を走る人物も、一歩そこを離れれば素人でしかあり えないだろう。科学技術の発展による知識の拡大は新しい無知を生み出し、新技術や知見 が登場するたびに知と無知の新たな分割が行われているのである。科学技術が「高度化」
すれば、ますますこうした状況が深まっていくだろう。