たとえ「核抑止力主義」が非理性的であっても,その秘めた力を認めないわけにはいか ない。おおよそ70年も続いているからである。Chapmanが辛辣に語るように,最後には
「人々は自己破壊を……意味が分からないことよりも好む(32)」と。まだ起きていないこ とを理性的に理解することはきわめて難しく,人間の心と感覚を破滅的,神話的な力へと 向かわせる。これらがもたらすイメージは一種の気晴らしであるが,しかし,本当の黙示 的世界を,核兵器の使用で思い描くことをやめるという行為を抑えることが出来なくなる。
究極的に,増大する「核抑止力主義」の問題を解決しようとしても,その実体を理性的に 把握することが出来ない。核による大災害の結果を詳細に科学的に見通すことは何年にも 亘って広範になされてきたし,確かな証拠を基礎にもつ。しかし,集団自殺行進をすると 言われる特徴的なタビネズミのように,世界規模の核兵器による破滅への集団行動へ至っ た時に,もし解決があるならば,人間にふさわしい枠組を宗教のレベルで見出すことにな ろう。Chernusが示唆するように,核兵器を理性的に評価する立場の人々はこの点を欠落 している。
人間は全体的に豊かで,実りある生活のイメージを提供してくれる神話的な枠組みを必 要としている。この点は旧約聖書の預言者ホセアによって十分に理解されている。今日の 我々は世界規模に匹敵する破壊に今直面していなくとも,しかし預言者は,「彼の」世界 が危機に直面していて,それを同胞らに告げたのである。彼は人々を力強いヘブライ語の イメージをもつ「シャロームshalom」の中に据えたが,その言葉の本来の意味は「平和」
であった。しかも「シャローム」は,敵意がないというところに止まらず,人生が,健康 においても精神的にも,社会的にもめぐまれているという豊かな概念をもつ。「シャローム」
は,十分な食料,飲料,人間同士の豊かな交わりであり,人間の争いのない,という意味 をもつ。ホセアの社会的,政治的天分は,「シャローム」の時が「他の」国々が軍備を捨 てる時に来るというのではなく,「自分の」国がそのような武器をもはや所持しない時に 来るということを示唆している点にある。
現代世界にあって,もちろん,ホセアの言葉は平和作りのために極端でラディカルな方 法に聞こえるかもしれない。しかしホセアのビションは,有形・無形の偶像を避け,主人・
奴隷の関係よりは夫婦の関係に近い神との契約の中にある人々に向けられている。ただ唯 一このような「シャローム」のイメージが,過去60年以上もの間世界に存続している全 滅のイメージを覆(くつがえ)す時に,この地上での豊かな人間の未来にとっての真の希 望となるであろう。現時点で,悪化する我々の世界は「シャローム」らしきものからほど 遠い。人間の欲と軍備による安全という偶像は優勢である。それゆえ,教会の預言者的職 務はそのような偶像に否を言うべきである。平和の君,イエス・キリストの福音は,神の 恵みを通して新しい生のシンボルとして体を裂き,血を流されたことにあり,決して「国 家の安全」という偶像的な枠組みを人間的に作り上げることを通してではない。最後に,
私はホセア書2章16-23節の預言者の言葉をもって締めくくりたい。
それゆえ,わたしは彼女をいざなって,荒れ野に導き,その心に語りかけよう。
そのところで,わたしはぶどう園を与え,
アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。
そこで,彼女はわたしにこたえる。
おとめであったとき,エジプトの地から上ってきた日のように。
その日が来ればと,主は言われる。
あなたはわたしを,「わが夫」と呼び,
もはや,「わが主人(バアル)」とは呼ばない。
わたしは,どのバアルの名をも,彼女の口から取り除く。
もはやその名が唱えられることはない。
その日には,わたしは彼らのために,
野の獣,空の鳥,土を這うものと契約を結ぶ。
弓も剣も戦いもこの地から絶ち,彼らを安らかに憩わせる。
わたしは,あなたととこしえの契りを結ぶ。
わたしは,あなたと契りを結び,正義と公平を与え,慈しみ憐れむ。
わたしはあなたとまことの契りを結ぶ。
あなたは主を知るようになる。
その日が来れば,わたしはこたえると,主は言われる。
わたしは天にこたえ,天は地にこたえる。
一ゆるしとは何か ﹈
ゆるしとは何か
佐々木 勝彦
はじめに
﹁主よ︑兄弟がわたしに対して罪を犯したなら︑
﹁七回どころか︑七の七十倍までも赦しなさい﹂︵マタ
・二二︶とイエス・キリストが答える場面です︒そのよう
︒たとえそうしたとしても︑
むしろ悪をはびこらせるだ
⁝⁝
国と国の関係に至るまで︑ ミクロの世界からマクロの世界まで︑対話が可能になり︑﹁戦意
高揚﹂の仕掛けは不要になるはずです︒
二十世紀は︑科学の世紀であると同時に戦争の世紀でした︒そ
して残念ながら︑二十一世紀もその実体は変わりません︒科学の
発達により︑相手の﹁顔﹂をイメージせずに︑殲滅することが可
能になりました︒その技術はますます精巧になるばかりで︑何の
痛みも覚えずに
︑﹁顔のない﹂相手を抹殺することができます
︒
かつては夢物語であった﹁監視衛星﹂が現実となったように︑や
がて地下に隠された秘密兵器でさえ見通すことができるようにな
るのかもしれません︒
しかしいずれにせよ︑戦いを仕掛けるには︑それだけでは足り
ません︒最後の切り札がなければなりません︒それは︑﹁憎しみ﹂
二
︑つまり危機感に基づく﹁敵意﹂です︒これさえ醸成
︑戦争は思い通りであり︑ホロコーストも︑
︑その
﹁恐怖﹂を人質に
「︑ 憎しみと怒り
」
︒﹁積極的平和主義﹂などという
︑甘く
︑
﹁教育﹂の指導理念になろうとしています︒︑﹁平和﹂を実現するには﹁武力﹂が不可欠であるとする
﹁憎しみと怒り﹂を煽ろうとする思想です︒それは﹁非
︒力には力を
︑﹁
目には目を
︑
︵マタイ五・三八︶の論理で突き進もうとしています︒︑﹁剣をさやに納めなさい︒剣を取る者は皆︑剣で滅
︵マタイ二六・五二︶と語ったのは︑やはりイエス・キリス
またヨハネは︑「 剣をさやに納めなさい︒父がお与えになっ
」︵一八・一一︶という言葉も伝えてい
・キリストは︑﹁敵を愛し︑自分を迫害する者のた
︵マタイ五・四四︶と教え︑﹁わたしたちの負い キリスト教教育は︑これらの言葉に基礎づけられた教育です︒
それは︑﹁腹を立ててはならない﹂︵マタイ五・二一以下︶︑﹁復讐
してはならない﹂︵マタイ五・三八以下︶︑﹁人を裁くな﹂︵七・一︶
と語り続ける教育です︒
以下に紹介するのは︑これらの思いを反芻する中で出会った書
物です︒﹁ゆるしとは何か﹂というテーマを念頭に置きつつ︑対
話した相手です︒││なお︑引用文献における﹁ゆるし﹂︑﹁許し﹂︑
﹁赦し﹂という日本語表記のちがいは︑邦訳原文を尊重した結果
であり︑あえて統一することはしませんでした︒
Ⅰ﹁憎しみ﹂はどこからくるのか
最初に紹介するのは
︑ラッシュ
・
W・ドージア
Jr.著
﹃ 人はな ぜ「憎む」のか﹄︵桃井緑美子訳︑河出書房新社︑二〇〇三年 Rush W. Dozier, Jr. Why we hate ? Contemporary Books, 2002
︶ で す
︒ 原著は邦訳の一年前
︵二〇〇二年︶に出版されており
︑著者は
ピューリツァー賞を受章した作家です︒彼はハーバード大学を卒
業した後︑新聞編集者︑弁護士として活動するかたわら︑ノンフィ
クションの作品を発表しています︒彼の得意とする手法は︑ひと
つのテーマを︑自然科学︑心理学︑社会学などの多様な視点から
三ゆるしとは何か ﹁憎しみ﹂を多角的に分析しています︒
の 発 行 年 次 か ら 推 測 さ れ る よ う に
︑ 執 筆 の 背 景 に は︑
﹁﹃憎しみ﹄は心の核兵器﹂であり︑爆発す
︑なぜ憎むのだろうか︒進化の観点からみると︑答え
︒憎悪とは︑進化の主たる目的である生存と生殖をおび
憎悪は極度の激しい嫌悪であり︑極度の恐怖︑すなわ︒︵﹃人はなぜ憎むのか﹄桃井緑美子訳︑ ・憎悪は状況によってさまざまに表現される︒怒り︑憤懣︑屈辱︑
嘲り︑嫌悪︑回避︑憤慨︑無視︒高笑いしながら酷いことをする
ように︑憎悪はプラスの情動をマイナスの情動に変えることもあ
る︒しかしこれらの情動すべての根底にあるもの︑そして憎しみ
を抱くときに感じるもの︑それはたとえおくびにもださなくても︑
敵意である︒もっとも長引く激しい敵意︑それが憎悪なのだ︒︵三五
頁︶
・憎しみは︑生存と生殖という進化の主たる命令を実行するよう
にプログラムされた辺縁系が生みだすものである︒扁桃体とそれ
に連絡している辺縁系のほかの部位は︑危険と機会││草むら
にひそむヘビとそれから逃げるための最短の方法││を検知す
る仕事をしている︒辺縁系は生存のための原始的な反応をつかさ
どる部位であるため︑扁桃体がいったんヘビらしきものを危険と
みなすと︑その反応は変えにくい︒︵三一頁︶
・憎悪にはおもな要素が四つある︒しつこく激しい嫌悪︑否定的
な二項区分のステレオタイプ化と一般化︑共感の欠如︑そして攻
撃︵闘争反応︶を引き起こす根本の敵意である︒⁝⁝憎悪の表現
はじつに幅広い︒だがどの場合も裏に敵意が隠れている︒憎悪を
生む情動や感情はさまざまだ︒欲求不満︑妬み︑悲嘆︑苦痛︑恐怖︑