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第 4 章 保革逆転を阻害した要因

第 2 節 権力資源と新たな集票戦略

第1節で分析対象の野党がどのような特徴・体質であったかを明らかにした。このよう な政党の体質・特徴が本節で詳しくみる権力資源との関係に関わってくる。本節では社会 党が権力資源としての総評、民社党の資源である同盟、公明党の創価学会、そして「権力 資源」を持ちあわせていない共産党の支持層・シンパをそれぞれ分析していく。

第1項 権力資源のありかたー労組を中心とした社会党・民社党—

まず社会党の権力資源であった総評から見ていきたい。まず総評を構成していた労組の 特徴は大きく分けて二つある。大企業の民間労組と官公労である。大企業の民間労組に関 しては、60年代頃からIMF-JC や同盟の設立によって総評の実質的影響力は低下していた。

1967 年には総評の民間組合数は同盟を下回っている。総評の階級色(労働者階級)を前面 に打ち出す労使対決型の指導は60年までには民間企業においては破綻していた。ここでい

う労使対決型とは「使用者(資本側)と距離をとり対決的な姿勢を取ることで労働者の利 益を図ること」と定義できるだろう。使用者と協調して労働者の利益拡大を図る労使協調 型は教条主義的社会主義者に言わせれば「資本側に敗北」したことであり「修正主義者」

として罵られることになる。だがどれだけ労使対決型の指導をおこなっても、資本主義体 制下においては限界が生じる。多くの人員を抱え総評の中でも戦闘力を有していた民間労 組である電産・炭労ですら資本側の攻勢に屈することになった。民間労組においても社会 党の支持率は急激に低下している。こうした総評に加盟する民間労組の多くは大都市に住 む都市中間層とほぼ重なる。

民間労組に代わって総評の中核を担っていくのが官公労である。官公労の特色は人数の 多さと全国津々浦々に組合員がいたことである。例えば官公労の中で最も戦闘力があった 国労は実働部隊として国民の足や物流の流通に直接影響を与える国鉄ストや順法ストを通 じて春闘の相場作りに影響を与えていた。さらに選挙の際には全国35万人の組合員を最大 限動員して選挙を支援した。1970年代中頃には衆参両院あわせて16人から18人の国労出 身議員を送り出していた81

こうした総評の左傾化の流れは社会党の動向と酷似している。これは社会党・総評ブロ ックの言葉通り社会党が権力資源の動向によって政治方針を規定されてきたことを如実に 示している。社会党が総評依存の権力資源に規定される以上75年のスト権ストを転機とす る総評の右旋回まで、社会党が総評から独立し現実路線へと舵を切るのは不可能に近かっ た。そして社会党の衰退もまた総評の衰退と不可分であった。だが忘れてはいけないのは、

社会党には年々得票数が減るとはいえ、労働組合に組織されなかった人々からも得票を得 ている。それが「平和主義」・「護憲」・「市民・住民運動」のさきがけとしての社会党のイ メージに投票した有権者層である。高畠の説明を用いれば以下のようにいえる。

。こうした官公労においては労使対決型の指導が依然有効であっ たと考えられていた。民間労組においては生産性の向上はそのまま企業の利益につながり、

やがては労働者の利益向上につながる。しかし官公労においては生産性の向上(=合理化)

は人員削減であり、労働者の利益には繋がりにくかった。こうした階級主義的闘争はある 程度の勝利を収めている。例えば64年には公労協が4・17ストを打ち出したことで、池田 首相と太田総評議長の会談で、公企業体賃金の民間準拠及び公労委裁定尊重の原則が確立 するなど一定の譲歩を得ることができた。71 年には国鉄側の生産性運に対して国労はこれ を粉砕する反マル生闘争を展開し勝利することができた。こうした官公労における階級主 義的な闘争の成功が75年のスト権ストとつながっていく。

81 NHK取材班『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻』日本放送出版協会、1996年、284

頁を筆者なりにまとめた。

元来、社会党への支持票は、労組以上に野党の主座としての期待票、革新共同戦線 票ともいうべきもので成り立っていた。それが足腰のない三万の党員でも一〇〇〇万 の票を集められる根本的な理由であった。従って、そういう条件が崩れたとき、社会 党が骨皮だけの労組票にやせ細って、全国的に第六党の座に落ち込む可能性は本来的 にあるといわなければならない。それを阻止してきたのは総評を先頭とする組合運動 と社会党が、戦後のあらゆる民主化闘争や平和運動の中核になってきたというイメー ジだった。しかし、市民運動や住民運動が社会党のほかに独自の運動を展開しはじめ たとき、そのイメージは崩れはじめた。82

もちろん60年代にかけて広範な国民の支持を失いつつあったのは言うまでもない。しか しながら、高畠のいうように野党の主座としてあるいは安保闘争に見られるような市民運 動の担い手としての社会党を支持する有権者は決して少なくなかった。総評の組織力低下 がはっきりと分かり始めた 60年代後半から70 年代にかけてこそ、都市青年・婦人・サラ リーマン層といった層を取り込む必要があった。このような層の多くは都市に住み、自民 党政治に不満を感じた層である。そして経済成長主義から私生活の充実を望む広範な国民 の層といえよう。この層が革新自治体の原動力だと言ってよいだろう。この層は「市民」83

民社党は社会党と比較すれば政党としての自律性を担保できた。その理由を挙げるなら ば2つ指摘できるだろう。

であり後に「生活保守層」と呼ばれるものである。

①. 総評と違い政治闘争に重きを置かない分だけ、総評ほどの強力な選挙協力が得ら れなかった。また都市層と企業都市に偏在しているため、全国的な展開ができ なかった。

②. 官公労・大企業以外にも中小企業を権力資源として獲得した。また創価学会に対 抗するために立正佼正会など宗教団体にもアプローチしていた。

さて同盟は総評と異なり資本の側に入り込むことで労働者の利益を図ろうとした。明確 に反共を掲げる同盟、民社党は資本側としても協力可能なパートナーであった。経団連が 政治献金を可としたのは自民党と民社党と新自由クラブだけであったことからも伺える。

また久米が指摘しているように同盟やIMF-JCに所属する企業別組合は「マイクロレベルで の生産性連合」84

82 高畠、前掲書、1980年、180頁。

を実現することで労働者の利益を実現したわけだが、前項で見たようにこ の労働者層と社会党の支持である官公労の労働者とは重複しない。即ち同じ労働者であっ

83 渡辺、前掲書で用いられている「市民」と同様の使い方を念頭に置いている。

84 久米、前掲書、143頁。

ても両党は棲み分けが出来ていた。だが両党とも労働組合の成長が止まれば党勢の勢いも 止まる宿命であり、加えて両党とも大企業・官公労中心であり労働組合に組織化されない 人々をどう取りこむかが課題であった。その取りこみに成功したのが共産党と公明党であ った。

第2項 権力資源のありかたー組織の拡大を目指した公明党と共産党—

両党は他政党と比較して拒否政党と図抜けていた。これは公明党が宗教政党であること、

共産党が前衛政党としてイデオロギー色を前面に打ち出していることからある種当然のこ とであった。しかし共産党・創価学会とも70年代にかけて懸命の組織拡充をおこない成功 してきた。これは労組依存のうえに組織拡大の努力を怠った社会・民社両党と異なる。で は両者はどのように信者・党員を拡大したのだろうか。その背景には高度成長・都市化が あった。そして強烈なイデオロギーという武器があった。高度成長は郡部から都市部への 大規模な人口移動をもたらした。これは勤労労働者として労組に吸収される一方で、労組 の組織化からもれる人々も出てくる。例えば社会の底辺層や自営業者、商工業者がその例 だろう。また都市化の進展で地縁的結合が失われ、人々のつながりは希薄化する。こうし た中で似たような境遇にある信者間・党員との間で密なコミュニケーションを提供する両 者は、このような孤独な人々に居場所を提供する機能を果たした。富田はこのように述べ ている。

誘わされた小さな会合に出席すると、自分と同じような悩みを抱く人がいて、それ をお互いに語り合っている。それだけで始めて参加した人は感動詞、それだけで初め て参加した人は感動し、それこそ初めて自分の悩みを語り、それを受け止めてくれる 人がいることに救いを感じられた。創価学会の少人数の集まりが、そうした場所を提 供してくれ、やがて熱心な信者となり、さまざまな教義を学び、そして折伏の成果で 団内での地位も確固としたものになってゆく。85

さらに創価学会の「真・善・益」といった現世利益の肯定は、貧困に苦しむ人々には信 仰によって現世利益が追求できることを意味した。まさに彼らにとって救いのように映っ たはずだ。これは創価学会だけの話ではない。共産党においても最小単位は地域のオルグ であり、創価学会同様の密なコミュニケーションの場であった。加えて共産党の社会主義 革命によって平等をもたらす思想は底辺に住む人々にとって魅力的であったと言える。こ

85 富田信夫「第七章 少数政党の歩みー公明党を中心にして」北村公彦編『現代日本政党史録 第三巻 55

年体制前期の政党政治』第一法規社、2003年、412−413頁。