―牧会カウンセリングにおける聖書の使用から
ヘルムート・タケの「聖書に方向づけられた牧会」は、聖書を関係の言葉と して位置づけ、対話の中に聖書をもたらすという理論によって、トゥルナイゼ ンの牧会のもっていた、権威主義的傾向を修正していた。ここで、「聖書に方向 づけられる」とは、どういうことを意味しているのだろうか。ここで考えてい る「聖書」をどのように考えるか、また対話の参与者の関係性によっては、排 他的になり、再び権威主義的傾向を帯びることはないのであろうか。対話にお いて、聖書を用いるということについては、さらなる考察が必要である。
カウンセリングの理論や手法を用いて牧会の実践を行うことを、牧会カウン セリングというが、この牧会カウンセリングにおいて、カウンセリングの理論 に偏り過ぎてしまうことに対する反省から、実践において聖書を用いることに よって、牧会の独自性を主張する試みがいくつか見られる。確かに、聖書を用 いるという行為によって、明らかに他のカウンセリングの実践と区別すること はできる。しかしこのとき、聖書を用いさえすれば、牧会の独自性が成り立つ ものなのだろうか、という疑問がもちあがる。
牧会カウンセリングの実践に聖書を用いるアプローチとしては、福音派の
J.E.アダムズ(Jay E. Adams)の提唱した、ヌーセティック・カウンセリングの
流れをくむ、ビブリカル・カウンセリングがある。また、もう一方には、社会 構成主義から派生した、ナラティヴ・アプローチに基づく実践において、聖書 を用いる取り組みがある。ナラティヴ・アプローチとは、個人や集団に対して、そこで語られるライフイベントの再解釈や書き換えを援助する310ことを目的 とするアプローチである。このアプローチの、対話のプロセスに対する繊細な
310 Cf., Gary R. Vanden Bos, editor-in-chief, APA dictionary of psychology, Second Edition, American Psychological Association, 2007, p.687.
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視点は、牧会的対話においても、有益な問いを投げかけてくれるものである。
この、立場の異なる二つのアプローチを比較することによって、それぞれが 牧会カウンセリングにおいて聖書をどのような役割として用いているかを明ら かにすることは、聖書に方向づけられた牧会における聖書の役割を考える上で、
益となるだろう。
したがって、本章では、福音派のビブリカル・カウンセリングと、社会構成 主義から派生したナラティヴ・アプローチの各方法論の中で、聖書を用いる二 つのアプローチを比較・分析することを通して、牧会的対話における、聖書の 役割とその目的、および問題点を明らかにする。
1節 ビブリカル・カウンセリング
(1)ビブリカル・カウンセリングについて
ビブリカル・カウンセリングについて考える際に、まず、その草分け的な位 置づけにある「ヌーセティック・カウンセリング(Nouthetic counseling)」311 というアプローチについて触れておきたい。これは、
J. E.アダムズ
312によって 導入された、聖書に基づく牧会カウンセリングのアプローチである。このアプ ローチは、聖書の中に出てくる、ギリシャ語のヌーセシス(名)、ヌーセテオー(動)から命名された。ヌーセテオーは、「忠告する」「警告する」「教える」「助 言する」の意味をもつ言葉である313。アダムズは、この言葉の本来の意味を重 視するがゆえに、ギリシャ語の発音をそのまま用いて「ヌーセティック・カウ
311 ジェイE.アダムズ著、柿谷正期・窪寺俊之訳・柿谷正期監修『カウンセリングの新しいア
プローチ』いのちのことば社、1978年(Jay E. Adams, Competent to Counsel, Baker book house,1970)。
312 ジェイE.アダムズ(1929-)は、アメリカの牧会学者。ジョンホプキンス大学(A.B.)、改革 派国教会神学校(B.D.)で学んだ後、ピッツバーグ・クセニア神学校で2年間新約学専攻、
テンプル大学で実践神学を学ぶ(S.T.M.)。ミズーリ―大学で博士号取得(Ph.D.)。ウエス トミンスター神学校で実践神学を教えた(同上書参照)。
313Cf., GREEK-ENGLISH LEXICON founded upon the seventh edition of Liddell and Scott’s, Oxford University Press,1889(1975), p.536.
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ンセリング」と呼んでいる314。アダムズのアプローチは、フロイトの精神分析 やロジャーズのカウンセリングが、罪を罪とせず「病」として扱っていること315、 人々の抱える問題の原因を病気や社会の問題にすりかえて、個人の責任を軽ん じていることへの疑問から出発している。そして、問題の原因は人間の罪にあ るという考え方に基づいている316。したがって、聖書によって目の前の人の過 ちを教え、言葉によって明確に伝えてそれと対決させ、問題を克服することが 目的とされる317。たとえ相手が傷ついたとしても、結果的には相手を助けるこ とになるという理解である。
近年、ビブリカル・カウンセラー認定協会(The Association of Certified
Biblical Counselors:ACBC)
318の理事長であるヒース・ランバート(Heath
Lambert)
319が、ビブリカル・カウンセリングについての体系的な著作320を表している。このランバートの著作から、ビブリカル・カウンセリングにおける聖 書、その目的、及び問題点について検討を行う。
(2)ビブリカル・カウンセリングにおける聖書
ランバートは、ビブリカル・カウンセリングにおいて聖書を神学的に理論づ ける際に、特に「聖書の十分性(The sufficiency of Scripture)」という点につ いて強調して論じる。彼によれば、聖書の十分性は、ビブリカル・カウンセリ ングの核心的な教義であると同時に、ビブリカル・カウンセリング運動におい て、これまで最も議論されてきた321テーマでもある。
314 ジェイE. アダムズ、前掲書、97-98頁参照。
315 同上、14頁参照。
316 同上、18頁参照。
317 同上、97-107頁参照。
318 1976年にJ.E.アダムズと彼の協力者たちによって設立された。ビブリカル・カウンセラー
の養成、認定、スーパーバイズなどに携わっている。
https://biblicalcounseling.com/about/history/(2019年1月31日現在)参照。
319 ヒース・ランバートは、ビブリカル・カウンセリング認定教会の理事長。ジャクソンビル 第一バプテスト教会牧師。南バプテスト神学校ビブリカル・カウンセリングの教授。
320 Heath Lambert, A THEOLOGY OF BIBLICAL COUNSELING -The Doctrinal Foundations of Counseling Ministry, Zondervan, 2016.
321 同上、37頁参照。
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聖書の十分性は、福音派の聖書信仰の土台の一つである。その聖書的根拠と して、テモテの信徒への手紙Ⅱ3 章
16-17
節が、度々引用される。「聖書はす べて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づい て訓練するために有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い行い をもできるように、十分に整えられるのです」。この箇所から、神に喜ばれる善 い行いをする人として整えられる為に、聖書は十分であるというのが、この箇 所から読み取れる聖書の十分性の主張である。また、もう一つの十分性の根拠 として、カルヴァンの『キリスト教綱要』の次の箇所が引用される322。「聖書は 聖霊の学校であって、そこでは、知らねばならぬことや知って益あることは何 一つ省略されず、またそれらを知るように導くこと以外は教えていない」323。 この箇所の前後の文脈から判断するならば、神の恵みを知るために、聖書は十 分であるという主張がここにあると理解できる324。ランバートは、この教理を、組織神学のテーマにとどめることなく、実践神学的な解釈をすることに努めて いる。ランバートの説明によれば、聖書の十分性とは「神の意思を知り、神に 喜ばれる人生を生きるために必要なことが、すべて聖書に含まれている」325と 考えることである。ランバートはこのことをさらに、自傷行為をする
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代の少 女トレンヤンとの対話の事例を用いながら説明している326。ランバートは、こ の事例を通して、証拠聖句を並べることによるのではなく、また組織神学的な322 宇田進『総説現代福音主義神学』、いのちのことば社、2002年、242頁。
323 ジャン・カルヴァン著・渡辺信夫訳『キリスト教綱要(改定版)』第3篇、新教出版社、2008 年、21-3、428-429頁。
324 この箇所の前後では、予定論について「神の言葉以外に予定の知識」を求めて、破滅的な 知識探求に陥るのを避けるため、予定については一切語らなくなることへの注意を促してい る。カルヴァンの理解では、予定論は神の恵みに関する教えであることから、聖書の語って いる神の恵みを全て宣べ伝えるべきとの主張であると解釈できる。
325 Lambert, op. cit., p.37.
326 ランバートはトレンヤンの話を聴いていく中で、ある段階で詩編55篇を対話のテーマに取 り上げている。彼女は、両親が互いに罵り合う声に苦しんでいた。詩編の作者は「私と同等の 立場の者、友、心を許した人」(55:14)が自分を苦しめると表現しており、トレンヤンの経 験と重なるなど、この詩編には彼女の苦しみの状況と同一視できる言葉がいくつか見られる。
それらを分かち合った上で、トレンヤンが自分に身体的な痛みを与えることで、精神的苦痛か ら逃げているのに対し、詩編の作者は自分の苦痛を神様に注ぎだす機会としていることを示し、
祈りを通して神に助けを求めることができることを、神が教えていると伝え、彼女はそこから 学んでいった(Cf., Lambert, op. cit., pp.59-63)。