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「歩」

ドキュメント内 幸せな未来のために (ページ 114-148)

高砂市北浜町 槙野 翔太 ふと、目が覚めたあの時。隣には父がいた。家が揺れていた。これが地震だと知ったのはもっと先の ことだった。何も知らなかった。この地震が6434 人もの犠牲者を出したこと、火災があったこと、ラ イフライン停止、避難、ボランティア…。自分には、この日もいつもと同じ日常生活が用意されていた。

何に困ることもなく、いつもと変わりない1月17日だった。

『1月16日月曜日』

僕は生まれたときからずっと高砂に住んでいる。当時は、祖父・祖母・父・母・自分(5歳)・妹・弟 の 7 人で住んでいた。家は市街地から離れていたため近くには田んぼや畑があったり、川があったり、

山を越えれば海もあった。毎日保育園に行っては友達と遊んで、帰ってきてからは公園で野球や鬼ごっ こ、かくれんぼをして遊ぶのが何よりも楽しかった。1 月 16 日もそうやって過ごしていた。そして、

夜の8時にはいつものように布団に入り、2階の寝室で妹、弟と一緒に眠った。

『1月17日火曜日』

午前5時46分すぎ。本当に突然だった。「ゴォォー」という音は記憶にはないが、今まで体験したど の地震よりも大きな揺れ。何かのアトラクションに乗っている感じだった。恐怖までは感じさせるもの ではなかった。僕はその揺れで目を覚ましたが、父が隣にいて安心したせいか、すぐに寝てしまった。

妹も弟もこの揺れに全く気付かずに寝ていたという。揺れが収まるとすぐに、父と母が1階で寝ていた 祖父母の無事と家の中の被害はないか確認したが、祖父母は無事で僕の家には全くと言っていいほど被 害はなかった。

再び起きたのは7時ごろだった。テレビをつけると、朝から晩までずっとこの地震のニュースが報道 されていた。阪神高速が横倒しになり、長田で同時多発火災が起こり、ビルや家の倒壊…。最初は両親 も何があったのかわからなかったらしい。神戸と高砂。たった数十km違うだけなのに、被害はまった く違った。別世界だった。祖母は、あわてて神戸のハーバーランドに住んでいる親戚に電話したが、繋 がらなかった。しかし、社の親戚の方に電話してみると、ハーバーランドに住んでいる親戚は誰も怪我 なく無事だということを聞くことができた。無事を確認した後、父は市内にある職場へ、僕は母に連れ られ車で保育園へと向かった。

『あの日から数日後』

親戚がハーバーランドに行くと聞いたので、缶のジュースとカセットコンロのガスを持って行っても らうことにした。カセットコンロのガスは高砂や姫路でも売り切れている店が多かった。ハーバーラン ドに住んでいる親戚はマンションの5階に住んでいた。地震で大きく揺れ、窓ガラスは割れて破片がそ の辺り一面に飛び散っていた。ライフラインが寸断されてしまったため、エレベーターはもちろん止 まってしまい、水も出なかった。そのため、1階まで階段で降りて水をくみ、それを5階まで持って上 がってこなければならなかった。ライフラインが復旧するまで毎日そんな生活をしていたなんて、想像 できなかった。普段の何気ない生活がどれほど便利なものだったかを思い知らされたと言っていた。

『北浜小学校』

小学生になり、阪神・淡路大震災があったということはほとんど忘れかけていた。学校では毎年1月 17 日になると避難訓練が行われた。地震を想定したもので、たまに消防官の方が来てくださるときも あった。どの年もだいたい 10 時くらいに警報が鳴り、避難した後校長先生の号令により、あの震災で 犠牲になった方々に黙とうを捧げていた。この日だけは阪神・淡路大震災があったことを必然的に思い 出していた。また、小学2年の時に阪神・淡路大震災をモチーフとした映画を見たことがある。震災に よってマンションの1階部分だけが潰れて、小学生の女の子とその子の家族が死んでしまうというもの だった。僕は、震災の時神戸がどんな状況にあったのかよく知らなかったので、映画を見て小学生なり

に衝撃を受けたことを覚えている。

『鹿島中学校』

中学校に入学し、技術という授業が始まった。ある日のその授業中、担当の先生が唐突に「先生、阪 神・淡路大震災が起こったとき、ボランティアに行ったんですよ」と言い、そのときにボランティアで 何をしたかを話してくださった。その先生は同僚の先生と一緒に、当時の生徒とたくさんのおにぎりを 作り、避難所であった神戸市内の中学校へ持って行ったという。そこではボランティアをしている方々 がたくさんいたことに驚き、中学生、高校生といった若者も大人に混ざり受付や救援物資を配るなどの ボランティアをしていたことに感心した。その学校で先生はボランティアで仮設トイレの掃除をした。

言葉にできないくらい汚れていて、そんなトイレを見るのは初めてだった。そして、溜まっていた汚物 の処理をし、便器を磨いたとおっしゃっていた。小学生の時から人の役に立つことがしたいと思ってい た僕は、ボランティアの話を聞いて興味を持ったし、実際に自分もボランティアをしてみたいと思うよ うになった。

また、中学校になっても同じく1月17 日には毎年震災のことを忘れないために、犠牲になった方々 のことを思い出すために、避難訓練が行われた。しかし、震災から約 10 年が経っていたせいか、震災 を体験した人もいないせいなのか、いつもダラダラとした雰囲気で行われていて先生方や消防官の方が 怒鳴っていたのをよく覚えている。阪神・淡路大震災に対する意識がこっちではほとんどないような気 がした。今になり神戸との意識の差がはっきりとわかった。

舞子高校環境防災科の存在を知ったのは、中学3年になろうとしていた春で、本当に偶然だった。通っ ていた塾で模試があり、初めて志望校を記入することになった。それを書くために志望校一覧という紙 が配られ、その中に「舞子高校―環境防災科」と書かれていておもしろそうな学科だと思い、夏休みに 体験入学に参加させてもらった。面白半分で行ったはずだったのに、「災害と人間」や「環境と科学」

などの授業を受けてこの学科に興味を持つようになった。それが始まりだった。環境防災科は阪神・淡 路大震災について本当に震災を経験した人から講義してもらったり、ボランティアや環境問題について 勉強したり、また実際に地域に出て行き多くの人に防災を伝えているということを新聞紙上やホーム ページで知った。僕自身、このような活動にとても興味があった。この年、2004 年は新潟県中越地震 が起こった年で、自分も募金活動を校内で行うことになった。国内で災害が起こったということもある のか、本当に多くの生徒や学校周辺の方々が協力してくれ、たくさんの募金が集まり嬉しかったことを 今でも忘れられない。そんな活動もありボランティアには特に興味があった。そして、僕も環境防災科 の先輩方みたいに現地に行きボランティアがしたいと思い「この学科に入りたい」と強く望むように なった。このことが最終的な進路を決めた動機となった。

『舞子高校環境防災科』

環境防災科に入学してからは、毎日が今までの生活とは違い、遠くかけ離れた場所に来たみたいでと ても新鮮だった。授業がある度に外部講師の方が阪神・淡路大震災について話してくださったり、地震 や温暖化について学んだり、実際に淡路島の野島断層保存館や消防学校に足を運んで勉強したり、体験 し身体で覚えたりとその1つ1つがおもしろく毎日が充実していた。

入学してから、あっという間に3年間が過ぎようとしている。3年間いろんなことがあった。いろん な場所にも行った。東京に環境防災科の活動発表をしに行ったり、徳島や高知では現地の高校生と交流 をした。また、新潟県長岡市、石川県輪島市に行きボランティアをした。環境防災科でいろんな人と出 会い、防災・災害について多くの知識をつけることができた。そのような活動の中で「消防官になる」

という目標を見つけることができた。環境防災科は自分の人生で欠かせない存在になった。僕はこの環 境防災科を誇りに思う。

『未来に…』

都市が発達し災害が進化している今日、日本に住んでいる限りどこにいても災害は起こる。そのため、

防災は僕たちの生活から切っても切れない存在になりつつある。今後予想されている東海・東南海・南 海地震。それらの災害に対応するために早急に備えをしていかなければならない。阪神・淡路大震災か

ドキュメント内 幸せな未来のために (ページ 114-148)

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