• 検索結果がありません。

清祓の実態とその対象行為

ドキュメント内 教養・文化論集 第5巻第1号 (ページ 113-117)

そもそも清祓とは、 具体的に何をするのだろうか。 まずは、 この点を明確にしておきたい (引用史料 の 内は割注。 以下、 同じ)。

[史料①] 春日清祓記 嘉禄2年 (1226) 3月22日条 (表番号3)。

一嘉禄二年三月廿二日夜、 寺僧延年之間、 若宮御殿

経所歟

北面之雨垂小童小便破

(浸カ)

石、 琳聖都維那下人 也、 同廿七日出清祓祭物送文 主人琳聖都維那沙汰也 、

春日清祓記 の基礎的考察

送、 春日若宮清祓祭物事、

御幣、 散米、 膝突、 父馬一匹、 牛一頭、 大刀一筋、

右清祓祭物料、 奉送如件、

嘉禄二年三月廿七日 瑠璃王丸

神殿守重春清祓了、

[史料②] 春日清祓記 安貞3年 (1229) 5月12日条 (表番号8)。

一安貞三年五月十二日、 若宮拝殿未申角少人大便、 祐定催御祓、 中小路已

(盲)

目法師云

々、 祭物、

白布一段、 清彼所了、

[史料③] 春日清祓記 天福2年 (1234) 9月6日条 (表番号18)。

一天福二年九月六日、 拝殿番巫女柳本巫也、 所

タクル

三歳許子、 手水屋板敷

(小)

便流、 任例催清祓、 祭物、 無文紺小袖一、 小鏡一面、 帯一筋出祭物、 所持銭四文、 □□一升五合、 以此宛酒直

彼所了、 神殿守清春、 番国正代清永也、 依無縁

(之カ)

也、

いずれも小便・大便といった排泄物が清祓の原因となっている事例である。 当事者より祭物が送られ、

神殿守や番神人が清祓を担当していることがわかる。 汚物のついた場所は酒で洗浄されるが、 そのよう な洗浄行為を史料②では 「清」 と表現している。 したがって厳密にいえば清祓とは、 穢物を除去ないし 汚染場所を洗浄 (= 「清」) し、 祭物を用いた祭祀 (= 「祓」) をとりおこなうことを意味する。

上記のように厳密に定義しておきたい理由は、 先行研究の多くが祓自体について、 穢の除去の意まで 含んでいると理解してきているからである。 それが、 祓に論及する先行研究の理解に、 やや混乱がみら れる要因となっている。 たとえば坂井孝一氏は、 「 清祓 とは、 穢を祓い、 不浄を清めるために神社等 で行なわれた、 一種の儀式」 とする一方、 「穢の除去=祓」 としている。 この祓の機能を穢の除去に求 める考え方は、 「住宅検断」 を祓とする勝俣氏の研究や、 その勝俣説の視角を継承して中世社会の領主 による処分を検討してきた研究にも共通してみられる。

しかし従来の法制史研究においては、 必ずしも祓をそのようには解釈してこなかったことは本稿冒頭 に述べたとおりである。 すなわち祓とは、 当事者に祓具 (祭物) を負担させておこなわれる神への祈謝・

贖罪行為なのであり、 記紀神話の段階からすでに財産刑の性格をもつものと指摘されていた。 祓そのも のに財産没収の性格が付随していることは、 おおむね認められてきたと思われる。 もちろん清田義英氏 や坂井孝一氏の論考においても、 祓のもつ財産刑的性格は指摘されている。 だが、 穢や罪の災気の除去 を祓に結びつけて論を展開する勝俣説においては、 法制史研究が説いてきた祓のもつ祭祀行為としての 性格や財産刑的性格については、 ほとんどふれられていない。

やはり問題は、 祓の理解にある。 一体、 祓とは、 穢を除去する行為なのか、 それとも神へ祈謝・贖罪 する祭祀行為なのか。 結論からいうと、 中世に生きた人々が祓自体について、 穢を除去する行為として とらえていたとは考えがたい。 なぜなら、 次に掲げるような史料10)があるからである。

一弘長二年五月七日、 寺僧学澄房厳縁家二宇在之、 一宇三歳子死亡、 而四目ハカリヲ今一 宇ヨリ八日九日十日三箇日参社、 依之社殿触穢畢、 言

上 殿下并寺家了、 任例奉御 供了、 任例被御祓也、 委細年中記在之、

同年六月八日、 遂祓 満卅一日也、 寺家御沙汰 、 学澄房送文、

送、 清祓御祭物銭事、

合伍貫文者 右、 奉送如件、

弘長二年六月一日 厳縁上

5月8日・9日・10日に学澄房厳縁が参社したことによって、 厳縁宅の死穢が社殿にもちこまれ、 社 殿が触穢するという事態にみまわれた。 ただちに氏長者と寺家に報告がなされ、 御供の停止が命じられ た。 下線部に注目したい。 祓がとりおこなわれたのは、 31日後の6月8日であったのである。 もしも、

祓が穢の除去を意味するのであれば、 そもそも日数など問題になることはない。 ただちに祓をおこなえ ばよいだけの話である。 しかし史料は、 そのようには伝えていない。 社司たちが気にかけているのは、

祓をおこなうべき日、 すなわち死穢の明ける日なのである。 6月1日に祓の祭物が厳縁より送られ、 祓 がとりおこなわれた8日に祭物5貫文が社司等に分配されている。

社殿触穢の間は、 厳縁の祓のみならず別件の祓についても催すことができず、 6月7日ないし8日に まとめておこなわれた。 社殿宿所において 「女犯」 した犯人の主人に科された祓は、 「此御祓も学澄房 社殿触穢之間、 今日遂之了」 とあるように、 祭物が送られてきた6月8日におこなわれた11)。 若宮社 において嘔吐した若宮神人時安は、 5月26日に祭物を進上したが、 「但、 学澄房社殿触穢之間、 彼日数 卅日之後、 来月七日朝可御祓、 此内直垂一具神殿守下行」 とあるように、 その祓は6月7日の 朝をまっておこなわれたのである12)。 すなわち、 厳縁による社殿触穢が影響していることがわかる。 祓 が社殿触穢によって延引しているのである。

厳縁の例をふまえると、 祓とは穢の除去を意味するものではないと判断せざるを得ない。 しかも排泄 物などの穢と死穢とは、 根本的に対応の仕方が異なる。 この点の区別を、 しっかりしておかなければな らない。 後者は、 日数が一番の問題となるのである。 人為的に穢を除去することはできない。 「中臣祐 賢記」 文永9年 (1272) 2月21日条においても、 末社である紀伊社の東に死人の頭が発見された際、

「七ヶ日穢也」 と認識されている。 祓が穢の除去を意味するとすれば、 穢が持続する日数など、 そもそ も問題とされるはずがない。 また、 祓が穢を忌避するはずもない。 日数の問題を考慮に入れないと、 清 祓の実態を正確にとらえることはできないのである13)

このような穢の日数が問題となる例は、 死穢のほかに産穢がある。 春日清祓記 永仁4年 (1296) 10月11日条 (表番号57) をみてみよう。

一永仁四年十月十一日朝、 若宮経所

シタ

犬産、 仍経所并拝殿拝屋注連引廻之畢、 巫等

候手 水屋畢、 於拝殿并拝屋者、 雖別屋上一ナル之間、 如此引廻了 穢之間、 経所御燈不

之、 日数以後神殿守遂中臣祓了 、

若宮経所の下に犬の出産が確認された。 経所ならびに拝殿・拝屋に注連がひかれ、 巫女等は手水屋に 居場所を移すこととなった。 犬の産穢の場合も、 穢の明ける日をまって祓がおこなわれるのである。 そ のほか、 「中臣祐春記」 正応2年 (1289) 正月11日条には次のような事例が記されている。

八講屋の下に死んだ犬が発見された。 社司等による集会が催され、 対応が協議された結果、 正月15日 の節供は19日に延期することが決定した。 割注に 「十八日ニ雖日数過、 為営ニ一日延引シテ十九日 可進云々」 とあるように、 犬の死穢に関する日数が問題となっていることがわかる。 続けて11日条は 次のように記している。

春日清祓記 の基礎的考察

此死犬ハエノコ也、 件エノコ去年十二月廿余日之比、 八講屋ノ下ウマルヽヲ、 神人等無沙 汰ニテ、 廿九日神主ニ常住神殿守被相触之処、 已以日数馳過、 不力トテ件日、 以神 殿守等中臣祓之了云々、 此子細於祐春正月二日聞之、 沙汰次第不然之由相存候処、

此穢出来、 神慮令然候、

そもそも、 この死んだ犬は昨年の12月20日頃に生まれていたことが神人等によって確認されていたが、

そのまま放置されていた。 ようやく29日になって常住神殿守を通じて神主の耳に入ったが、 「已以日数 馳過」 とあるように産穢が明ける日数はすでに経過していた。 本来ならば注連をひいて、 犬の産穢期 間中は現場を避けるなど相応の対応をとるべきであったが、 いまとなっては仕方ないので、 29日に中臣 祓をおこなったというのが事の顛末である。 産穢の対応に不手際があり、 さらにその犬が死んだことに よって一社全体が触穢してしまったことについて祐春は、 「神慮令然候」 と嘆くのである。 犬の死 穢に対しては、 その穢の明ける18日に祓がとりおこなわれた。 「中臣祐春記」 同日条は次のように記し ている。

今日、 犬死日数散候間、 大社并若宮中臣祓了 大社ニハ両常住神殿守、 若宮ニハ若宮神殿 守利春也 、

以上、 掲げてきた各々の史料をみてみると、 祓を単純に穢の除去ととらえることはできないことは明 白であろう。 死穢や産穢は、 穢の持続する日数が問題とされ、 その期間は、 祓はおこなわれないのであ る。 祓自体が、 穢を忌避するのである。

神への謝罪が大祓であり、 大祓は穢・災いと無関係であるとした山本幸司氏の見解14)は、 大祓だけで なく清祓の性格を考えるうえでも重要である。 また、 三橋正氏が由の祓を 「神への奉仕を怠ったことに 対する謝罪」 としていることや、 片岡耕平氏が 春日社記録 の検討から導きだした 「穢物の片付け (「清目」) →注連による穢の囲い込み→神への謝罪 (清祓)」 といった穢物の処理手続きにおいて果たす 清祓の役割についての指摘15)も、 中世社会における祓の機能を正確にとらえるために充分にふまえてお かなければならない。

春日清祓記 によれば祓とは、 祭物を用いた祭祀行為 (神への謝罪・贖罪) なのであって、 穢の除 去までは含意されていないとみるべきなのである。

さて、 春日清祓記 の冒頭には、 「清祓日記 嘉禄以後 細々」 という記述に続けて清祓の対象行為 が目録のような形で列挙されている。 それを示すと次のようになる。

差大刀、 小便大便、 鼻血、 クツチ 鼾 睡

、 嘔吐、 放火、 牛死土、 馬流産、 野牛馬等事、 女犯、 飯室穢、

召籠社家使、

以上が 春日清祓記 の考える代表的な清祓の対象行為であることがわかる。 とくに大刀を差したま までの参詣は 春日清祓記 にみえる代表的な清祓の対象行為である。 実際、 春日清祓記 には、 こ れらの行為に対してなされた清祓の記述がある。

しかし、 清祓の対象行為は上に掲げたものだけではないことは表を一覧すると明らかである。 たとえ ば御節供の新儀も清祓の対象となる16)

ドキュメント内 教養・文化論集 第5巻第1号 (ページ 113-117)

関連したドキュメント