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宇佐美雅樹

はじめに

1 .法事関係資料の検索・調査

 ( 1 )資料名に「法事」の語を含む資料について

 ( 2 )吉田郡勝見宗左衛門家文書 「正徳五年法事帳」の検討

 ( 3 )丹生郡両林家文書 「天明三卯二月一日二日法事取越覚」の検討 2 .報恩講関係資料の検索・調査

 ( 1 )資料名に「報恩講」の語を含む資料について

 ( 2 )大野郡小嶋吉右衛門家文書 「惣報恩講譲牒」の検討 3 .香典関係資料の検索・調査

 ( 1 )資料名に「香典」の語を含む資料について  ( 2 )坂井郡吉川充雄家文書の香典帳類の検討

4 .江戸時代の越前の油揚げに関する若干の考察  ( 1 )豆腐札・油揚札について

 ( 2 )油揚げの呼称と価格の表記について おわりに

 はじめに

 総務省統計局の統計資料「家計調査の1世帯当たり品目別年間支出金額及び購入数量(2016〜2018 年平均)」によると、全国の都道府県庁所在市及び政令指定都市のうち、福井市は「油揚げ・がんも どき」の家計消費支出が全国で 1 位であり、この実績は統計を取り始めてから57年間続いている(令 和 3 年 1 月現在)。また越前国域(以下、「越前」と略記)では、油揚げといえば、通常は大判で厚み のあるいわゆる厚揚げ(生揚げ)を意味することが多いことも、この地域の食文化の一つとして従来 から指摘されている。

 現在の福井県域の北部にあたる嶺北地域(旧敦賀郡を除く越前全域)に特徴的な食文化といえる

「油揚げ食」に関する研究は、これまで食物学や調理学の分野で進められており、前述の統計資料に 現れる福井市域と同様、油揚げを多く喫食する傾向は嶺北地域で強いことを明らかにしている1)。  しかしこれまでの研究は、現代における油揚げの嗜好や「油揚げ食」の状況など、油揚げの利用・

*福井県文書館主任

摂取状況の分析が研究の中心であり、この特徴的な食文化の歴史的な背景についての言及が十分では なく、寺院の分布および浄土真宗の報恩講などの仏事との関連が若干指摘されているにとどまる。こ れは、従来の嶺北地域の食文化研究が主にアンケートや聞き取り、もしくは報恩講料理等の実地調査 という方法をもとに行われているため、歴史的な側面の探究が不十分であることによる2)

 他方、これまでの歴史研究でも、『福井県史』通史編に近世の越前国内における諸商売の一つとし ての豆腐屋や営業権としての豆腐株について言及があるが、製品である豆腐やその加工品である油揚 げの生産や消費等について触れたものはほとんどない。また、県内の複数の資料群には油揚げの記録 を含む歴史資料は「献立覚」「買物覚」などの形である程度存在するものの、それらは断片的であり、

そのためか、油揚げの歴史に関する資料としてほとんど利用されてこなかった。

 1782年(天明 2 )に大坂で出版された料理本『豆腐百珍』は、豆腐料理として「油煤豆腐(あげとう ふ)」を載せる。同書は、油揚げの調製法はよく知られているとして「通品」に分類し、その名称のみ載 せている。このことから、料理としての油揚げは遅くとも18世紀後半には広く食されたものとみられるが、

越前で油揚げがいつごろから食べられ始め、またどのくらいの頻度で食されたのかは未詳である。

 現段階までの筆者の調査では、越前では江戸時代前期すなわち17世紀以前であることが確実な油揚 げの事例は確認できず、江戸時代中期頃、すなわち18世紀前半から資料に登場する3)。年未詳の資料 であるが、江戸時代中期、大野郡勝山の日蓮宗大蓮寺が勝山藩主に「揚豆腐」を献上し、これが「披 露」され「御風味」の旨が仰せ出されたため、同藩家臣の原治部右衛門を介して大蓮寺にその代金が 与えられている4)。この「揚豆腐」(油揚げ)は献上品であるため、店売りの商品でなく大蓮寺で調 理されたものと考えられるが、この事例は、油揚げが当時の武家の食生活にとってなじみがなく、献 上品に値するような食材であった一面を示していると思われる。これは一例であるが、油揚げが江戸 時代の越前でどのような場面や背景で食されたか、関連資料を検討し、現代につながる福井における 油揚げの食文化について考察することは、意味のないことではないだろう。

 福井県文書館が管理する「デジタルアーカイブ福井」は5)、任意の語(キーワード)による資料検 索を容易に行うことができ、調べようとする事柄に関する資料を抽出し、また検索結果を資料の年代 順に配列できるため、事象や事物の推移を把握することに役立つ場合がある。本稿はこの「デジタル アーカイブ福井」の検索機能により豆腐や油揚げに関する資料検索を行い、検索により抽出された若 干の資料を調査し、江戸時代の越前における油揚げ食や油揚げにまつわる生活文化などについて考察 するものである。

  1 .法事関係資料の検索・調査

 ( 1 )資料名に「法事」の語を含む資料について

 現代においても油揚げは法事の後の食事、いわゆる「御斎(オトキ)」で食されることが多いため、

法事関係の資料をまず調査対象とした。「デジタルアーカイブ福井」で「法事」をキーワードとして 資料名を検索すると、128件の資料がヒットする(令和 3 年 1 月末現在)。そのうち、油揚げまたは豆 腐の記述がある江戸時代の資料は16件、そのうち越前のものは14件と高い割合を示した。その14件の 資料を年代の古いものから順に一覧にしたものが、表 1である。

 表 1資料番号 1 の資料は、大野郡における法事の記録である。油揚げの記録はみえないものの、村人 が妙理一周忌のさいに松浦家(法華宗信徒)に豆腐を持参していることがわかる。また資料番号 2・3・

8 の資料は、浄土真宗信徒の法事に際して豆腐や油揚げを音信(贈り物)として贈ったり、持ち寄った

資料番号 出所

(郡名) 資料群名 資料名 年代 油揚げ・豆腐等に関する記述 管理番号

1 大野郡 松浦平六家 妙理いしゅうき取越

法事諸覚帳 1711年(正徳 1)3月 6日 村人が法事にとうふ 2 丁持参 K0009-00274

2 吉田郡 勝見宗左衛門家

正 徳 五 乙 未 年 二 月 二十七日法事帳(方々 ゟ音信)(ふくいかい 物)(方々へ賦覚)

1715年(正徳 5)2月27日

音信としてとうふ 4 挺。ゑ油四 合五夕、とうふ20挺購入、「平  あけとうふ」

B0037-00012

3 吉田郡 勝見宗左衛門家 法事帳 1717年(享保 2)2月 8日 音信として「とうふ札五挺」と「と

うふ三挺」。とうふ10挺購入 B0037-00331 4 大野郡 松浦平六家 妙利拾七年季法事万

留帳 1726年(享保11)4月 6日 ゑノ油、とうふ K0009-00279

5 吉田郡 勝見宗左衛門家 享保十六辛亥正月廿

七日法事帳 1731年(享保16)1月27日

「弐百文、油上ケ拾丁、但六ツ 切、壱丁ニ付弐拾文ツヽ」「五拾 四文、たうふ六丁」

B0037-00338

6 吉田郡 勝見宗左衛門家

元文五庚申閏七月九日 浄栄往生仏供香典之 帳七廻忌法事入用音 信受留

1740年(元文 5)閏 7月 9日

二匁三分三厘とうふ代、「銀壱匁 七分 とほふう七丁、こんにや く五ツ」「弐匁七分八厘 上ケと をふ八丁 壱丁ニ付廿四文」「壱 匁壱分 上ケ油弐合」

献立覚に「上ケとほふう(揚豆 腐)」、「青さきもとき(青鷺擬、

見せ消ち)」

B0037-00340

7 大野郡 松浦平六家

宗利日照様三十三廻 忌・妙利日宥弐拾七 廻忌・妙智日光七廻 忌取越法事諸覚

1765年(明和 2)2月13日 「あけとうふ」500文 K0009-00285

8 丹生郡 両林家 天明三卯二月一日二

日法事取越覚 1783年(天明 3)2月 1日

3 名がとうふ 3 丁ずつ持参、初 夜・斎・非時献立覚に「豆府」「焼 豆府」「上豆府」あり

D0055-00109

9 吉田郡 勝見宗左衛門家 法事ニ付入用覚 1783年(天明 3)3月 90文たうふ 5 丁、160文やきたう

ふ 8 丁、540文油あけ120切 B0037-00361 10 吉田郡 勝見宗左衛門家(信明院本如上人百ケ

日御法事相勤メ) 1827年(文政10)3月21日 「猪口 せんまい白あへ(薇白和

え)、茶わん 豆腐くす(葛)廻し」 B0037-00368 11 吉田郡 勝見宗左衛門家(信明院本如上人一周

忌願延御法事相勤メ) 1828年(文政11)1月19日 とうふ 2 丁 B0037-00369

12 坂井郡 吉川充雄家

御法事入用仮(祖師 600廻、奉書、白米、

酒など)

1835年(天保 6)3月 1日 のみや弥助からとうふ 8 丁、や

きとうふ 2 丁、油上 5 つ購入 C0037-00243

13 敦賀郡 中山正弥家 (提法院弐百回忌法事

控) 1857年(安政 4)6月 6日 平に「飛龍頭(がんもどき)」 M0536-00012

14 今立郡 内田吉左衛門家

泰雲様之事ニ取遣ひ 候銀留(買物代、法 事 の 時 仁 兵 衛 手 間 代、寺方納経礼銀等)

年月日未詳 「とうふ五丁、右御寺へ上ケ申候」 X0025-01933 表 1  資料名に「法事」の語を含む資料のうち、油揚げまたは豆腐の記述があるもの

りしたことを示している。これらのことから、法事の際に豆腐などの食材を持ち寄ることは、江戸時代の 法事一般に際して行われていた生活文化と考えられる。また、法事が催される家に持ち寄られた豆腐や 油揚げは、通常は保存がきかないため、法事に伴う「お斎」や忌中の食事で食されたものと考えられる。

 表 1資料番号 5 の1731年(享保16)の事例では、「弐百文、油上ケ拾丁、但六ツ切、壱丁ニ付弐拾 文ツヽ」と油揚げの価格がみえる。価格がついていることから、店売りの油揚げと判断される。越前 において店で売られたことが確実な油揚げとしては古い例である。

 ( 2 )吉田郡勝見宗左衛門家文書 「正徳五年法事帳」の検討

 次に表 1中の法事関係資料を個別に検討する。資料番号 2 の資料は1715年(正徳 5 )の吉田郡上合 月村(現永平寺町)の勝見宗左衛門家で催された、「道味老拾七年忌取越(法事)」の際に寄せられた 音信(贈り物)や法事のための買い物、参列者、供え餅の配り方などが書かれた記録「正徳五乙未年 二月二十七日法事帳」(以下「正徳五年法事帳」と略記)である。

 「正徳五年法事帳」には、法事に伴う飲食のための酒・酢・菓子に次いで、「豆腐弐拾挺(丁)」と ともに「ゑ油四合五夕」、つまり荏胡麻(エゴマ)の油を購入したことが記録されている(写真 1)。

 また、「正徳五年法事帳」の綴じ紐には、この法事に伴う「非時・斎覚」ともいうべき献立の覚書 が結び付けてある(写真 2)。この覚書には、汁の実として「もミとうふ(揉み豆腐)」を記すほか、

「平 あけとうふ かきこふ からし」とあり、平椀に揚豆腐(油揚げ)が掻き昆布とともに盛りつ けられ、辛子が添えられたことがわかる(写真 3)6)

 ここで一つの推論を示す。「正徳五年法事帳」に添付された「非時・斎覚」(写真 3)には揚豆腐

(油揚げ)はみえるものの、「正徳五年法事帳」には購入品目として「揚豆腐」はみえない。一方、

「正徳五年法事帳」にはゑ油(荏胡麻油)と豆腐が購入されていることがみえる(写真 1)。よって、

この「非時・斎覚」にみえる揚豆腐は、購入したものではなく、手前で豆腐を荏胡麻油で揚げて作っ たものであると推論できる7)。また表 1資料番号 4 は、1726年(享保11)の大野郡皿谷村における松 浦家の法事関係資料であるが、法事入用をまとめた「覚」に「ゑノ油」と「とうふ」がみえるので、

吉田郡の勝見家の事例と同様に揚げ豆腐をつくった可能性が高いと考えられる。

 現在の市販の油揚げの多くは、江戸時代後期以降広く流通する菜種油で揚げられたものであるが

(菜種油については後述)、豆腐と荏胡麻油が同時に確認できるこの 2 つのケースは、江戸時代中期 における荏胡麻油で揚げた油揚げが存在したことを強く示唆する。

 なお、表 1資料番号 6 の資料にも「壱匁壱分 上ケ油弐合」とあり、これが荏胡麻油なのかは分か らないが、資料中の献立の記事には「上ケふ(揚麩)」と「上ケとほふう(揚豆腐)」がみえる。

 ( 3 )丹生郡両林家文書 「天明三卯二月一日二日法事取越覚」の検討

 次に表 1資料番号 8 の事例を検討する。資料は1783年(天明 3 ) 2 月 1 日の丹生郡新保浦両林家の 法事の状況を示すが、 3 名から持ち寄られた「豆府(豆腐)」計 9 丁が記録されている。同資料に記 録されたこの日の非時献立には「汁 焼豆府」、平に「上豆府(揚げ豆腐) からしかけ」、初夜献立 の吸物に「豆府」、坪に「せり(芹) 上豆府」、 2 日目の斎献立に「同(重引) せんまい白あへ